第17章「最後のチャレンジ」
翌日、番組は最大の山場を迎えた。
最終カップリングを前にした、特別な生放送回だった。スタジオと島が中継でつながり、参加者は、これまで隠してきた「本当の気持ち」を、ひとりずつ告白する。視聴者が、その様子を、リアルタイムで見る。番組始まって以来の、最大の見せ場だった。
澪にとって、それは別の意味を持っていた。
生放送。普段より多くのスタッフ。乱れる進行。普段は死角のない屋敷に、いくつもの隙間が生まれる。回収の好機だった。七瀬の部屋から帳面を持ち出し、コピーを取り、外へ流す。混乱に紛れれば、できる。四十八時間の期限内に、確実に。
彼女はすべての段取りを組み立てた。冷たく、正確に。これは仕事だ。何百回もやってきたことだ。
そう、自分に言い聞かせた。
本番前、舞台裏は、張り詰めていた。
生放送の独特の緊張が、スタッフの動きを速くしていた。澪は、その慌ただしさの中で、ひとり、静かに、最後の段取りを確かめていた。七瀬の部屋の鍵。混乱に紛れる動線。回収の手順。すべて、頭の中で組み上がっていた。
ふと、桐谷と、目が合った。桐谷は、何も言わなかった。ただ、わずかに頷いた。気をつけて、とでも言うように。澪は、その視線の意味を、まだ測りかねていた。この女が、味方なのか、敵なのか。確証は、なかった。確証のないまま、本番の幕が、上がろうとしていた。
告白の順番が、回っていく。参加者たちは、震える声で、本当の気持ちを語った。涙があり、歓声があった。カメラは、それを余さず映した。
七瀬の番が、来た。
彼はあの帳面を、手に持って現れた。
澪の心臓が跳ねた。なぜ、それを持って。
「自分、うまく喋れないんで」
七瀬は照れたように言った。
「これ、親父のレシピ帳なんですけど。ここに来て、ひとりだけ、これを見せたいって思った人がいて。だから、その人に」
彼はカメラではなく、澪を見た。
屋敷中の視線が澪に集まった。スタジオの視線も。何百万の視線も。そして、その中に、別の種類の視線が混じっていた。真壁の目。羽鳥という、番組の腕利きプロデューサーの目。彼らは、七瀬の手の帳面を、食い入るように見ていた。
澪は悟った。
今、帳面が、衆目に晒された。常世はこれを待っていた。番組の最大の見せ場は、帳面を表に引きずり出すための、罠だったのかもしれない。羽鳥が小さく、誰かに合図を送った。
動くなら、今だった。
澪は自分の手が動こうとするのを感じた。混乱に紛れ、帳面を奪い、任務を終える。その一手は、彼女の指先に、もう準備されていた。何百回も繰り返した、馴染んだ動きだった。
だが、指が止まった。
七瀬がまっすぐ、彼女を見ていた。世界でいちばん無防備な目で。これを見せたいと思った人。その人に。
澪は動けなかった。
澪の中で、二つの自分が、引き合っていた。
ひとりは、運営担当官だった。冷たく、正確に、任務の完遂だけを命じる声。奪え。今だ。これは仕事だ。相手が誰かなど、関係ない。何百回も、その声に従ってきた。従えば、楽だった。考えずにすんだ。
もうひとりは、名前のない、ただの女だった。浜辺で、本物の顔で笑った女。その女が、初めて、はっきりと、嫌だと言っていた。この人だけは、嫌だ、と。
二つの声が彼女の体の中で、せめぎ合った。
奪えば、彼を焼く。奪わなければ、任務に背く。どちらを選んでも、何かが、決定的に壊れる。彼女は人生で初めて、自分の技術を、使えなかった。
その、彼女が止まった一瞬の隙に、別の手が動いた。
羽鳥の合図で、スタッフを装った男たちが、七瀬へと近づいていく。
澪が躊躇したぶんだけ、常世が、先に動いた。




