第20章「見つかること」
涙が乾くころ、澪の中で、何かが、静かに反転した。
彼女はこれまでの人生を、もう一度、たどってみた。三十七の名前。消えた女。誰にも見せなかった顔。気配を消し、輪郭をなくし、いないも同然になる技術。それが自分を守ってきたとずっと信じてきた。
だが本当に守られていたのだろうか。
見つからないことは安全だった。同時に誰にも見つけてもらえないことだった。彼女はずっと、誰かに見つけてほしかったのかもしれない。気配を消す訓練の、いちばん奥で、ほんの小さな声がずっと、見つけてほしいと、泣いていたのかもしれない。
そしてひとりだけ見つけてくれた人がいた。
嘘の達人の、その隙間から漏れた一滴の本当を、見つけてくれた人が。
澪は立ち上がった。
涙の跡を拭って鏡の前に立った。そこに映る顔は、朝倉澪でも、消えた誰かでもなかった。名前のないただのひとりの女だった。久しぶりに見る自分の顔だった。
彼女は決めた。
任務を捨てる。レジェンドを捨てる。キャリアを捨てる。正体が露見すれば、彼女は二度と、この仕事に戻れない。業界ではそれをバーンと呼ぶ。焼かれるということ。だがもう構わなかった。守るために生きてきた壁を、自分の手で、焼き払う。
澪は自分の道具をひとつずつ机に並べた。
没収を逃れた本命の端末。花の合図に使うドライフラワー。マットレスの縫い目に隠していた薄い刃。どれも嘘のために磨いてきた道具だった。
彼女はそれらを見つめた。
これを捨てればもう運営担当官には戻れない。影の中の居場所も失う。けれどと澪は思った。これらは、ずっと、自分を守る道具だと思ってきた。本当は、自分を、ひとりに閉じ込める鍵だったのかもしれない。
守るべきは任務ではなかった。
この島で、たったひとり、彼女を見つけてくれた男だった。
彼女は操るのをやめると決めた。代わりに選ぶと決めた。生まれて初めて計算ではなく心で。
決意は固まっていた。だが、固まった決意の重さに、彼女はしばらく動けなかった。
これから自分がすることは、組織への裏切りだった。十数年忠実に従ってきた組織への。彼女はその組織に人生を預けてきた。名前も過去も感情もすべて差し出してきた。その見返りに、影の中の、わずかな居場所を与えられてきた。それを今自分の手で手放す。
手放しても惜しくなかった。それがいちばん意外だった。
マットレスの縫い目を解き、本命の端末を取り出した。
司令カラスへの定時連絡の時刻だった。澪は文字を打ち込んだ。短い一文だった。これまでの人生のどの報告よりも、重い一文だった。
「作戦を変更する」
送信した。
画面の向こうでしばらく沈黙があった。やがて返答の点滅が闇に浮かんだ。たった二文字だった。
「理由は」
澪は迷わなかった。
「守りたい人ができた」
送ってから、彼女は自分が、何年ぶりかに、本当のことを報告したのだと気づいた。
送信のあと、画面の光が、彼女の顔を青白く照らした。
たった今彼女は十数年ぶりに組織に背いた。レジェンドも、キャリアも、影の中の居場所も、これですべて失う。正体が割れた運営担当官に戻る場所はない。業界で言うバーン。焼かれるということ。
なのに不思議と後悔はなかった。守るために築いた壁を自分の手で焼き払う。寒い壁の中でひとりでいるより、焼け跡に立つほうが、ましだと思えた。少なくともそこには守りたい誰かがいた。
端末を置いた。窓の外で、夜明けの気配が、わずかに、空の縁を白くしはじめていた。
彼女はこれから何をすべきかを考えはじめた。
守るために。今度こそ。




