のんびり放浪記7
結局、仕事には盛大に遅れた。
教会の鐘が三度鳴った時点で既に嫌な予感はしていたが、中庭から表へ出る頃には朝の涼しさなどとうに消え、通りには荷車が行き交い、露店からは昼飯の仕込みらしい匂いまで漂い始めていた。
どう考えても、今さら「少し遅れました」で済む時間ではない。
「……終わった」
私が呟くと、横を歩いていたリラがこちらを見上げた。
「何が?」
「仕事」
「しごと?」
「そう。私の今日の仕事」
昨日までなら返事すらなかったくせに、名前を教えてから急にぽつぽつと言葉を使うようになった。ただし何でも喋るわけではなく、こちらが話しかければ一言返すかどうかという程度だ。
それでも、ずっと無言だった時よりはだいぶマシだった。
「ウバメ、しごと」
「そうだよ。私は働かないと飯が食えないの」
「りらも?」
「お前は今はいい」
「なんで?」
「子どもだから」
「こども?」
「……多分」
朝、神官から聞いた話を思い出す。
見た目は五つか六つくらい。しかしエルフという種族は成長が遅く、この見た目でも十年以上生きている可能性があるらしい。
そう言われると、目の前をちょこちょこと歩くこいつをどこまで子ども扱いしていいのか分からなくなる。
「お前、何歳?」
「…………」
「知らない?」
こくり。
「自分の歳知らないの?」
もう一度、こくり。
「……私と一緒か」
思わず笑った。
私も、自分が何歳なのか正確なところは知らない。まぁ、身体がこれだけ育っている以上、リラよりはずっと年上だろう。
多分。
「で」
私は足を止めた。
「何でお前までついてきてんだよ」
リラも立ち止まる。そして当然のように、私の服の裾を掴んでいる。
教会を出る時、神官のマリエラは何とも困った顔をしていた。
『無理に引き離して、また強い不安を与えるのも良くありません』
『じゃあどうするの』
『今日一日だけ、あなたと一緒に過ごしてみていただけませんか』
『仕事あるんだけど』
『仕事場の近くにいさせてもらうことは?』
『無理でしょ』
『聞いてみなければ分かりません』
なんてことを言われた。
他人事だと思いやがって。
でも、リラは私が立ち上がれば一緒に立つし、止まれば止まる。教会の人間が近づけば私の後ろへ隠れる。
これではどうしようもない。
なので、
『今日だけだからな』
という、ここ数日で何度目になるか分からない言葉とともに連れてきた。
「いいか、リラ」
「うん」
「仕事場ってのは危ないんだ。でっかい石がある。木材もある。道具もあるし、上から何か落ちてくるかもしれない」
「うん」
「だから勝手に歩くな」
「うん」
「私の近くにも来るな」
「…………」
「そこは返事しろよ」
「やだ」
「何でだよ」
「ウバメ、ちかく」
「危ないって言ってるだろ」
リラはしばらく考えた後、私の裾をさらに強く握った。
「……話聞いてた?」
「きいた」
「じゃあ離せ」
「やだ」
「何でそこだけ妙に意思強いんだよ」
どうにもならない。
現場が近づくにつれて、聞き慣れた怒鳴り声や石を割る音が響いてきた。
この仕事場は、親方を中心に何人かの職人が固定で入り、その下にその日その日で集められた人足がつく。だから十二日も働いていれば顔を覚えた奴はそれなりにいるが、昨日初めて見たような奴が混じっていることも珍しくない。
親方は当然、私が雌だと知っている。
他にも知ってる奴はいる。
ただし、知らない奴の方が多い。
何せ最初についた呼び名が、
『犬のあんちゃん』
だ。
一度広まった呼び名ってのは、なかなか消えない。
いちいち訂正するのも面倒なので、最近では犬と言われた時だけ怒ることにしている。
犬じゃねぇし。
