扇
息を継ぐ間もなく駆けてゆくと、優の言う小山にたどり着いた。この辺りは山からくる水脈に接していると、伊織は言っていた。この山のことだろうか。
足を踏み入れると木々で月の光が遮られ、自分の体も薄い闇にまぎれるようだった。
湿った夜気を含んだ風の匂いが強く香ってゆく。
——と、押し殺すような囁き声がした。
「すぐこの近くにいるはずだ。御身に大事ないよう、必ずお連れしろ」
その声の近さに桜子は青ざめた。
足音も何も聞こえなかったため、まだ追われていないと思っていたのに。
——この人たちは、本物の忍なんだ。
足跡も残さず走ることができる。
それでは見つかるのも時間の問題だった。とても優を待っていることはできない。と、強く握りしめているものの存在に、今さら気づいて桜子は手元を見た。
——そうだ、今はお母さんの扇がある。
これがあれば、薫のところに行けるのではないか——
もともとそのために妻戸を開けたことを桜子は思いだした。思わぬ事態になってしまったが、あの邸を抜けだした今が好機だった。
——たとえ体がもたなくなるにしても、ここでつかまってしまうより良いはずだ。
桜子が扇を広げると、それは鮮やかな紅の色に染まった。月の光に吸い込まれるように、手のひらを返して闇を切りひらく。
最初の型の足拍子をとらえるまでもなかった。
扇を手に返した桜子は、見えない闇に呑み込まれるように、直後その場から失せて消えてしまった。




