のんびり放浪記5
詰所を出た時には、もうすっかり日が落ちていた。
「…………」
右手。
耳長。
「…………」
左手。
共同浴場の方角。
「…………」
もう一度右を見る。
耳長。
私の服の裾を掴んだまま離れない。
「……歩ける?」
「…………」
「聞こえてんだろ?」
「…………」
「歩けないなら置いてくぞ」
言ってみる。
裾を掴む力が少し強くなった。
「……冗談だよ」
何で私が気を遣ってるんだ。
おかしい。
絶対おかしい。
「とりあえず風呂」
「…………」
「その後、宿」
「…………」
「明日の朝、教会」
「…………」
「それで終わり」
「…………」
返事なし。
まぁいい。
こいつがどう思っていようが、予定は決まっている。
一晩。
たった一晩だ。
◇
「まだ開いてる!」
共同浴場の前まで来て。
私は思わず声を上げた。
暖簾。
灯り。
湯気。
素晴らしい。
神はいた。
信じてないけど。
「おばちゃん!」
「はいはい、そんな大声出さなくても聞こえてるよ」
番台に座っていた太った女が顔を上げる。
この十二日ですっかり顔馴染みになった女だ。
「今日は遅かったねぇ」
「色々あって」
「そうかい」
おばちゃんが私の横を見る。
「…………」
耳長。
「…………」
おばちゃん。
「…………」
私。
嫌な間。
「なに」
「いやぁ」
「何」
「いつの間に子どもなんか――」
「違う」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
「はっはっは!」
笑うな。
「預かってるだけ。一晩」
「ふぅん」
「その顔やめろ」
「どの顔だい?」
「面白がってる顔」
「気のせいさ」
絶対違う。
「二人」
「はいよ。子どもは半額ね」
衛兵から預かった銅貨を出す。
普段ならこれで終わりだ。
ここの浴場には、身体を洗うための灰石鹸が置いてある。
泡立ちは悪い。
匂いもよくない。
毛に使うと少しごわつく。
でも、無料。
無料は強い。
「ちょっと待ちな」
「何?」
銅貨を受け取ったおばちゃんが、耳長を見る。
特に。
その髪。
「その子、灰石鹸はやめといた方がいいね」
「何で?」
「あんたと一緒にするんじゃないよ」
「どういう意味だ」
「あんたの毛は丈夫だろ」
「まぁ」
「その子の髪を見てみな」
見る。
長い銀色の髪。
泥。
埃。
絡まり。
乾いた血らしきものまで付いている。
「……酷いな」
「だろ?」
おばちゃんが番台の下を探る。
小さな布に包まれた石鹸を出した。
薄い黄色。
「油石鹸。髪にも使えるよ。肌にも優しい」
「いくら」
「銅貨一枚」
「高い」
「嫌なら灰石鹸で洗いな」
耳長を見る。
「…………」
髪を見る。
「…………」
もう一度。
銅貨を見る。
「…………ちっ」
一枚置く。
「毎度」
「衛兵に請求する」
「好きにしな」
絶対する。
今回の出費は私の責任じゃない。
「ほら」
石鹸。
それから、おばちゃんが小さな手拭いを取り出した。
「これは貸してやる」
「助かる」
「しかしまぁ」
「何」
「その髪、腰まであるじゃないか」
「あるな」
「絡まりも酷い」
「うん」
「大変そうだねぇ」
「…………」
「頑張んな」
「他人事みたいに言うな」
「他人事だからね」
正論。
腹立つ。
私は耳長を連れて脱衣所へ入った。
◇
「…………」
「…………」
そこで。
最初の問題が発生した。
「脱げ」
「…………」
「服」
「…………」
「脱がないと風呂入れないだろ」
「…………」
耳長は立ったまま。
動かない。
「……風呂、知らない?」
「…………」
返事なし。
まぁ。
エルフが風呂に入らない種族とも思えない。
少なくとも、森の川くらいはあるだろう。
「これ」
自分の服を指す。
「脱ぐ」
耳長の服を指す。
「これも脱ぐ」
