のんびり放浪記21
翌朝。
薄緑の服は、女将が洗って裏庭に干した。
「今日着る」
「乾いてない」
「…………」
「明日な」
「うん」
リラは代わりに茶色の古着を着ている。
気に入っている緑ほど嬉しくはないらしいけど、不満を言うほどでもないらしい。
朝飯の卵を食べ始めたら、服のことは一旦忘れた。
「おいしい?」
「うん」
「良かったね」
「ウバメ」
「何」
「たべない?」
「食べてる」
「おそい」
「朝から急かすな」
昨日の夜より、少しだけいつも通りだった。
それでいい。
今日は、いつも通りに動くと決めている。
銀鍋亭を出る時間も同じ。
通る道も同じ。
仕事も休まない。
違うのは、こっちが昨日より少し多く周りを見ていることくらいだ。
◇
「衛兵いない」
市場へ入ったところで、リラが言った。
「いるよ」
「どこ?」
「知らない」
「?」
「私も知らないようにしてるんだって」
昨夜、衛兵から言われた。
制服姿で仕事場を囲めば、相手が警戒する。
だから今日は、私服の衛兵が何人か仕事場とその周辺へ入ることになっている。
誰なのか全部教えろと言ったら断られた。
『お前、知ってる奴の方ばっかり見るだろ』
だそうだ。
ちょっと腹が立つ。
でも、言ってることは分かる。
「ウバメ」
「何」
「あのひと」
リラが市場の向こうを見る。
「いつも」
果物を並べている婆さん。
「いるね」
「こっち」
今度は荷車を押す男。
「それも昨日いた」
「パン」
「今日はもう覚えた?」
「うん」
パン屋と果物屋を間違えない。
「偉い」
「うん」
自分で認めるところは相変わらずだった。
◇
仕事場に着く。
「遅くねぇな」
親方の最初の言葉がそれだった。
「普通です」
「最近まともに朝からいる方が珍しいだろ」
「いろいろあったの」
「知ってる」
「なら言わないで」
「仕事は仕事だ」
それも正しい。
「リラは?」
「昨日言った通り、俺の近くだ」
「うん」
「知らねぇ奴についてくなよ」
「うん」
「ウバメが呼んでるって言われても?」
「ウバメ、みるまで、いかない」
「よし」
親方が木箱を自分の作業場所のすぐ横へ置く。
針。
糸。
破れた麻袋。
「今日は一枚ずつやれ」
「うん」
「終わったら俺に見せる」
「うん」
「勝手に別の袋持ってくんな」
「うん」
いつもより細かい。
リラも分かっているらしく、今日は文句を言わなかった。
「日雇いは?」
小声で聞く。
「昨日の五人のうち、来たのは三人」
「ベイル」
「いねぇ」
「マロ」
「いる」
「もう一人の新しい人」
「いる」
ベイルだけ来ていない。
「怪しい」
「昨日も言ったろ。決めつけんな」
「分かってるよ」
分かってる。
来なかった。
それだけ。
今日たまたま別の仕事を取ったのかもしれない。
腹痛が続いているのかもしれない。
そもそも、日雇いなんだから毎日ここへ来る理由もない。
分かってるけど。
気になるものは気になる。
◇
「犬のあんちゃん、南側頼む!」
「犬じゃねぇ!」
反射で返してから、相手を見る。
古株。
昨日もいた。
その前もいた。
「何だよ」
「いや」
「急に顔見るなよ。怖ぇよ」
「今、皆の顔覚えてる」
「今さら?」
「今さら」
石を持ち上げる。
今日は周りを見るだけで手を止めない。
昨日親方に散々言われたから。
「お、成長したな」
「うるさい」
「褒めてんのに」
運ぶ。
置く。
戻る。
その途中で、見覚えのある男がいた。
作業着。
頭に布。
古い革袋を肩から下げている。
昨日まで人足にいた?
「…………」
見たことはある。
どこ。
「ウバメ」
呼ばれる。
振り向くと、その男がほんの少しだけこちらへ顎を引いた。
「…………あ」
空き家を調べた時にいた若い衛兵だ。
今日は完全に人足の格好をしている。
何でこいつは教えてくれたんだ。
目が合ったから?
