のんびり放浪記3
「ほら、今日の分だ」
仕事を終え、資材置き場の端に並ぶ。
親方が小さな革袋から、一人ずつ銅貨を取り出していく。
「八、九、十……ほい」
「どーも」
手のひらに落ちた硬貨を数える。
十枚。
いつも通り。
昼飯代を引いて、宿代を払って。
風呂。
晩飯。
うん。
酒を飲まなきゃ少し余る。
「ウバメぇ!」
嫌な声が聞こえた。
振り返る。
さっき瓦礫を途中で放り出していた男二人が、肩を組んで立っている。
「飲みに行こうぜぇ!」
「詫びだ、詫び! 一杯奢らせろよ!」
「いらん」
「早ぇな!」
「風呂行くから」
「風呂なんか後でいいだろ!」
「は?」
「すいませんでした」
睨んだら謝った。
分かればいい。
「だいたい、お前ぇ毎日風呂行ってねぇか?」
「行くけど」
「獣人ってそんなに風呂好きなのか?」
「私が好きなの」
「毛ぇ乾かすの大変じゃねぇ?」
「大変だよ」
「じゃあ何で――」
「好きなの」
「……へい」
また妙に背筋を伸ばす。
まったく。
風呂の良さが分からないとは。
人間種ってのは可哀想な生き物だ。
「じゃ、お先」
「おう。また明日な、犬のあんちゃん」
「犬じゃねぇ!」
現場を出る。
夕暮れのソリダンテは、一日の中で一番賑やかになる時間だ。
仕事を終えた職人。
買い物帰りの女。
酒場へ向かう男。
宿を探す旅人。
店じまいを始める商人。
逆に、これから店を開ける酒場や夜の店。
色んな奴が道を行き交う。
当然。
色んな臭いもする。
焼いた肉。
パン。
魚。
汗。
馬。
革。
煙。
酒。
人間。
獣人。
香水。
排水溝。
「……くさ」
鼻の利く身には、こういう大きな町は少々辛い。
だから風呂がいいのだ。
一日の臭いを全部洗い流せる。
身体についた土も。
汗も。
親方の煙草臭さも。
全部。
「おっ、ウバメの姉ちゃん!」
聞き慣れた声が飛んできた。
道端の串焼き屋。
この町へ来て二日目から、ほとんど毎日寄っている店だ。
最初の日には、
『兄ちゃん、一本どうだい!』
と言われた。
二日目も、
『兄ちゃん、今日は豚だぞ!』
と言われた。
三日目。
さすがに面倒になって、
『一応、雌なんだけど』
と教えた。
店主はしばらく私の顔を見た。
耳を見た。
胸元を見た。
もう一度顔を見た。
そして、
『……ほんとか?』
と言った。
『一本増やせ』
『なんでだよ!?』
『今ので腹が立った』
『理不尽だろ!』
『じゃあ二本』
『分かった分かった! 一本やるから!』
その日は、詫びに一本おまけさせた。
以来。
ここの親父だけは、ちゃんと私を姉ちゃんと呼ぶ。
「今日は羊だぞ!」
「後」
「また風呂か?」
「またじゃない。毎日だ」
「同じじゃねぇか」
「違う」
「何が?」
「知らん」
親父が笑う。
「今日は脂乗ってんぞ。昼過ぎに入ったばっかりだ」
「…………」
ちらり。
見る。
火の上。
串。
焼けた肉から脂が落ちる。
炭がジュッと鳴る。
煙。
塩。
香草。
肉。
私の鼻に、実によろしくない。
「姉ちゃん好きだろ、羊」
「……一本」
「毎度!」
仕方がない。
風呂は大事だ。
非常に大事だ。
だが。
腹が減っていては風呂にも集中できない。
これは必要な出費だ。
断じて誘惑に負けたわけではない。
銅貨を二枚渡す。
串を受け取る。
噛む。
「ん」
脂。
塩。
香草。
表面は少し焦げて、中は柔らかい。
「どうだ?」
「……まぁまぁ」
「その顔で言うかね」
「もう一本」
「ほら見ろ。毎度!」
二本目。
食べる。
「もう一本」
「風呂は?」
「これ食ったら行く」
「さっきから一向に近づいてねぇぞ」
「うるさい」
三本目を受け取る。
親父が笑いながら串を焼き直す。
「しっかし姉ちゃん、よく食うなぁ」