「……絶対面倒なことになる」
「めんど」
「それ覚えんなって昨日言っただろ」
「めんど」
「楽しそうに言うな」
◇
「おっせぇぞォッ、ウバメェ!」
予想通り、現場に足を踏み入れた瞬間、親方の怒鳴り声が飛んできた。
「すいません」
「何がすいませんだ! もう昼になっちまうぞ! てめぇ昨日はさっさと風呂行くっつって――」
ずかずか歩いてきた親方の足が止まった。
視線が私から、その横へゆっくり下がる。
リラは私の後ろへ半分隠れた。
「何だ、そのチビ」
「色々あって」
「どんな色々があったら仕事場にガキ連れてくることになんだよ」
「私も知りたいですよ」
その声で気づいたのか、周囲の人足どもも次々に手を止める。
「何だ何だ?」
「犬のあんちゃん来たぞ」
「遅ぇなぁ」
「おい、何か連れてるぞ」
「娘か?」
「…………誰が」
声のした方を見る。
見覚えはある。
確か三日前くらいから来ている男だ。
つまり。
多分知らない。
「いや、あんちゃんの娘じゃ――」
「その前に」
「あ?」
「犬じゃねぇ」
「あ、そっち!?」
「そっちだ」
周囲から笑い声が上がる。
性別まで説明するのは面倒なので放っておく。
「でもよぉ、その子――」
「昨日、人攫いから助けた」
「お、おう」
「だから娘じゃない」
「そういうことか」
男は納得したように頷いた。
隣にいた古株の人足が、その後頭部を軽く叩く。
「おめぇ、余計なこと言わねぇ方がいいぞ」
「何でだよ」
「その犬のあんちゃん、女だから」
「え」
「…………」
男。
私。
男。
胸元。
「見るな」
「すんません!」
「だから言ったろ」
「いや、分かんねぇって!」
「聞こえてるぞ」
「すんません!」
親方が頭を抱えた。
「朝からうるせぇ奴らだなぁ」
「もう昼ですよ、親方」
「誰のせいだと思ってんだ」
私だ。
それは認める。
「で、その子は?」
親方が今度は少し声を落とした。
「昨日、人攫いから助けて衛兵には引き渡したんですけど、この子だけ身元が分からなくて。教会に預けようとしたら、まぁ……この通りで」
親方がリラを見る。リラは私の腰の後ろから片目だけ出して、親方を見返していた。
「……なるほど」
「何がです?」
「お前から離れねぇのか」
「まぁ」
「懐かれたな」
「迷惑してます」
言った瞬間、服の裾を掴んでいた小さな手が、ほんの少し緩んだ。
「…………」
しまった。
「いや、その。嫌ってわけじゃなくて」
「…………」
「仕事場は危ないから困るって意味で」
もう一度、裾を掴む。
何で説明してんだ、私は。
親方が吹き出した。
「笑うな」
「いやぁ、お前でもそんな顔すんだな」
「どんな顔ですか」
「知らねぇよ」
「じゃあ言うな」
親方はひとしきり笑った後、現場の隅を指差した。資材置き場から離れた場所で、壊れた荷車の車輪や空の樽が置かれている辺りだ。
「今日はそこにいさせろ」
「いいんですか?」
「しょうがねぇだろ。ここまで連れてきたもんを追い返せるかよ。ただし、現場の中を歩かせるな。何かあったら、お前ぇの責任だ」
「分かってます」
「あと、次からは連れてくるな」
「今日だけです」
「本当か?」
「…………」
「今、間があったぞ」
「今日だけです」
「二回言うと余計怪しいな」
◇
空の木箱を一つひっくり返し、簡単な椅子を作った。
リラをそこへ座らせ、昨日古着屋で買った服の裾を整える。
「ここにいろ」
「うん」
「勝手に動くな。何かあったら呼べ」
「うん」
「私はあそこにいるから」
修繕途中の城壁を指差す。
「見える?」
「みえる」
「じゃ、いい子にしてろ」
「いいこ?」
「大人しくしてろってこと」
「うん」
よし。
今度こそ仕事だ。
