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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第16章「運営したエージェント」

朝倉さんって、本当は誰ですか。


 その問いに澪は答えなかった。答えられなかった。彼女は曖昧に微笑んでその場を離れた。背中に七瀬の視線を感じた。追ってはこなかった。彼は待つ人だった。


 部屋に戻り澪はベッドの端に腰を下ろした。手が冷たかった。喉の奥の、いつもの冷たさが、今日はやけに強かった。


 彼女は思い出したくない場所の鍵を、自分で開けてしまった。


 何年も前のことだ。澪はひとりの協力者を運営していた。協力者とは、敵側の内部にいて、情報を渡してくれる現地の人間を指す。業界ではエスあるいはアセットとも呼ぶ。澪のような運営担当官は、彼らを見つけ、信頼させ、動かす。同時に彼らの恐怖を和らげ孤独を支える。協力者にとって運営担当官は、唯一、本当の自分を見せられる相手になる。


 その協力者は若い女だった。


 彼女は祖国を裏切ることに怯えていた。澪はその手を握り大丈夫だと言い続けた。あなたは正しいことをしている。私が必ず守る。何度もそう囁いた。女は澪を信じた。澪だけを信じた。


 澪はその信頼を利用した。利用して情報を引き出した。


 そして守れなかった。


 ある夜受け渡しの場所に女は現れなかった。翌朝彼女が捕らえられたと知らされた。数日後処刑されたと。澪は何もできなかった。組織は作戦の継続を優先した。澪は別の任務へ回された。女の名前は記録から消された。最初から存在しなかったことになった。


 最後に会った夜のことを澪はよく覚えている。


 女は怯えていた。もう続けられないと言った。澪はあと一度だけと頼んだ。あと一度、情報をくれれば、必ず、安全な場所へ逃がす。約束する。女は澪の目をじっと見た。あなたを信じていいと聞いた。澪は頷いた。迷いなく頷いてみせた。


 それが最後だった。約束は果たされなかった。組織は、女を逃がすより、作戦を続けることを選んだ。澪は逆らえなかった。逆らうという選択肢を、当時の彼女は、持っていなかった。


 知らせは三日後に届いた。


 協力者の女が捕らえられ処刑された。澪はそれを一枚の報告書で知った。淡々とした事務的な文面だった。作戦への影響は軽微と最後に書かれていた。


 軽微。


 澪はその二文字を長いあいだ見ていた。ひとりの人間の命が、軽微という言葉で片づけられていた。


 彼女は泣かなかった。泣くことを組織は求めていなかった。次の任務の指示がその日のうちに届いた。澪はそれに従った。従う以外の生き方を知らなかった。


 澪が握ったあの手の感触だけが消えなかった。


 その夜から澪は壁を作った。誰も信じない。誰にも本当の自分を見せない。信じれば利用する。利用すればいつか守れずに失う。だから最初から誰のことも近づけない。


 それは身を守る壁のはずだった。


 喉の奥の冷たさが、その夜は、いつにも増して強かった。


 澪はその冷たさの名前を知っていた。罪悪感だった。何年も、抽斗の奥に押し込んで、鍵をかけてきた感情。けれど鍵は完全には閉まっていなかった。花を扱うたびに、誰かの手を握るたびに、その冷たさは、隙間から滲み出してきた。彼女はそれをずっと見ないふりをしてきた。


 今澪は気づいていた。あの壁は自分を守っていたのではない。自分をひとりにしていただけだ。


 そして、彼女は、また同じことをしようとしている。


 七瀬結の手を握り信じさせ利用し焼く。あの女にしたことを、もう一度、なぞろうとしている。違うのは、今度は、自分が、相手を好きになってしまったことだけだ。


 澪が、この仕事に就いたのは、二十歳のころだった。


 身寄りがなく、行き場のなかった彼女に、組織は、居場所を与えた。お前には才能があると司令は言った。人の心を読み人を動かす才能が。その言葉が当時の彼女には救いだった。誰かに必要とされた。それが嬉しかった。


 訓練は過酷だった。表情を消す。痛みに耐える。嘘を呼吸のようにつく。気配を消し群衆に溶ける。何年もかけて、澪という人間の輪郭は、少しずつ削られていった。


 残ったのは技術だけだった。


 いつからか、彼女は、自分が何者だったかを、思い出せなくなっていた。本当の名前さえ口にしなくなって久しかった。


 あの女の手の感触を澪は今も覚えていた。


 受け渡しの前いつも女の手は震えていた。澪はその手を握り大丈夫だと言い続けた。あなたは正しいことをしている。私が必ず守る。その言葉を女は信じた。澪だけを信じた。澪はその信頼を握りしめて情報を引き出した。そして守れなかった。


 組織は作戦の継続を優先した。澪は別の任務へ回された。女の名前は記録から消された。最初から存在しなかったことにされた。残ったのはあの震える手の感触だけだった。


 彼女はその手をもう一度思い出していた。そして今、もうひとりの手を、同じように、握ろうとしている。


 マットレスの縫い目を解き端末を取り出した。


 司令カラスからの点滅が待っていた。短く硬い文だった。


「四十八時間以内に回収。手段は問わない。これは最終指示だ」


 澪は画面を長く見つめた。


 四十八時間。あの女のときと同じだった。組織はいつも時間で人を追い詰める。時間がなければ人は考える前に動く。澪はそれを知っていた。知っていていつも従ってきた。


 今度も従うのか。


 窓の外で波の音がした。低く絶え間ない音だった。彼女は端末を握ったまま、夜が明けるまで、動かなかった。

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