「働いてるからな」
「確か城壁の修繕だろ?」
「そう」
「いつまでいるんだ?」
「知らん」
「知らんって」
「仕事なくなるか、飽きるか、風呂が壊れるまで」
「風呂が一番大事なのかよ」
「当たり前だろ」
「ははっ! そりゃ違ぇねぇ!」
違わない。
仕事はある。
飯も美味い。
宿も安い。
風呂もいい。
今のところ、この町を出て行く理由はない。
「んじゃ、また明日な」
「まだ来るって決めてない」
「そう言って十一日連続で来てんじゃねぇか」
「…………」
「明日は猪だぞ」
「何時?」
「来るんじゃねぇか!」
店主の笑い声を背中に受けながら歩き出す。
手には三本目の串。
懐には、少し軽くなった財布。
「……まぁいいか」
明日も働けばいい。
こういう考え方をしているから、いつまで経っても金が貯まらない。
自覚はある。
反省はしていない。
串を齧りながら大通りを歩く。
このまま真っ直ぐ行って、大きな噴水を右。
そこから東地区へ抜ければ共同浴場だ。
ただし。
少し遠い。
「……こっちでいいか」
横道へ入る。
裏通りを抜ければ、五分は早い。
風呂に五分早く入れる。
十分な理由だ。
夕方の裏通りは、大通りとはまるで違う。
狭い。
暗い。
汚い。
店から出された木箱や樽が積まれ、石畳の隙間には泥水が溜まっている。
人通りも少ない。
まぁ。
私には関係ない。
大の男が三人いたって、財布を出せと言われるような見た目じゃない。
むしろ向こうが避ける。
便利なものだ。
「…………」
歩いていた足が止まった。
鼻を鳴らす。
何か臭う。
いや。
臭うものなんて、そこら中にある。
問題は、その中に混ざっていた臭いだ。
「……血?」
僅か。
本当に僅かだった。
この街の人間なら気づかない。
普通の獣人でも分からないかもしれない。
でも私は分かる。
新しい血だ。
まだ乾いていない。
私は立ち止まり、辺りを見る。
路地。
木箱。
裏口。
倉庫。
人気はない。
「…………」
知らん。
知ったこっちゃない。
喧嘩でもしたんだろう。
酒場の裏じゃ珍しい話じゃない。
衛兵の仕事だ。
私は風呂へ行く。
一歩。
二歩。
三歩。
「…………」
また止まる。
血の臭い。
妙だ。
人間じゃない。
獣人でもない。
少なくとも、私の知っている獣人の臭いとは少し違う。
血の中に。
草。
木。
湿った土。
そんな臭いが混じっている。
「……なんだこれ」
思わず鼻を鳴らす。
それから。
もう一つ。
小さな臭い。
汗。
恐怖。
涙。
「子ども?」
口に出した瞬間。
嫌な予感がした。
私はそういう勘を大切にしている。
嫌な予感がした時は。
逃げる。
これが一番だ。
「風呂、風呂」
歩く。
知らない。
何も聞いてない。
何も見てない。
今日はよく働いた。
私は疲れている。
これ以上働く義理はない。
そうだ。
役人がいる。
衛兵がいる。
この街には立派な城壁があって、立派な兵隊もいる。
税金も払っている。
たぶん。
宿代に入ってるだろ。
だから私が何かする必要はない。
路地を抜ける。
その時。
「……ぅ」
小さな音。
足が止まる。
「…………」
気のせいだ。
「……っ」
また。
咳だ。
ひどく小さな咳。
「…………はぁ」
私は天を仰いだ。
夕焼けが見えた。
「風呂……」
湯船が遠ざかる。
気がした。
「……ちくしょう」
踵を返した。
臭いを辿る。
路地を一つ戻る。
さらに細い横道。
その先に古びた倉庫が並んでいる。
荷車。
樽。
そして。
一台の幌馬車。
馬はいない。
御者もいない。
一見すれば、荷物を運び終えた空の馬車に見える。
「…………」
でも。
中にいる。
鼻を鳴らす。
一人。
二人。
三人。
四人。
……五人?
