のんびり放浪記20
「まず、その服はそのままにしときな」
事情を聞いた女将は、薄緑の服が入った籠を見てすぐに言った。
「洗うのも?」
「当たり前だよ。何なのか調べるんだろ? 落としたら分からなくなるじゃないか」
「……それもそうか」
「あんた、こういうところは案外雑だねぇ」
「汚れなんて、普段は払うか洗うかで終わりだから」
「今は普段じゃないよ」
正しい。
最近、本当に正しいことを言われる回数が増えた。
リラは寝間着に着替え、食堂の椅子に座っている。気に入っていた薄緑の服は、紙を敷いた籠の中だ。
右肩から袖にかけて、黒い粉がほんの僅かに付いている。
何も知らなければ煤か埃だと思う程度だ。
でも、リラはそこから、今朝ガルドの店で見た黒い石と同じ「変な匂い」を感じた。
「衛兵を呼んでくるよ」
女将が言う。
「私が――」
「あんたはここにいな」
「でも」
「今この子から離れてどうするんだい」
「…………」
また正しい。
「店はもう閉める。裏口も鍵を掛けるから、あんたは嬢ちゃんと一緒にいな」
「お願いします」
「はいよ」
女将はそれ以上何も言わず、外へ出ていった。
少しして、リラが私の袖を摘まむ。
「ウバメ」
「何」
「みどり」
籠の中の服を見ている。
「捨てないよ」
「ほんと?」
「調べてもらうだけ。着られるなら洗ってまた着る」
「うん」
耳が少し戻った。
自分で選んだ服だ。
たかが古着一枚。
前の私なら、そう思ったかもしれない。
今は、そうでもない。
◇
いつもの衛兵は、女将と一緒に戻ってきた。
「今度は何があった」
怒鳴ってはいない。
籠を見るなり、声が低くなった。
「これ」
黒い粉のことを説明する。
リラが同じ匂いを感じたこと。
いつ付いたのか分からないこと。
紙で一粒だけ取ったが、それ以上は触っていないこと。
「嬢ちゃん」
「うん」
「今も匂うか?」
「うん」
「この服だけ?」
リラは少し考えてから、私や女将、部屋の中へ鼻を向けた。
「ここだけ」
「分かった」
衛兵は粉へ手を伸ばさなかった。
「ガルドに見せたいな」
「今から?」
「ああ」
「店、閉まってるよね」
「だろうな」
衛兵が外を見る。
「俺が行く。お前らはここから動くな」
「一人で?」
「魔道具屋呼びに行くのに護衛はいらねぇよ」
「いや、私が行くって意味じゃなくて」
「分かってる」
「…………」
ちょっと先回りされた。
「何かあったら、女将に表の呼び鈴鳴らしてもらえ。近くを巡回してる奴が来る」
「分かった」
「勝手に追いかけるなよ」
「何を」
「何か見つけてもだ」
「…………」
「返事」
「はい」
信用がない。
◇
「俺は夜番じゃねぇぞ」
しばらくして連れてこられたガルドは、明らかに機嫌が悪かった。
「すいません」
「いい。服を見せろ」
それだけ言うと、ガルドは籠の前へ座った。
昨日知り合ったばかりだ。
親方や女将みたいに遠慮なく口を叩き合う相手ではない。けれど、仕事となると余計なことを言わないところは、少し親方に似ている。
ガルドは灯りを近づけ、服の右肩をじっくり確認した。
細い針で黒い粉を一粒拾い、白い皿へ移す。そこへ薬液を垂らすと、粉の周囲だけが薄紫色に変わった。
「今朝の石はあるか」
「ああ」
衛兵が布包みを出す。
ガルドは黒い石からも、ごく僅かに表面を削って別の皿へ落とした。
同じ薬液。
同じ薄紫。
「似てるな」
「同じ?」
「少なくとも同じ系統の素材だ。石に使われてる鉱物と、術を定着させるための薬が似てる」
「じゃあ、あの石の粉?」
「そこまでは言えん」
ガルドは即答した。
「同じ作り方をした別の石かもしれんし、加工した時に出た粉かもしれん」
「今朝、店で付いた可能性は?」
衛兵が聞く。
「なくはない」
