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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第19章「ひとりに戻る」

生放送の混乱のあと、番組は澪に脱落を告げた。


 表向きの理由は本人の意向だった。実際には羽鳥が彼女を盤面から外したのだ。澪は荷物をまとめ、明日の船で島を出ることになった。


 部屋で、彼女はスーツケースに服を畳んで入れた。手が機械のように動いた。任務は失敗した。標的を逃し正体を晒し何も持たずに島を去る。運営担当官としてこれ以上の失態はない。


 なのに不思議とその失態はどうでもよかった。


 澪の頭にあったのはひとつの目だけだった。崩れていく七瀬の目。信じていたものが抜け落ちていくあの目。それを思い出すたびに、胸の奥が、内側から削れていった。


 彼女は自分が何を失ったのかを、ゆっくりと数えた。


 守れなかったあの女。そして欺いたこの男。彼女が築いた壁は、自分を守るためのものだった。誰も信じなければ誰も失わずにすむ。そのはずだった。けれど壁は、失うことから守ってはくれなかった。ただひとりにしただけだった。


 壁の中で彼女は安全だった。そしてずっと寒かった。


 荷を詰め終えて澪は部屋を見回した。


 季節外れの上着。読みかけのふりをした文庫本。花のスケッチブック。すべて、朝倉澪という嘘を裏づけるための小道具だった。明日にはこの部屋からその嘘も消える。


 天井の隅で、カメラの赤い光が、まだ明滅していた。最後まで撮られている。けれどもう演じる気力は残っていなかった。澪は、ただ、ベッドの端に座って、膝の上で手を組んでいた。


 扉の外で小さな物音がした。


 澪は身構えた。だが足音はすぐに遠ざかった。彼女が扉を開けると、床に、紙袋がひとつ置かれていた。


 中にパンが入っていた。


 まだほのかに温かかった。小麦と酵母の匂い。あの浜辺で焼いたのと同じ匂いだった。澪の指が震えた。


 袋の底に小さな紙が折り畳まれていた。


 七瀬の字だった。短い一文だけが書かれていた。


「枯れ方には、その花の本当が出るって、言ってましたよね」


 澪はその場に、座り込んだ。


 彼女が仮面の下から、一滴だけこぼした本当の言葉。朝倉澪ではなく、名前のない彼女自身が、思わず漏らした言葉。七瀬はそれを覚えていた。


 彼は知っていたのだ。澪が嘘の塊だということを、たぶん、とうに感じていた。それでも、彼が見ていたのは、嘘の隙間からこぼれた、ほんの一滴の本当だった。彼はその一滴のほうを信じていた。


 騙された男が、騙した女に、最後に残したのは、責める言葉ではなかった。


 あなたの本当を見ていた。そういう声のない手紙だった。


 澪は紙袋に手を入れた。パンはまだほのかに温かかった。


 その温度が、指から腕を伝って、胸まで上ってきた。彼女は長いあいだ、温かいものを、手で受け取ったことがなかった。受け取るものは、いつも、冷たい情報か、冷たい金か、冷たい命令だった。誰かが、見返りも求めず、ただ温かいものを扉の前に置いていく。そんなことが自分の人生に起こりうるとは、思っていなかった。


 澪は温かいパンを両手で持った。


 ひと口かじった。塩気と小麦の甘み。素朴で飾りのない味。涙がひと粒頬を伝った。泣き方を忘れていたはずの彼女の目から、それは、ひとりでに、こぼれ落ちた。


 彼女は長いあいだそこに座っていた。


 窓の外で海が暗く鳴っていた。

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