小さい。
全員。
「最悪」
声が漏れた。
私は幌へ近づく。
風呂。
風呂。
風呂。
頭の中で唱える。
ちょっと確認するだけだ。
確認して。
何もなければ風呂。
何かあれば衛兵を呼ぶ。
それで終わり。
絶対に。
面倒事には関わらない。
私は幌へ手を伸ばした。
「何してる」
後ろから声。
「…………」
振り返る。
男が三人。
一人は大柄。
二人は細身。
全員、腰に剣。
革鎧。
商人には見えない。
衛兵でもない。
「いや」
私は幌から手を離した。
「道に迷って」
「共同浴場なら反対だ」
大柄な男が言う。
知ってる。
というか。
もうほとんど着くところだった。
「そうなんだよ。助かった」
私は笑う。
出来るだけ愛想良く。
たぶん出来てない。
「じゃ」
男の横を通る。
そのまま行く。
行けばいい。
私には関係ない。
衛兵に言えばいい。
「…………」
通り過ぎる。
一歩。
二歩。
三歩。
「……けほっ」
馬車の中。
また咳。
足が止まった。
大柄な男が低い声を出す。
「行け」
「…………」
「聞こえなかったか?」
「ああ」
聞こえてる。
嫌になるくらい。
私は振り返った。
「一個だけ聞いていい?」
「なんだ」
男の手が剣の柄へ伸びる。
他の二人も、さりげなく左右へ広がった。
ああ。
やっぱり。
嫌な感じだ。
「あの荷物」
私は馬車を指した。
「なんで泣いてんの?」
一瞬。
三人の空気が変わった。
「……犬っころが」
細身の男が呟く。
「鼻ぁ利かせやがって」
「…………」
犬。
また犬か。
今日はよく言われる日だ。
「行け」
大柄な男が剣を抜いた。
「今なら見逃してやる」
「へぇ」
私は肩を回した。
風呂が遠い。
どんどん遠くなっていく。
「ひとつ訂正」
「あ?」
「犬じゃねぇ」
右側の男が動く。
速い。
剣を抜きざま、腹を狙って横薙ぎ。
私は半歩下がる。
刃が服の前を掠めた。
「おっ」
思ったよりちゃんとした動きだ。
「死ね!」
「やだよ」
振り抜かれた腕を掴む。
「なっ――」
そのまま。
「ヨイショ」
投げる。
――ドゴンッ!
男の身体が木箱へ突っ込んだ。
「ぐぁッ!」
箱が砕ける。
中から干した豆が散らばった。
「あ」
もったいない。
「てめぇ!」
二人目。
今度は突き。
私は身体を捻る。
剣が脇を通る。
手首を掴む。
「離せ!」
「ほい」
握る。
「ぎゃッ!?」
剣が落ちる。
そのまま腹を蹴る。
「ぐほっ!」
男が転がる。
「この――」
最後。
大柄な男。
こいつだけ少し違う。
踏み込みが重い。
剣を振り上げる。
「死ねェ!」
「だから」
振り下ろされる刃を避ける。
「嫌だって」
懐へ入る。
腹に一発。
「――ッ!?」
男の身体が浮いた。
一歩。
二歩。
後ろへよろめいて。
その場に膝をつく。
「が……」
「…………」
静かになった。
私は周囲を見る。
一人。
木箱の中。
一人。
腹を押さえて転がってる。
一人。
膝をついて呻いてる。
「……面倒くせぇ」
手を払う。
別に殺してはいない。
殺すほどのことじゃない。
たぶん。
「さて」
馬車へ向き直る。
中を確認。
衛兵を呼ぶ。
それで終わり。
今度こそ風呂だ。
幌をめくる。
「…………」
暗い荷台。
最初に見えたのは、子どもだった。
人間。
獣人。
何人か。
手を縛られている。
猿ぐつわを噛まされている子もいる。
そして。
一番奥。
毛布にくるまって。
小さな何かが座っていた。
銀色の髪。
細い身体。
汚れた頬。
長い――
耳。
「…………エルフ?」
私の知っているエルフより、ずっと小さい。
子どもだ。
たぶん。
その子が顔を上げた。
妙に大きな灰緑色の瞳。
目が合う。
「…………」
「…………」
何も言わない。
泣きもしない。
ただ。
じっと私を見る。
「……あー」
私は頭を掻いた。
嫌な予感がする。
今日一番の。
いや。
ひょっとすると。
今まで生きてきた中で一番の。
「とりあえず」
ため息。
「衛兵、呼ぶか」
この時の私はまだ知らない。
この小さな耳長が。
今夜だけでなく。
明日も。
明後日も。
来年も。
十年後も。
私の隣にいることになるなんて。
知るはずもなかった。




