罰なき男
二階建ての木造宿の戸がベルを鳴らし、男が一人通りへと出た。薄汚れの服に青い顔をした男は、時折足を止めると、えづく様に口元を抑えた。人々は、しかめ面に彼を避けて往く。中には鼻をつまみ睨みつける者もいた。通りの建物三つも過ぎない頃、男は遂に喉から締め出す声と共に胃のものを吐き出した。黄色の液体が滝の様に落ち、丁度、細い路地へと続く隅に吐瀉物が溜まりを作る。そこには液体しかなかった。食道から口まで胃酸に焼かれ、男はまたおぼつかない足取りで真白な日の元を歩き始めた。
彼が酒に溺れ半年が経つ。はじめは小さな酒瓶一本だった。それが次第に増え、今では一日に大瓶を二本空ける。寝付けない夜を誤魔化すように、彼は毎晩酒瓶を傾けた。
そうなる前、彼は真面目とも足りない、憑りつかれたように働いていた。各地を渡り歩き、橋を架け、水路を通し、道を拓く手伝いをした。山を穿ち、村と街を繋ぐ一躍を担うこともあった。しかし、わが身を惜しむ忙殺ながら懐に入れるのは日々食べるだけに留めていた。
そんなある日のこと。彼が道を作るために木を斬り倒していると、ふと足元に一匹のカミキリムシが留まった。男は「危ないぞ」とそっと手ですくい、そのカミキリムシを離れた所へ放った。そして、彼が仲間とノコギリで木の半ばまで切り進めると、太もものあたりに再びカミキリムシが留まっていた。
「すまない、少しだけ」と男は手を止め、カミキリムシをまた離れたところへと離した。
「なんだ、どうかしたのか」
戻った男に、仲間が尋ねた。
「いや、虫がな」
「お前、虫なんて気にしたらこの仕事できねえだろう」
「‥‥‥ああ、そうだな。すまない。やろうか」
男は目を伏せつつ、淡白に応えるとまたノコギリの柄に手をかけた。
それは、木が傾きかける寸前。ミシミシと音を立て始めたために男たちはその場を離れた。ゆっくりと、木が倒れいく間に何かが羽音を立て、男の元へと飛んだ。ドンと木は僅かに跳ねてから倒れた。仲間は、その行く末を眺めふうと額の汗を拭う。一方、男は——胸元に留まるカミキリムシと見つめ合っていた。
倒れた木の丁度隠していた日が、男を晒す。
彼の瞳は大きく開き、呼吸が浅い。さらに指先は震える。
小さな丸い瞳は、男の胸に張られた一本の糸に刃を立てていた。
「うおおおああああっっ」
男は雄叫びを上げ、カミキリムシを手で追い払うと大きく息を吸った。
「おい、大丈夫かっ」
心配した様子で駆け寄る仲間に、男は静かに頷いた。
「ああ。大丈夫だ」
その晩から男は眠れなくなった。
夕暮れに、遠くの山は燃える。男は二日酔いに練り歩いた末、街はずれの墓地を訪れていた。
そよ風浴びる中、並ぶ墓石の一つを前に男は立つ。そして、袖のよれたジャケットの内ポケットから小型の拳銃を取り出した。
銃口は自らのこめかみに——引き金に指がかかる。
墓の主は、五年前に男が殺した妹の婚約者。
日々の暴力を聞き、男はその晩クローゼットに身を潜めた。するとやはり、帰って来た婚約者は妹に拳を振り上げた。男は咄嗟に間に割って入る。一発頬にもらいつつ、男は相手を睨みつけた。
「ふざけるなっ。妹に何してくれるんだっ」
男が怒鳴りつけると、婚約者は瞳孔を大きく開いた。突如、キッチンへ向えば包丁を手にリビングへ戻って来た。
「おいっ、落ち着けっ」
妹の泣き叫ぶ声が、近隣まで響いていた。
婚約者は男へ突進し、包丁でその腹を突き刺した。寸前で男は横へ避け急所を外したが、血が溢れる。それでも男は力を振り絞り、胸ポケットに差したペン先を相手へ向けて突き刺した。それは丁度、彼の瞳を突き破り、奥の脳までをも貫いた。ぐったりと、両者が倒れる中、病院へ運ばれ男だけが助かった。そして、判決の結果、男は無罪を言い渡された。
——パンッ。
硝煙が日の落ちる空へと昇る。
男はようやく穏やかな表情で眠りについた。