若い衛兵はすぐに知らない顔へ戻り、別の人足と一緒に石屑を運び始めた。
「下手だな」
ぼそっと言う。
「何が」
古株が聞く。
「何でもない」
◇
昼前。
私は北側で石を運んでいた。
親方とリラは見える。
近い。
大丈夫。
そう思っていた時だった。
「ウバメ」
声がした。
大きくはない。
でも。
いつもの呼び方と違った。
振り返る。
リラが立っている。
針は持っていない。
両手も袋から離していた。
「どうした」
歩いて戻る。
「そこ」
リラが麻袋を指した。
親方も作業を止めている。
「何だ」
「におい」
足が止まった。
「変な?」
「うん」
「どれ」
リラが指す。
まだ手をつけていない麻袋。
親方が次に直させるつもりで、木箱の横へ置いていたものだった。
「触った?」
「さわってない」
「親方」
「俺が持ってきた」
「どこから」
「あっちの山だ」
仕事場の端。
破れた袋や使い終わった袋をまとめて積んである場所。
「誰がそこに置いた?」
「それが分かりゃ苦労しねぇよ。使い終わった奴が戻す」
私は袋へ近づく。
「触るなよ」
「分かってる」
親方に止められる前に、手を引っ込める。
学習してる。
「リラ」
「うん」
「どこが匂う?」
少し離れたまま聞く。
リラが袋を見る。
「ここ」
指したのは、袋の口。
縫い合わせた布が重なっている辺りだった。
「他は?」
「…………」
鼻を動かす。
「ここも」
今度は側面。
黒ずんだ染みがある。
煤なのか。
泥なのか。
分からない。
「親方」
「待て」
親方は周囲を見回した。
「おい、お前」
呼ばれたのは、例の若い衛兵だった。
変装。
もう意味ない。
いや。
周りにはただの人足に見えるのか。
「何すか」
演技。
下手。
「この袋、衛兵んとこ持ってけ」
「親方」
「何だ」
「ばらしていいの?」
「もう嬢ちゃんが気づいた。ここに置いとく方が面倒だ」
確かに。
若い衛兵も理解したらしい。
「分かった。……じゃなくて、分かりました」
「下手」
「聞こえてんぞ」
やっぱり。
◇
袋はすぐに別の場所へ移された。
触ったのは親方と衛兵だけ。
私は近づかなかった。
というより。
リラから離れなかった。
「大丈夫?」
「うん」
「頭痛いとか」
「ない」
「気持ち悪い?」
「ない」
「疲れた?」
「だいじょうぶ」
「本当に?」
「ウバメ」
「何」
「いっぱい」
「……ごめん」
聞きすぎた。
親方が少し離れた場所から言う。
「嬢ちゃんが自分から気づいたんだ。昨日より上等だろ」
「そうだけど」
「なら、それでいい」
「…………」
リラを見る。
「偉かった?」
「うん」
「うん」
本人。
先に答えた。
「じゃあ偉かった」
「うん」
耳が少し立つ。
◇
昼休み。
若い衛兵が戻ってきた。
今度は堂々と。
でも制服ではない。
「袋、詰所に回した。ガルドにも見せる」
「同じ粉?」
「見た限りじゃ、それっぽいのが縫い目に入ってる」
「じゃあ昨日の服は」
「待て」
「何」
「まだ決めるな」
「…………」
先に言われた。
「袋から移った可能性はある。だが、その袋がいつ汚れたかは分からん」
「今日?」
「昨日かもしれん。その前かもしれん」
「ずっと前?」
「ガルドが調べるまで分からん」
親方も隣で聞いている。
「袋の流れ、分かる?」
聞くと、親方が少し考えた。
「全部は無理だ」
「全部じゃなくていい」
「嬢ちゃんの言ってた袋には、丸がついてた」
「丸?」
リラが反応する。
「りら」
「お前の?」
「うん」
思い出した。
リラが袋を直し始めた頃から、修繕したものには炭で小さな丸を付けている。
最初は親方が見分けるためだった。
「昨日直したやつ?」
「いや」
親方が首を振る。
「丸が薄かった。昨日今日じゃねぇ」
「いつ?」
「二、三日前じゃねぇか」
リラがここで袋を直すようになってから。
そのどこか。
「じゃあ、その間ずっと使われてる」
「ああ。細かい石入れたり、瓦礫運んだりな」
「誰が使ったか」
「分からん」
「…………」
難しい。
「でも」
親方が続けた。
「昨日、あの袋を見た覚えはある」
「どこで」
「南側だ。荷運びに使ってた」
「誰が」
「そこまでは――」
言いかけて。
止まる。
「何」
「マロだ」
「…………」
昨日もいた新顔。
今日もいる。
「マロが使ってた?」
「ああ。ただ、一人で使ってたわけじゃねぇ。袋に石詰めた奴もいるし、空になった後に戻した奴もいる」
「ベイルは?」
「分からん」
「…………」
「だから決めつけんな」
「分かってるって」
本当に。
今度は。
分かってる。
マロが使ったからマロ。
