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スパイが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第15章「矛盾」

足音は、澪の手前で止まった。


「動くな」


 低い声だった。真壁ではなかった。鵜飼だった。


 闇の中で、ふたりは向かい合った。互いの輪郭さえ見えない。だが、互いが何者であるかは、もう、わかっていた。


「あんたも、あの帳面が目当てか」


 鵜飼が言った。澪は答えなかった。沈黙が肯定だった。


「忠告しておく。あんたの後ろにいるのが誰だろうと、常世には勝てない。あの男から手を引け。手を引かないと、あんたごと処理される」


 鵜飼の声には、奇妙な切実さがあった。脅しではなかった。警告だった。同業者として、同じ盤面に立つ者として、彼は澪に手を引かせようとしていた。


「あんたは、誰の手の者なの」


 澪が初めて口を開いた。


「さあな」


 鵜飼はそれだけ言って、闇に溶けた。


 灯りが戻ったとき、廊下に澪はひとりだった。カメラの赤い光が、何事もなかったように、また明滅していた。停電は、数分だった。だが、その数分が、盤面を裏返した。鵜飼は、敵ではないのかもしれない。少なくとも、常世の敵ではある。


 澪は混乱していた。


 誰が味方で、誰が敵か。線が引けない。引けないまま、夜が明けた。


 そして、その朝、別の崩壊が起きた。


 七瀬が、彼女の嘘に、気づきはじめた。


 きっかけは、些細なことだった。澪が、ある花の名前を間違えた。前に言った産地と、違うことを言った。フラワーアーティストなら、間違えるはずのないことだった。疲れていた。眠っていなかった。仮面の手入れが追いついていなかった。


 その朝、澪はひどく疲れていた。


 夜通し、誰が敵で誰が味方かを、数え続けていた。眠っていない。仮面の手入れが、追いついていなかった。化粧の下の皮膚が、強張っているのが、自分でもわかった。彼女はいつもの完璧な笑みを、無理やり貼りつけた。だが、その笑みは、ほんの少し薄かった。


 そして、ほんの少しの綻びを、七瀬は見逃さなかった。


「あれ。前は、北のほうで仕入れたって言ってませんでした?」


 七瀬が何気なく言った。詮索ではなかった。ただ、覚えていただけだ。彼は、澪の言葉を、ひとつひとつ、覚えていた。


 澪は笑ってごまかそうとした。


「そうでしたっけ。私、おっちょこちょいで」


 いつもなら、それで流せた。だが、七瀬は首をかしげた。


「澪さんの言うこと、たまに、つながらないときがあって」


 彼は責めていなかった。ただ、不思議そうだった。パンの発酵を見るときの、あの、じっと観察する目で、彼女の輪郭の、合わない部分を見ていた。


 七瀬は、責めていなかった。ただ、不思議そうだった。


 パンの発酵を見るときの、あの観察する目で、彼は、澪の輪郭の、合わない部分を見ていた。多くの者は、矛盾を突きつけられると、勝ち誇るか、責め立てる。だが七瀬は、どちらもしなかった。ただ、合わないな、と首をかしげただけだった。その無防備さが、かえって、澪を追い詰めた。


 彼女は、嘘で武装した相手なら、いくらでも切り返せた。だが、武器を持たない問いには、返す刀がなかった。


 澪の心臓が速くなった。


 まばたきを止めないように、意識した。意識すること自体が、不自然だった。彼女の完璧な仮面が、七瀬の前で、少しずつ、剥がれかけていた。剥がれかけているのに、止められない。彼の前でだけ、本当のことを言いたくなる衝動が、せり上がってくる。


 それは運営担当官にとって、致命的な感情だった。


 七瀬が彼女をまっすぐ見た。声を落として言った。カメラに拾われるか拾われないか、ぎりぎりの音量で。


「澪さん」


 澪は息を止めた。


「朝倉さんって、本当は、誰ですか」


 潮の匂いが、急に濃くなった気がした。


 彼女が三十七回隠し通してきた問いを、火傷の痕のある手の男が、世界でいちばん優しい声で口にした。

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