のんびり放浪記14
翌朝、目を覚まして最初にしたのは、扉を見ることだった。
鍵は掛かっている。窓も閉じたまま。昨夜から変わった臭いもない。
それを確認してから横を見ると、リラはまだ眠っていた。私の腕を両手で抱えたまま、布団の中で小さく丸まっている。
「…………」
昨日の夜は、いつもより離れなかった。
無理もない。
仕事場に突然知らない男が現れて、煙を撒いて逃げた。本人も初めて「怖い」と口にした。
それなのに。
「……重い」
小さいくせに、腕を完全に枕にされると地味に辛い。
そっと抜こうとする。
ぎゅ。
「…………」
力が強くなった。
「起きてる?」
「…………」
「リラ」
「…………」
「起きてるだろ」
「ねてる」
「喋った」
目は閉じたまま。
「腕返して」
「…………」
「仕事行けない」
そこでようやく目が開く。
「しごと?」
「そう」
「きょうも?」
「仕事は毎日あるんだよ」
リラは少し考えてから、私の腕を離した。
「さいごまで」
「親方の教育、効きすぎだろ」
身体を起こし、大きく伸びをする。
ただ、今日も昨日までと同じように仕事場へ連れていくかと言われると、それは別の話だった。
昨日、もう仕事場まで知られていることが分かった。
同じ宿。
同じ道。
同じ仕事場。
毎日ほとんど同じ動きをしていた。
考えてみれば、追う側からすれば随分分かりやすい生活だ。
「…………」
「ウバメ?」
「何でもない」
何でもない。
ということにしておきたい。
◇
「宿を替えた方がいいねぇ」
朝食を運んできた女将は、昨日の一件を聞くと真っ先にそう言った。
「やっぱり?」
「嫌だけどね」
「何が」
「あんたらがいなくなるのがさ」
「まだ町から出るとは言ってない」
「この宿からって意味だよ」
「ああ」
女将がリラの前へ卵を置く。
「たまご」
「はいはい。今日は一個丸ごとだよ」
「うん」
嬉しそう。
「……随分慣れたね」
女将が笑う。
「誰が」
「その子が」
「ああ」
「最初に来た時なんか、あんたの後ろからほとんど出なかったじゃないか」
「そうだっけ」
「そうだよ」
そう言われれば、今は女将から普通に卵を受け取る。
串焼き屋にも慣れた。
親方とも話す。
古株の人足たちの名前まではまだ覚えていないが、道具の名前なら妙に覚えている。
少しずつ、こいつの世界が広がっている。
「だから余計に腹が立つね」
「何が?」
「あんな連中のせいで、また隠れて暮らさなきゃならないことさ」
「…………」
女将。
たまに重いことを言う。
「隠れるの嫌い」
「だろうね」
「何で分かる」
「顔」
「またそれ」
「目立つ耳と尻尾つけて、町のど真ん中歩いてる奴が隠れるの好きなわけないだろ」
「これはつけてるんじゃない」
「知ってるよ」
リラが私の耳を見る。
「ウバメ」
「何」
「みみ」
「あるよ」
「おおきい」
「急に悪口?」
「おおきい」
「知ってる」
女将が笑う。
「そのくらい元気なら大丈夫そうだね」
「元気はある」
「でも今日は衛兵のところへ行きな。宿のことも相談してきな」
「仕事」
「その前に」
「親方怒る」
「昨日あんなことがあったんだ。怒らないよ」
「怒る」
「断言するなよ」
「怒るけど許す」
「分かってるじゃないか」
それも腹立つ。
◇
衛兵詰所では、昨日と同じ男が眠そうな顔で紙の束を睨んでいた。
「おはよう」
「……お前か」
「その反応何」
「昨日からお前関連の報告書ばっか書いてんだよ」
「仕事あるって良いことじゃん」
「他人事!」
「今日は相談」
「今度は何だ」
「宿」
顔つきが変わる。