ベイルが休んだからベイル。
そんな単純じゃない。
「マロ、今日いるよね」
「ああ」
「どこ」
親方が指す。
少し離れた壁際。
水桶を運んでいる男。
昨日。
親方から聞いた。
リラの後ろを通った男。
「…………」
「ウバメ」
「何」
リラ。
「みる?」
「見る」
「いく?」
「行かない」
そこまで言うと、親方が少しだけ頷いた。
「それでいい」
◇
午後。
マロを見る。
でも。
追わない。
普通に仕事する。
見た目は特に変わらない。
三十前後。
痩せ気味。
髪は短い。
仕事もする。
怠けてはいない。
人足とも普通に話す。
笑う。
荷物を持つ。
水を飲む。
あまりにも普通。
だから逆に分からない。
「…………」
「見るならもうちょっと上手く見ろ」
いつの間にか横にいた古株に言われた。
「何が」
「ずっとマロ見てんぞ」
「…………」
「何。惚れた?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「仕事しろ」
「お前が言う?」
「今日はしてる」
「今日は、って言ったな」
余計なところ聞いてる。
◇
しばらくして。
マロがこちらへ来た。
「ウバメさん」
「…………」
名前。
知ってる。
仕事場なら。
普通。
「何」
「親方が、そこの石を北へって」
見る。
親方。
少し離れたところ。
こっち。
見てる。
頷いた。
本当。
「分かった」
石へ手を掛ける。
マロ。
すぐには去らない。
「何」
「あの」
「何」
「嬢ちゃん、大丈夫ですか」
身体が止まる。
「何で」
「朝から親方がずっと近くに置いてるし、さっき袋も持ってかれたから」
普通。
見てれば分かる。
「大丈夫」
「そうですか」
「何か知ってる?」
聞く。
マロが少し驚いた。
「何をです?」
「袋」
「いや」
「昨日使った?」
「どれです?」
「丸ついてるやつ」
「…………」
考える。
「ああ。使ったかもしれません。何枚もあるから、よく覚えてないです」
「そっか」
「何かあったんですか」
「ちょっと」
マロはそれ以上聞かなかった。
「じゃあ」
離れる。
「…………」
普通。
本当に。
普通。
「ウバメ」
リラが呼ぶ。
「何」
「におい、ない」
「…………」
聞こえた?
マロ。
まだ近い。
振り向かない。
そのまま歩いていった。
「今?」
「うん」
「マロから?」
「しない」
「そっか」
石を持つ。
運ぶ。
それだけ。
何も分からない。
でも。
何も分からないっていう情報が、一つ増えた。
◇
夕方。
仕事が終わる少し前。
いつもの衛兵が来た。
今度は制服。
「ちょっといいか」
「何か分かった?」
「まず身元の方」
親方も近くへ来る。
「マロは?」
「本名らしい」
「本当?」
「少なくとも、その名前で去年も市の荷運びに入ってる。今泊まってる共同宿でも三月前からたまに使ってるそうだ」
「じゃあ白?」
「そうは言ってない」
「…………」
「ただ、昨日今日だけ突然作った身元じゃない」
「ベイル」
「そっちは微妙だ」
「何が」
「帳面に書いてある共同宿には、昨日一晩だけ泊まってる」
「一晩」
「ああ。金は前払い。朝早く出て、そのまま戻ってない」
「偽名?」
「分からん。宿の主人も初めて見た客だと」
「今日来なかった」
「ああ」
怪しい。
かなり。
でも。
「まだ決めつけない」
自分から言う。
衛兵が少し驚いた。
「何」
「いや」
「成長したって言うなよ」
「言ってねぇよ」
「顔」
「お前まで顔読むようになったのか」
「いや、今のは分かりやすい」
親方。
笑ってる。
腹立つ。
「袋は?」
話を戻す。
「ガルドが見た。昨日服に付いてた粉と、ほぼ同じだそうだ」
「…………」
やっぱり。
「じゃあ、袋から移った?」
「可能性は上がった。ただ、断定は出来ん」
「何で」
「服の粉が袋由来か、同じ物が別々に付いただけか分からんからだ」
「面倒」
「捜査ってのはそういうもんだ」
「私向いてない」
「知ってる」
「即答すんな」
◇
「それともう一つ」
衛兵が声を落とした。
「何」
「あの袋な」
「うん」
「黒い粉だけじゃない」
「…………」
嫌な予感。
「何があった」
「縫い目の内側に、小さい紙片が入ってた」
「紙?」
「何て書いてあった」
親方が聞く。
「まだ全部は分からん。濡れて潰れてる」
「じゃあ何で今言うの」
「読めるところが一つだけある」
衛兵が私を見る。
「何」
「数字だ」
「数字?」
「『三』」
「それだけ?」
「ああ。その横にも何か書いてあるが、今は読めない」
「…………」
三。
何の。
三日?