そこを否定しなかった。
「俺は石を削った。粉は出てる。ただ、嬢ちゃんには触ってねぇし、こいつが付いてるのは肩の後ろだ」
ガルドが服を指す。
「机にでもたれた?」
「してない」
リラが答えた。
「店で転んだりは?」
「してない」
「なら、俺の店で偶然付いた可能性は低い。ゼロとは言わんがな」
「…………」
少しだけ。
嫌な方へ傾いた。
「それと」
ガルドが服を灯りへ近づける。
「粉の付き方が変だ」
「どう変?」
「撒かれた感じじゃねぇ」
肩の後ろから袖へかけて、黒い粒が細く続いている。
「何かが擦れた跡に見える」
「何かって」
「服か、袋か、腕か。そこまでは分からん」
「人の手?」
「決めつけるな」
すぐに止められた。
「直接触られたとは限らん。黒い石に触れた袋が擦れたのかもしれんし、粉の付いた服とすれ違っただけかもしれん」
「……そっか」
「ただし」
ガルドの太い指が、黒い筋のすぐ横を示した。
「何であれ、これを付けた物は嬢ちゃんのすぐ近くまで来てる」
それだけで十分だった。
直接。
間接。
どっちでもいい。
私は今日、リラから大きく離れていない。
それでも、相手側の物かもしれない何かが、この肩に触れられるほど近くを通った。
気づかなかった。
その事実が、じわじわと腹の底を冷やしていく。
「ウバメ」
「何」
「こわいかお」
「……ごめん」
「おこってる?」
「うん」
リラの耳が下がる。
「お前にじゃない」
「…………」
「絶対に違う」
「うん」
そこだけは、はっきり言う。
◇
「一つ気になる」
衛兵が黒い石と粉を見比べた。
「嬢ちゃんは、石を持ってる奴の匂いが分かるんだろ?」
「今まではね」
「なら、近くまで来た時に気づかなかったのか」
リラが黙る。
衛兵もすぐに気づいたらしい。
「責めてるわけじゃないぞ。分からなかったなら、それでいい」
「…………わからなかった」
「そっか」
ガルドが顎髭を撫でた。
「別におかしくはねぇ」
「何で?」
「今朝も言っただろ。あの石は気配そのものを消すわけじゃない。気に留めにくくする」
「うん」
「嬢ちゃんには全く効かない、なんて話もしてねぇ。獣人のお前より違和感に気づきやすいってだけかもしれん」
ガルドは黒い粉を指す。
「それに、石を持った奴が近くにいた時は、その働きの中にいた。離れた後、服に残った粉だけになってから気づいた可能性もある」
「宿に帰って静かになったから?」
「それもあるだろうな。町中は音も臭いも人も多い」
断定は出来ない。
でも、筋は通る。
「リラ」
「うん」
「気づかなかったの、悪くないからな」
「…………」
「分からない時は分からないでいいって、今朝言っただろ」
「うん」
「なら、それでいい」
耳が少しだけ戻った。
◇
「今日の動きを洗うぞ」
衛兵が紙を広げた。
「朝はここからガルドの店」
「うん」
「その後、城壁の仕事場」
「うん」
「帰りに串焼き屋。それから銀鍋亭」
「そう」
「浴場は?」
「まだ」
いつもならとっくに入っている時間だ。
でも今日は、そんな気分にならない。
「一番人が多かったのは職人街と仕事場か」
「職人街はかなりいた」
「仕事場は日雇いも入れ替わるんだよな」
「うん」
今日の顔を思い出す。
いつもの人足。
たまに来る人。
初めて見た人。
全部きちんと覚えているかと聞かれると、自信がない。
「親方なら分かるかも」
「呼ぶか」
「今から?」
「お前が行く必要はねぇ」
衛兵が立ち上がる。
「俺が詰所に一人寄こさせる。そいつに親方を呼んでもらう」
「親方、怒りそう」
「事情聞けば来るだろ」
「怒りながらね」
「それは知らん」
多分。
絶対怒る。
◇
「何で俺が夜までお前ぇの面倒見なきゃならねぇんだ」