遅刻した分、しっかり働かないと日当を減らされかねない。
もっとも。
「親方」
「何だ」
「今日の日当」
「半分だ」
「は?」
「半日遅刻したんだから当たり前だろ」
「子ども助けてたんですよ」
「昨日の話だろ」
「今日も色々あった」
「俺は知らん」
「横暴だ」
「働け」
世知辛い。
「ウバメ」
後ろから声。
「何?」
「はたらけ」
「…………」
人足どもが笑う。
「教えんな! 余計なこと!」
「俺ら何も言ってねぇぞ!」
「今親方が言ったろ!」
「……あ」
「はたらけ」
「分かったよ!」
私は瓦礫の山へ向かった。
◇
仕事を始めてからしばらくの間、どうにもリラが気になって仕方なかった。
大きな石を持ち上げては、ちらり。
いる。
瓦礫を運んでは、ちらり。
いる。
積み直して、またちらり。
やっぱりいる。
「……なぁ、あんちゃん」
「何」
一緒に作業していた男が、にやにやしながら話しかけてきた。
さっき私が雌だと知って驚いていた、三日前から来ている男だ。
「子守って大変なんだな」
「子守じゃない」
「さっきから十回は見てるぞ」
「危ないから確認してるだけ」
「それを子守っていうんじゃねぇの?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
「…………預かってるだけ」
「それ、子守じゃねぇか」
「殴るぞ」
手に持っていた石を見た男が、一歩離れる。
「何でだよ!」
「何となく腹立った」
「理不尽だろ!」
もう一度だけ確認しようと、何気なく振り返る。
「…………」
いない。
「…………リラ?」
石を置いて周囲を見る。
「リラ!」
「ここ」
声はすぐ近くからした。
見ると、いつの間にか私のすぐ横に立っていた。
「お前!」
「うん」
「動くなって言っただろ!」
「うん」
「じゃあ何でここにいる!」
リラは答える代わりに、両手を前へ出した。
小さな石を抱えている。
「……何それ」
「いし」
「見りゃ分かる」
リラはその石を、私たちが瓦礫をまとめている場所にちょこんと置いた。
「しごと」
「…………」
周りの人足どもが黙る。
一拍遅れて、誰かが吹き出した。
「笑うな!」
「いや、かわい――」
「言うな!」
「何も言ってねぇだろ!」
リラはそんな騒ぎなど気にせず、また小さな石を拾おうとする。
「仕事しなくていいんだよ、お前は」
「ウバメ、しごと」
「私は大人だから」
「りらも」
「お前は子ども」
「こども?」
「そう」
「……ちがう」
「え?」
リラは少し考え、それからゆっくり言った。
「りら、こども、ちがう」
来た。
エルフ問題。
「じゃあ何歳?」
「しらない」
「それじゃ分からないんだよ」
本人も分からない。
困った。
「とにかく、石は運ばなくていい」
私はリラの肩を掴み、元の木箱へ連れ戻す。
「ここにいる。分かった?」
「…………」
耳がぺたりと下がる。
「……怒ってない」
「…………」
「危ないから言ってんの。怪我したら嫌だろ」
そこまで口にして。
止まった。
いや。
違う。
「……私が」
リラが顔を上げる。
何となく、目を合わせづらい。
「だから、ここにいろ」
「…………」
こくり。
「よし」
戻ろう。
そう思った時だった。
――ミシッ。
嫌な音がして、反射的に上を向く。
修繕途中の足場。その上に積んであった石材の一つがゆっくり傾き、支えていた木材が大きくしなった。
「おい!」
誰かが叫ぶ。
石がずれる。
落ちる。
その真下。
リラ。
「っ!」
考えた覚えはない。
ただ、身体が動いた。
一歩踏み込んで地面を蹴る。リラの小さな身体を抱え込み、そのまま横へ飛んだ。
――ドゴォンッ!