「…………」
「分かる?」
耳が少し動いた。
分かってはいるらしい。
「じゃ、脱げ」
「…………」
動かない。
「…………」
何だ。
「恥ずかしい?」
「…………」
耳が。
ほんの少し。
下がった。
「あー」
そういうことか。
「じゃあ後ろ向いてる」
私は背を向ける。
「脱いだら教えろ」
「…………」
しばらく。
何も聞こえない。
「…………」
「…………」
「……まだ?」
後ろから。
小さな衣擦れ。
少しして。
袖を引かれた。
「終わった?」
振り返る。
「…………」
脱いでる。
脱いでるけど。
「…………」
痩せすぎだ。
肋骨が浮いてる。
腕も。
脚も。
細い。
ところどころに痣。
擦り傷。
新しい傷。
古い傷。
「…………」
腹の奥が。
少しだけ。
ざらついた。
「誰にやられた」
「…………」
「さっきの奴ら?」
「…………」
「……まぁいい」
聞いても答えない。
私は自分の服も脱ぐ。
耳長の目が。
少し上がる。
それから。
私の身体を見る。
「何」
「…………」
「見るな」
「…………」
まだ見る。
「そんなに珍しい?」
「…………」
「毛?」
耳が少し動いた。
「まぁ、獣人だからね」
私は腕を上げる。
「全部じゃないけど」
人間ほど肌が剥き出しでもない。
かといって、狼そのものほど全身毛むくじゃらでもない。
腕。
脚。
背中。
首回り。
そこそこ毛がある。
だから。
風呂上がりが面倒なのだ。
「濡れるともっと面倒だから」
「…………」
なんで私、こいつに説明してるんだ。
「行くぞ」
洗い場へ向かう。
耳長もついてくる。
今度は服の裾がないので。
手拭いの端を掴まれた。
「…………」
「それ離せ」
「…………」
「転ばないって」
「…………」
離さない。
「……まぁいいか」
◇
「熱いぞ」
湯気。
石の床。
大きな湯船。
いつもの共同浴場。
いつもなら。
ここに来た瞬間。
私は幸せになる。
今日も。
なるはずだった。
「…………」
耳長が固まっている。
「何」
「…………」
湯船を見る。
私を見る。
また湯船。
「怖い?」
「…………」
耳が寝た。
「……水、嫌い?」
小さく。
首を振る。
「湯が熱い?」
また。
首を振る。
「じゃあ何」
返事なし。
私はしばらく考えた。
「あー」
なるほど。
「先に身体洗うから」
「…………」
「いきなり入らない」
洗い場へ座る。
桶に湯を汲む。
「こう」
自分の腕にかける。
「ほら」
耳長。
見る。
「大丈夫」
もう一度。
桶。
湯。
腕。
「熱くない」
「…………」
「触る?」
桶を差し出す。
小さな指が。
恐る恐る湯に触れる。
「…………」
耳。
少し上がる。
「な?」
もう一度。
今度は指先を少し浸す。
「平気だろ」
「…………」
こく。
頷いた。
「…………」
初めて。
ちゃんとした反応を見た気がする。
「よし」
私は桶を置く。
「じゃあ頭」
「…………」
銀色の髪。
長い。
そして。
めちゃくちゃ絡まってる。
「……これ、どうすんだ」
触る。
「――っ」
耳長の顔が歪んだ。
「ごめん」
反射で謝った。
「…………」
「今のは私が悪い」
珍しい。
自分でも思う。
「ゆっくりやる」
少しずつ。
髪をほどく。
泥。
葉っぱ。
埃。
乾いた血。
「……酷いな」
絡まりを解いて。
湯をかける。
耳長がびくっとする。
「大丈夫」
また少し。
「熱かった?」
首を振る。
「じゃあ続ける」
さっき買った石鹸。
少し濡らして。
手の中で泡立てる。
甘くはない。
草と油を混ぜたような、薄い香り。
「目つぶれ」
「…………」
「しみるかもしれないから」
目を閉じる。
「そう」
髪につける。
洗う。
泡が。
どんどん。
茶色くなる。
「…………」
「どんだけ汚れてたんだよ」
洗って。
流す。