やっぱり怒りながら来た。
「私が呼んだんじゃない」
「元を辿ればお前だろ!」
「違う。悪い奴」
「分かってる!」
でも、親方の脇には一冊の古い帳面が抱えられていた。
「それ何?」
「日雇いの帳面だ」
「持ってきてくれたんだ」
「衛兵に言われたからな」
「ありがとうございます」
「……気持ち悪ぃな」
「何で!」
こっちは普通に礼を言っただけなのに。
親方は食堂の机へ帳面を置いた。
「今日の日雇いは五人。こいつとこいつは前にも来てる。残り三人が初めてだ」
「住所まで書いてあるの?」
「住所っつうほど立派なもんじゃねぇ。名前と、その晩どこで寝泊まりしてるかだけだ」
城壁修繕は市から賃金が出る。
だから日雇いでも、誰に金を払ったのか分かるよう名前と寝床くらいは帳面へ残す決まりらしい。
「今日、リラの近くに来たのは?」
親方がすぐ答えず、記憶を辿る。
「何人かいるぞ」
「何人か?」
「そりゃそうだろ。嬢ちゃん、仕事場の端にずっと座ってるわけじゃねぇんだから」
確かに。
「まずベイル」
親方が一つの名前を指す。
「初めて来た奴だ。二十代くらい。茶髪」
「何で近くに?」
「嬢ちゃんが直した袋を運ばせた」
リラを見る。
「覚えてる?」
「…………ちゃいろ」
「多分それ」
「他は?」
「マロって奴。こいつも今日が初めてだ。水桶運んでる時、嬢ちゃんの後ろ通ってる」
「触った?」
「そこまでは見てねぇ」
「もう一人、新顔は?」
「ほとんど北側にいた。嬢ちゃんの近くに来た覚えはねぇな」
新顔だけでも二人。
それに、いつもの人足が袋や道具を取りに来ることもある。
思ったより絞れない。
「ベイルって奴、途中で帰ってなかった?」
「ああ。夕方前にな」
「何で」
「腹が痛いって」
「怪しい」
「それだけで決めつけんな」
親方に言われた。
その通りだった。
ロイたちは、こっちが疑うような動きをわざと見せる連中じゃない。
腹痛で帰ったから敵。
そんな簡単なら、もっと早く捕まっている。
「寝床は?」
衛兵が帳面を見る。
「西二区の共同宿か」
「知ってる?」
「ああ。日雇いがよく使うところだ。名前を確認するなら明日できる」
「今から行かないの?」
「行ってどうする。ベイルって奴が本名かどうかも分からんし、そいつが粉を付けた証拠もない」
「…………」
「マロも確認する。今日いた他の連中もだ」
「全員?」
「最初からそのつもりだ」
衛兵が言う。
「一人に決め打ちすると、本物を見落とす」
また正しい。
今日はそればっかりだ。
◇
「あと」
親方が腕を組んだ。
「袋そのものは?」
「袋?」
「ベイルに運ばせたって言ったろ」
「うん」
「もし直接触ったんじゃねぇなら、袋に粉が付いてた可能性もあるんじゃねぇのか」
ガルドが親方を見る。
「あり得る」
「じゃあ袋調べる?」
「どの袋だ」
「…………」
親方。
黙る。
「もう使った?」
「使った」
「どこで」
「細かい瓦礫入れて、南側へ運んだ」
「何袋ある?」
「似たようなのが山ほど」
「…………」
「無理だな」
親方がため息を吐く。
「悪い」
「何で親方が謝るの」
「俺が運ばせた」
「仕事させただけでしょ」
「だが」
「私もいた」
親方を見る。
「それでも気づかなかった」
「…………」
「だから、今は誰が悪かったかじゃなくて、どこで付いたか探す方が先」
親方は少し黙ったあと、低く答えた。
「……そうだな」
言ってから。
自分でも少し驚いた。
前なら。
誰かが悪いなら、そいつに任せればいい。
そんな風に考えていた気がする。
今は。
そうはいかない。
◇
衛兵は帳面の名前を別の紙へ写した。
「明日、こいつらの身元を確認する」
「私たちは?」
「いつも通り」
「仕事行く?」
「ああ」
「危なくない?」