背後で石材が地面へ叩きつけられ、砕けた石と土埃が一気に舞い上がった。
「うわっ!」
「ウバメ!」
「大丈夫か!」
片膝をつく。
腕の中。
リラ。
「…………」
いる。
ちゃんと。
「リラ」
「…………」
「怪我は?」
頭。
腕。
脚。
ざっと見る。
「ない?」
こくり。
良かった。
その一言が頭に浮かんだ瞬間、ようやく息が戻った。
「ウバメ」
「何」
リラが私の腕を指差す。
「……あ」
前腕が少し切れていた。飛び散った石の破片でも当たったらしい。血が細く流れているが、大した傷ではない。
「こんなん平気」
「ち」
「うん」
リラの顔が変わった。
さっきまでよりずっと不安そうで、灰緑色の目が傷口へ吸いついている。
「大丈夫」
腕を軽く振ってみせる。
「ほら。これくらいすぐ治る」
「…………」
「本当に」
リラの小さな手が伸びてくる。
「おい、汚れるぞ」
その指先が、傷のすぐそばへ触れた。
ふわり。
「…………?」
一瞬だけ、風が吹いた。
風というより、匂いだった。
草。
濡れた土。
深い森。
昨日、あの馬車のそばで嗅いだものとよく似ている。
腕を見る。
流れていた血が止まっていた。
傷そのものは残っている。
けれど、妙に熱が引くのが早い。
「ウバメ!」
親方が駆けてきた。
「大丈夫か!」
「あ、はい」
「ガキは!」
「大丈夫」
「そうか……」
親方は大きく息を吐いたかと思うと、すぐに足場を振り返った。
「ったく! 誰だ! あんな積み方した馬鹿は!」
「す、すんません!」
「すんませんじゃねぇ! 下に人いたら死んでんぞ!」
怒鳴り声が飛ぶ。人足たちも集まり、崩れた石材や足場を確認し始めた。
私はもう一度、腕を見る。
小さな傷。
赤い筋。
それだけだ。
気のせいだったのかもしれない。
「ウバメ」
「ん?」
「いたい?」
私は傷を隠すように腕を下ろした。
「いや。全然」
「…………」
「ほら、戻ろ」
今度は木箱をもっと離れた場所へ移す。
「ここなら大丈夫。今度こそ動くなよ」
「うん」
リラが座る。
少しして、こちらを見上げた。
「ウバメ」
「何」
「しごと」
「……はいはい」
「はたらけ」
「分かったよ」
苦笑して現場へ戻る。
腕にはまだ、ほんのわずかに草の匂いが残っていた。
何だったのか。
少しだけ気になる。
でも今は、それより仕事だ。
「おい! そこ! 石ちゃんと積め!」
「へい!」
「次落としたら親方より先に私が殴るぞ!」
「何であんちゃんまで怒ってんだよ!」
「うるさい!」
少なくとも今日は、もう何も起きないでほしい。
心の底から、そう思った。
◇
夕方。
「ほら、今日の分」
親方が銅貨を差し出した。
受け取って数える。
「……六枚」
「昼前から働いたからな。半分より少し多めだ」
「親方」
「何だ」
「いい人ですね」
「気持ち悪ぃこと言うな」
「返す?」
「返せ」
「嫌です」
「じゃあ言うな!」
銅貨を懐へしまう。
「あと」
親方が私の横にいるリラを見る。
「明日は連れてくんなよ」
「分かってます」
「今日みてぇなことあったら洒落にならねぇ。教会に預けろ」
「はい」
「絶対だぞ」
「はいはい」
「返事が軽ぇんだよ」
親方が睨む。
リラはその横で私を見上げていた。
「ウバメ?」
「何」
「あした」
「うん」
「しごと?」
「そう」
「りらも?」
「…………」
親方が私を見る。
私も親方を見る。
「…………」
「連れてくんなよ」
「分かってますって」
分かっている。
本当に。
明日こそ教会に預ける。
今日一日一緒にいたんだ。少しは慣れただろうし、マリエラだっている。
きっと大丈夫。
多分。
「帰るぞ、リラ」
「うん」
私は現場を出た。
後ろから、小さな足音がついてくる。
数歩進んだところで立ち止まると、その足音もぴたりと止まった。
振り返る。
「何?」
「…………」
リラは私を見上げている。
私は少し迷った後、手を差し出した。
「……裾引っ張られると歩きにくい」
リラは差し出された手をしばらく見てから、そっと自分の手を重ねた。
小さい。
思った以上に。
その手を軽く握る。
「よし。飯行くぞ」
「うん」
「その後、風呂」
耳がぴんと立った。
「風呂好きになった?」
「すき」
「そりゃ良かった」
歩き出す。
小さな手を引きながら。
昨日までなら、たぶん面倒だと思っていた。
いや。
今だって十分面倒だ。
飯代はかかる。
風呂代もかかる。
仕事には遅れる。
目を離せば危ない。
何を考えているのかも、まだよく分からない。
なのに。
「ウバメ」
「何」
「ふろ」
「分かってるよ」
「はやく」
「お前、昨日まで喋らなかったよな?」
「ふろ」
「はいはい」
その声を聞いていると。
悪くない。
ほんの少しだけ。
そう思ってしまった。
「…………」
何となく。
悔しい。
私はリラの手を引きながら、少しだけ歩く速度を上げた。