三人?
三番?
「ロイの紙と同じ?」
「紙質は似てるらしい。ガルドが見ただけだから、詳しくは詰所で調べる」
「袋に隠してた?」
「それも分からん。縫い目の裂け目に偶然入り込んだだけかもしれん」
また。
分からない。
「でも」
見る。
リラが直した袋。
その袋に。
黒い粉。
紙片。
「偶然二つ?」
「だから調べる」
「…………」
衛兵は言い切らなかった。
私も。
今は言い切らない。
昨日までなら。
すぐ一つの答えに飛びついていた気がする。
◇
仕事終わり。
「今日は飴なし?」
聞く。
「何でお前が聞く」
「リラが袋一枚直した」
「途中で騒ぎになっただろ」
「でも最後までやった」
親方。
リラ。
見る。
「見せろ」
直した袋。
確認。
縫い目。
引っ張る。
「……まぁ、いい」
飴。
一個。
「りらの?」
「そうだ」
「ほうしゅう」
「その言葉まだ覚えてたか」
「うん」
「余計なことばっかり覚えるな」
でも。
渡す。
リラが受け取る。
「ありがと」
「おう」
「親方」
「何だ」
「甘いね」
「お前の日当減らすぞ」
「何で!」
◇
帰り道。
串焼き屋。
今日は。
三本。
「また変なの来た?」
「今日は来てねぇ」
「本当?」
「毎日確認すんな」
「大事」
「何かあったのか」
「ちょっと」
「またかよ」
「でも前より進んでる」
「ならいいけどよ」
三本受け取る。
歩く。
リラが隣で飴を持っている。
「食べないの?」
「ふろのあと」
「今日は絶対行く」
「うん」
「何があっても」
「…………」
リラ。
私。
見る。
「何その顔」
「なんか、ある?」
「ない」
「ほんと?」
「言うな」
嫌なこと想像する。
◇
何もなかった。
ちゃんと風呂に入れた。
久しぶり。
と言っても二日だけ。
でも。
長かった。
「生き返る」
湯船へ沈む。
「ウバメ」
「何」
「おおげさ」
「誰に覚えた」
「おかみ」
「女将か」
最近。
どんどん言葉が増える。
「今日、怖かった?」
聞く。
「ちょっと」
「そっか」
「ウバメは?」
「今日は」
考える。
「昨日よりちょっとまし」
「なんで?」
「分からないことが増えたから」
「?」
「普通は逆か」
でも。
ベイルだけを追えばいいわけじゃない。
マロが怪しいと決まったわけでもない。
黒い粉が直接リラへ付けられたとも限らない。
分からないことが増えた分、勝手に怖がっていた形が少し崩れた。
代わりに。
本当に調べないといけないものが見えてきた。
「まぁ」
湯。
肩まで。
沈む。
「一個ずつかな」
「いっこずつ」
「そう」
◇
夜。
銀鍋亭。
いつもの確認をする。
窓。
糸。
粉。
扉。
櫛。
異常なし。
リラの緑の服は、裏庭から取り込まれていた。
まだ少し湿っている。
「明日」
「うん」
「着れると思う」
「うん」
嬉しそう。
「リラ」
「何」
「今日、袋の匂い見つけたの」
「うん」
「助かった」
「…………」
少し。
固まった。
「何」
「りら?」
「お前」
「たすけた?」
「うん」
その言葉。
そんなに珍しい?
私。
言わない?
「…………」
多分。
あんまり言ってない。
「ありがと」
言う。
リラの耳が。
ゆっくり立つ。
「うん」
それだけ。
でも。
ちょっと嬉しそう。
「ウバメ」
「何」
「りらも」
「何」
「あした、みる」
「無理しなくていい」
「みる」
「疲れたら休め」
「うん」
ベッドへ入る。
今日分かったのは。
黒い粉は、袋にも付いていた。
袋から服へ移った可能性がある。
ベイルは来なかった。
マロは今のところ、ただの日雇いに見える。
それから。
袋の縫い目から出てきた。
小さな紙。
読めたのは。
『三』
だけ。
まだ。
何の数字かは分からない。
でも。
今度は急いで決めない。
相手が何をしているのか。
一つずつ。
見る。
それが今の私に出来る。
一番ましなやり方だった。