「だから衛兵を増やす」
「目立つよ」
「制服で固めたりはしねぇよ」
そこまで言われて気づく。
「私服?」
「仕事場の周りに何人か置く」
「へぇ」
「お前は余計なことすんな」
「何もしてない」
「今日だけで何回その台詞聞いたと思ってんだ」
親方が横から口を挟む。
「嬢ちゃんは明日、俺のすぐ横だ」
「袋は?」
「やるなら俺の横でやらせる」
「おやかた」
リラが呼ぶ。
「何だ」
「ふくろ、やる」
「そうか」
「さいごまで」
「分かった分かった」
親方の声が少しだけ柔らかくなる。
「ただし、知らねぇ奴に何か言われても動くな」
「うん」
「ウバメが呼んでるって言われても?」
「ウバメ、みるまで、いかない」
「覚えてんじゃねぇか」
「うん」
「上出来だ」
リラの耳が立った。
飴は出なかった。
夜だから。
多分。
◇
親方とガルドが帰り、衛兵も一度詰所へ戻ることになった。
黒い粉はガルドが持ち帰った。
薄緑の服は、調べられるものを取り終えたので銀鍋亭に残す。
「洗っていい?」
「明日の朝まではそのままにしとけ」
「分かった」
「今夜は宿の近くを普段より多めに回る」
「ありがとう」
衛兵が一瞬こちらを見る。
「何」
「いや」
「何」
「普通に礼言えるんだな」
「殴るよ」
「それでこそだ」
「何で安心してんの」
こいつは付き合いが長くなってきた分、遠慮がなくなった。
◇
二階の部屋へ戻る。
窓の糸。
変化なし。
粉。
変化なし。
扉。
異常なし。
リラが寝間着のまま、私の横に立つ。
「ウバメ」
「何」
「ふろ」
「…………」
時計なんてないけど。
もう遅い。
「今日は無理」
「…………」
耳が落ちる。
「私も入りたいよ」
「うん」
「かなり」
「うん」
「明日は絶対」
「うん」
私まで共同浴場を我慢している。
本当に。
ろくな奴らじゃない。
◇
寝る前。
リラの髪を梳く。
今日着ていた服は別にしてあるので、いつもの木櫛だけを使う。
「リラ」
「うん」
「今日、ベイルって人覚えてる?」
「ちゃいろ」
「そう」
「わるいひと?」
「分からない」
「…………」
「怪しいかもしれない。でも、違うかもしれない」
「マロ?」
「そっちも分からない」
「みんな?」
「そう」
リラが少し困った顔をした。
「めんど」
「ものすごく」
「…………」
ちょっと笑った。
「でも、明日は今日より見る人が増える」
「へい?」
「衛兵ね」
「うん」
「親方も見てる。私も見る」
「リラも?」
「無理しなくていい」
「みる」
「疲れたら?」
「やすむ」
「分からなかったら?」
「わからない、いう」
「よし」
髪を最後まで梳く。
窓を確認する。
扉も確認する。
今日一日を思い返しても、誰が黒い粉を付けたのかは分からない。
ベイルかもしれない。
マロかもしれない。
仕事場の誰かでもないかもしれない。
直接触れられたのか、何かを介して付いたのかも分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
あの黒い石と同じ系統のものが、リラのすぐ近くまで来た。
そして私たちは、それに気づかなかった。
「…………」
怖い。
昨日より。
相手が近くなったから。
でも。
今までと違って、こっちにも見る目が増えた。
親方。
女将。
衛兵。
ガルド。
串焼き屋。
私一人で全部見つける必要はない。
「ウバメ」
「何」
「ねる」
「ああ」
灯りを落とす。
「明日も、いつも通り行くぞ」
「うん」
「今度は」
暗い部屋の中で、少しだけ間を置く。
「誰が近づいてくるか、ちゃんと見る」
「うん」
向こうがまだ、黒い粉に気づかれたと知らないなら。
いつも通りは。
今度こそ。
こっちのために使える。




