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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第18章「完全なる喪失」

ここから先は、数秒の出来事だった。


 だが澪には、その数秒が、引き延ばされた永遠のように感じられた。


 スタッフを装った男たちが七瀬を取り囲んだ。表向きは進行の誘導だった。こちらへどうぞという体の。だが澪にはその動きの本質が見えた。対象の確保。帳面の押収。十数年前から常世が消したかったものを、今、回収する動きだった。


 澪の体が勝手に動いた。


 考える前に、彼女は七瀬とスタッフの間に、割って入っていた。


「待って」


 声が出た。台本にない声だった。屋敷中の視線がまた集まった。生放送のカメラが彼女を映した。


 羽鳥の表情がわずかに歪んだ。計算が狂った顔だった。


 その混乱の中で、ひとりの男が、静かに口を開いた。鵜飼だった。


「七瀬さん。その女はあんたを騙してる」


 時間が止まった気がした。


「その人はフラワーアーティストじゃない。あんたの親父さんの帳面を、奪うために、ここへ送り込まれた人間だ。あんたに優しくしたのも、全部、仕事だ」


 鵜飼がなぜそれを言ったのか。常世から七瀬を守るためか。澪を盤面から退かせるためか。あるいはその両方か。理由は今の澪にはどうでもよかった。


 七瀬が澪を見た。


 その目を澪は一生忘れないだろうと思った。


 驚きではなかった。怒りでもなかった。ただゆっくりと何かが崩れていく目だった。信じていたものが、足元から、音もなく抜け落ちていく目だった。


「……澪さん」


 七瀬の声がかすれた。


「本当なんですか」


 澪は答えられなかった。


 否定すれば嘘になる。彼女はもう彼に嘘をつきたくなかった。だが肯定すればすべてが終わる。彼女は口を開きかけて閉じた。その沈黙が答えだった。


 七瀬の手から力が抜けた。


 彼は帳面を胸に抱え直した。両手で。あの無防備な手で。澪に見せたいと思った、たったひとつの宝物を、今度は、澪から守るように。


「そっか」


 七瀬はそれだけ言った。


 責めもしなかった。なじりもしなかった。ただひとつ頷いた。その、静かな受け入れ方が、どんな罵倒よりも、澪の胸を抉った。


 彼は澪に背を向けた。


 スタッフの誘導も、カメラも振り切って、ひとりで、広間を出ていった。混乱の中で誰も彼を追えなかった。羽鳥さえ一瞬機を逃した。


 七瀬の背中が広間の出口へと消えていった。


 誰も彼を止められなかった。スタッフは台本にない展開に固まっていた。羽鳥でさえ一瞬機を逃した。生放送のカメラだけが、無言で、その背中を追っていた。


 参加者たちは、何が起きたのか、わからずに、顔を見合わせていた。鵜飼だけが澪をじっと見ていた。何かを見届けるような目で。


 澪はその場に立ち尽くした。


 カメラの赤い光が彼女を四方から映していた。生放送だった。何百万の視線が今彼女に注がれていた。気配を消す女が、光の中に、ひとり、取り残されていた。


 任務はまだ勝てる位置にあった。帳面はまだ奪える。


 誰かが彼女の名を呼んでいた気がした。番組の進行かスタッフか。声は水の底で聞くように遠かった。広間の熱気も、カメラの光も、観客のどよめきも、薄い膜の向こうにあった。


 澪はその膜の内側でひとり立っていた。手のひらが汗ばんでいた。心臓は速いのに指先は氷のようだった。引き金にかけるあの温度だった。けれど今引くべき引き金はどこにもなかった。撃つべき相手も、守るべき任務も、すべてが意味を失っていた。


 だが彼女の中で何かが死んでいた。


 あの夜握った手の感触がまたよみがえった。守れなかったあの女の手。そして今、自分の手で、もうひとり、失おうとしていた。今度は利用しきる前に。好きになってしまったぶんだけ、喪失は、深かった。


 彼女は生まれて初めて、任務の只中で、泣きたいと思った。


 泣き方を彼女はもう忘れていた。

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