泣き顔
彼女の泣き顔は綺麗だった。画面の向こう、透明なままに頬を伝い落ちる涙はただ美しい。深緑の葉より滴る雫のように。
対して私のは、機械から漏れる重油の濁りをしていた。ねっとりと肌に染み込んで、流れないまま、翌朝に白く痕を残す――そんな涙だった。鏡の向こうの泣き顔は、ひどく醜かった。
生まれ育ちは同じはずだった。一卵性だからよく似ていると言われていた。それなのに、いつからか私たちは変わっていった。彼女ばかりが可愛がられるようになった。
雪の降らない珍しい冬だった。小さい頃、年末に親戚の家を訪れた折——、
「よく来たね」
と、そう言って微笑む祖母と、目が合うことはなかった。その皺だらけの手は、隣の姉の頭を撫でるだけだった。その態度は祖母だけではなかった。
姉はその頃から舞台に立っていた。彼女の演技はこちらの感情を揺さぶるものだった。大人たちが魅了されるのも仕方がないと思った。そして、遂にはテレビドラマ、映画と出て、天才子役ともてはやされた。
同じ顔なのに、何が違ったのだろうか。一方、私は学校にも行かなくなった。小学校、中学校とずっと部屋に籠った。初めは両親も気に掛ける素振りはあったが、部屋の戸をノックすることすらしなくなった。
それでも、姉だけはいつも部屋に来てくれた。鍵をかけていれば、それを工具で壊してまで中に入ってきた。ゲームをしたり、他愛もないことを話したり、その時だけは笑っていられた。
高校進学に際して姉が上京することとなった。その見送りに、久しぶりに外へ出た。両親の白髪と皺の数が増えていた。まだ肌寒い中、庭先の梅は花を咲かせていた。
別れ際、小さく手を振った。すると、姉がその手を握り耳元で囁いた。
「大丈夫だからね」
冷えた手がするりと抜けて、彼女は去っていった。それから、私は相変わらずの暮らしをした。両親もそうだった。
姉が上京してから二度目の冬——。暖房の効いた部屋でいつものようにスマホの画面を眺めていると、電話がかかって来た。それは姉からだった。偶にテキストでやり取りはしていたが、その日は違った。
「もしもし」
三回コールを待ってから電話に出た。
「久しぶり。元気してる?」
「うん、元気だけど‥‥。どうしたの?」
「あのね、動画、見て欲しくてさ」
「‥‥動画?」
「うん。今から送るんだけど、ちゃんと見てね」
「わかった」
「じゃあ、それだけだから。風には気を付けるんだぞー」
そうして電話は切られた。その後、直ぐに動画が送られてきた。
再生すれば、暗い部屋に蝋燭の炎だけが揺れていた。画の変わらないまま十数秒して、炎の朱色に乳白の肌が浮かび上がった。次第に露になったのは女の顔。すると、乱れ髪に彼女は微笑む。色の薄い唇がほんのわずか緩むだけの控えめな笑顔。それが、画面に薄く映る私の顔と重なった。女は次に、顔を斜めに伏せた。黒の長髪に隠された表情——炎だけがまた揺れていた。数舜の沈黙の後、小さく何かが聞こえた。伴って、彼女の頭が微かに動いた。そして、ゆっくり彼女は顔を上げる——。闇をも飲み込む黒々とした瞳が、潤んでいた。さらに、すうっと目端から涙が零れ、右頬を伝う。一筋の線が輝いていた。鼻をすする乾いた音が、今度は確かに聞こえた。最後、女は、目元を隠すように袖で涙を拭うと暗闇の中へ消えていった。蝋燭の炎がぱっと消えて、その動画は終わった。
”見たよー。”とメッセージを姉に送った。しかし、返信が来ることはなかった。
映画のラストシーンを撮り切る前に、姉はこの世を去った。葬式を終えると、監督が私の前で頭を下げた。
「続きを、君で撮らせてくれないか。きっと彼女も望んでいる」
断った。それでも監督は、何度も頼み込んできた。
「泣くだけでいい、ただそれだけで完成するんだ」
彼はそう言った。泣くだけ。
「‥‥わかりました」
そう言うと、監督はギュッと力強く手を握って来た。熱い手だった。
その晩、鏡の前で泣く練習をした。姉が死んでから初めて泣いた。それから毎日鏡の前で泣いたが、あの画面の向こうにあった綺麗な泣き顔はまだ遠くにあった。