もう一度。
洗う。
流す。
三回目。
「…………」
ようやく。
銀。
本当に銀色だ。
「へぇ」
綺麗だな。
口には出さない。
「次、身体」
「…………」
耳長が自分で石鹸へ手を伸ばす。
「使える?」
こく。
「じゃあ自分で洗えるとこ洗え」
私は備え付けの灰石鹸を取った。
自分にはこれで十分。
ごしごし。
泡立たない。
やっぱり使い心地は悪い。
でも無料だ。
「ふぅ……」
ようやく。
ようやく自分の風呂だ。
「…………」
横。
耳長。
「…………」
石鹸を。
持ったまま。
止まってる。
「何」
「…………」
「分かんない?」
こく。
「…………」
私は天井を見る。
神よ。
いるなら聞け。
私は今日。
男三人相手に戦った。
衛兵に事情聴取された。
子ども五人助けた。
それでも。
今が一番面倒だ。
「貸せ」
石鹸を取る。
「腕出して」
腕。
泡。
洗う。
「脚」
脚。
洗う。
「背中向けて」
背中。
「…………」
傷。
細かいのが。
いくつも。
古いもの。
新しいもの。
私は黙って洗った。
「痛かったら言え」
「…………」
「喋れないなら叩け」
「…………」
「私の腕」
腕を出す。
「痛かったらこれ叩け」
「…………」
こく。
洗う。
背中。
肩。
首。
耳の後ろ。
「ここも汚れてる」
耳長の耳がぴくっと動く。
「……耳触るの嫌?」
こく。
「じゃあ自分で」
石鹸を渡す。
少し。
自分で洗った。
「できるじゃん」
「…………」
ちょっとだけ。
胸を張った。
「…………」
なんだ。
可愛いとこあるな。
いや。
今のなし。
◇
「入るぞ」
湯船。
まず私。
「あぁぁ……」
これ。
これだ。
「最高」
肩まで浸かる。
「…………」
耳長が湯船の縁に立ってる。
「来い」
「…………」
「怖くない」
動かない。
「…………」
仕方ない。
「手」
差し出す。
しばらく。
迷って。
小さな手。
私の手に乗る。
「ゆっくり」
一歩。
湯船。
「熱かったら戻れ」
一歩。
「そう」
膝。
腰。
「もうちょい」
肩。
「…………」
耳長が。
止まった。
「どう?」
「…………」
目が。
少し。
大きくなる。
「熱い?」
首を振る。
「嫌?」
首を振る。
「じゃあ」
私は壁にもたれる。
「入ってな」
「…………」
少しして。
耳長も。
湯船の縁にもたれた。
「…………」
「…………」
静か。
湯の音。
遠く。
誰かの話し声。
「…………」
耳長の肩。
少しずつ。
力が抜ける。
「……気持ちいい?」
「…………」
返事。
ない。
でも。
耳。
ぴん。
立ってる。
「分かりやすいな」
「…………」
「何でもない」
しばらく。
二人で湯に浸かる。
「…………」
悪くない。
いや。
風呂はいつだって最高だ。
ただ。
今日の湯は。
いつもより少し。
静かだった。
◇
「うわ」
風呂上がり。
第二の問題。
「服」
「…………」
耳長の服。
汚い。
臭い。
血もついてる。
「これ着る?」
「…………」
耳が寝る。
「だよなぁ」
私も嫌だ。
洗った身体にこれを着せるのは。
無理。
「おばちゃーん」
「はいはい」
番台へ顔を出す。
「子どもの服ない?」
「ここを何屋だと思ってんだい」
「風呂屋」
「そうだよ」
「だから聞いてる」
「なんでそうなるんだい」
「何かない?」
「ない」
「…………」
「…………」
「頼む」
「珍しいねぇ」
「何が」
「あんたが人に頼むなんて」
「うるさい」
「ちょっと待ちな」
おばちゃん。
奥へ。
戻ってくる。
古い。
でも綺麗な。
大きめのシャツ。
「孫が昔着てたやつだよ」
「借りていい?」
「やるよ」
「助かる」
「下は?」
「…………」
「ないね」
「…………」
「今日はシャツで我慢させな」
「仕方ないか」
耳長へ渡す。
「着ろ」
「…………」
着る。
ぶかぶか。
膝近くまである。
「…………」
なんか。
余計子どもっぽくなった。
「明日、服買うか」
「…………」
「いや」
違う。
「明日には教会行くから、そっちで用意してもらえ」
「…………」
耳。
少し。
下がった。
「何」
「…………」
「嫌なの?」
「…………」
返事なし。
「まぁいい」
私は髪を拭く。
「宿行くぞ」
◇
「おや」
銀鍋亭。
女将。
私。
耳長。
「…………」
「…………」
「…………」
また。
この間。
「違う」
「何がだい?」
「親子じゃない」
「まだ何も言ってないよ」
「今日それ二回目」
「へぇ」
女将が耳長を見る。
「かわいい子だねぇ」
「そう?」
「そうだよ」
「ふぅん」
「名前は?」
「知らない」
「…………」
女将の顔。
変わる。
「何」
「あんた」
「何」
「まさか拾って――」
「拾ってない」
間。
「……まぁ」
「拾ったようなもんだけど」
「ほら!」
「違う!」
「何が違うんだい!」
「衛兵公認!」
「余計怖いよ!」
事情説明。
数分。
「なるほどねぇ」
「だから一晩だけ」
「ふぅん」
「何」
「いや」
「その顔」
「どの顔だい?」
「絶対面白がってる」
今日三回目だ。
「部屋、同じでいいのかい?」
「別」
「空きないよ」
「…………」
「今日は商隊入ってるからね」
「床」
「誰が?」
「こいつ」
「鬼かい」
「私?」
「どっちでもいいよ!」
結局。
同じ部屋。
ベッド一つ。
「…………」
「…………」
耳長。
ベッド。
私。
「…………」
「お前ベッド」
「…………」
「私は床」
耳長。
ベッドを見る。
私を見る。
「何」
「…………」
ベッドの端。
少し空ける。
「…………」
「いや」
もう少し空ける。
「一緒に寝ろって?」
「…………」
「狭いだろ」
「…………」
さらに空ける。
「…………」
まぁ。
「いいけど」
大きなベッドではない。
でも。
子ども一人なら。
「端寄れよ」
横になる。
「…………」
耳長も。
横。
「…………」
「…………」
近い。
「もうちょい向こう」
少し動く。
「そう」
灯りを消す。
「明日」
「…………」
「教会行くから」
「…………」
「ちゃんとした奴らがいる」
「…………」
「たぶん」
「…………」
「そこで――」
言葉。
止まる。
小さな手が。
私の腕を掴んだ。
「…………」
「…………」
離れない。
「寝ろ」
「…………」
握ったまま。
少しして。
寝息。
「…………」
早いな。
私は天井を見る。
今日。
一日。
長かった。
「……子どもって」
面倒だ。
本当に。
面倒だ。
目を閉じる。
明日の朝。
教会へ連れていく。
そこで終わり。
今度こそ。
本当に。
終わり。
――そう思った。
その時だった。
「…………?」
鼻の奥。
ふっと。
何かが掠めた。
森。
湿った土。
雪。
冷たい風。
「…………」
どこかで。
嗅いだことがある。
いや。
知っている。
ずっと昔。
まだ。
私が小さかった頃。
そんな臭いの中を。
走って――
「…………っ」
一瞬。
景色が浮かんだ。
白い大地。
黒い森。
月。
そして。
雪の上を進む。
何か。
大きな。
何かの背中。
「…………」
目を開ける。
天井。
宿。
隣。
耳長。
すぅ。
すぅ。
眠っている。
「……夢か」
まだ寝てもいないけど。
「疲れてんな」
そういうことにした。
昔の記憶なんて。
いつも曖昧だ。
今更。
気にしたって仕方がない。
「…………」
腕。
まだ。
小さな手に掴まれている。
「……今夜だけだからな」
眠っている相手に。
念を押す。
当然。
返事はなかった。
目を閉じる。
今度こそ。
眠る。
遠くで。
犬か何かが。
一度だけ。
長く鳴いたような気がした。