「ああ。それはこっちからも言おうと思ってた」
「替えた方がいい?」
「普通ならな」
「普通なら?」
「昨日の男が宿まで知ってるかは分からんが、前に廊下まで来てた奴と同じ一味の可能性は高い。居場所を替えるのが一番手っ取り早い」
「ふぅん」
「何だ、その反応」
「いや」
昨日から、少し考えていたことがある。
「宿替えたら」
「ああ」
「相手、また探すよね」
「そりゃ探すだろうな」
「で、見つかったらまた替える?」
「場合によっては」
「それ」
「何だ」
「面倒じゃない?」
「お前は結局そこか!」
「いや、真面目に」
机の前へ寄る。
「相手はもう、私たちがここに泊まって、毎日仕事場へ行ってることを知ってる」
「そうだな」
「なら急に消えたら、向こうも警戒する」
「…………」
「でも、今まで通り動いてたら」
「向こうがまた姿を見せるかもしれない」
「そう」
衛兵が眉を寄せる。
「お前」
「何」
「待ち伏せる気か」
「そこまで言ってない」
「顔が言ってる」
「また顔」
「分かりやすいんだよ」
でも、考えていることは大体合っている。
「私、一度ちゃんと臭いを覚えれば追える」
「昨日は薬で鼻を潰されたろ」
「次は分かってる」
「そういう問題じゃねぇ」
「リラもあの匂いが分かる」
「嬢ちゃんを囮にする気なら殴るぞ」
「しないよ」
そこだけは即答した。
「リラを危ない目に遭わせる気はない」
「…………」
「でも」
一度、言葉を選ぶ。
「逃げ続けるのも嫌」
衛兵はしばらく黙った。
「……まぁ、言ってることは分かる」
「でしょ」
「嬉しそうにすんな。危険なのは変わらん」
「うん」
「宿をそのまま使うなら、こっちもやり方を変える」
「見張り?」
「巡回の時間をずらす。私服の奴も混ぜる」
「へぇ」
「相手にこっちが警戒してるって悟らせないようにな」
「ちょっと有能」
「ちょっとって言うな」
衛兵が机から紙を一枚取った。
「それと昨日の筒」
「煙の?」
「ああ。中身は刺激の強い薬草と油、それに粉を何種類か混ぜたもんらしい」
「毒?」
「少なくとも殺すための毒じゃない。目と鼻を潰して逃げるための物だな」
「慣れてるね」
「多分な」
「あと?」
「筒そのものも市販品じゃない。手作りだが、かなり丁寧に作られてる」
「ふぅん」
「感想薄いな」
「だって筒でしょ」
「こういう細けぇもんから足が付くこともあるんだよ」
「へぇ」
正直、本人を捕まえて聞いた方が早い。
「今、殴って聞けばいいって思っただろ」
「何で分かる」
「だから顔!」
怖い。
そんなに出る?
「もう一つ」
衛兵の声が少し低くなる。
「教会へ来た旅商人を覚えてるな」
「リラ探して逃げた奴?」
「ああ。昨日の男とは外見が違う」
「別人?」
「少なくともマリエラの話じゃな」
つまり、一人ではない。
「仲間がいる?」
「その可能性が高い」
「面倒」
「今度は俺もそう思う」
「リラ」
「うん」
「これは言っていいやつ」
「めんど」
「そう」
「教えんな」
◇
話し合った結果、すぐに宿を替えるのはやめた。
銀鍋亭への巡回は増やす。ただし、今までと同じ時間に衛兵が何人も歩いていては、こちらが警戒していることが丸分かりになる。
衛兵たちも、少しやり方を変えるらしい。
私の方も。
宿。
道。
仕事場。
表向きは変えない。
ただし、今までみたいに何も考えず歩くのはやめる。
「で」
衛兵が言う。
「今日、嬢ちゃんを仕事場に連れてくのか?」
「連れてく」
「即答か」
「昨日の今日だからこそ」
「どういう意味だ」
「向こうからしたら、昨日失敗した」
「ああ」
「今日すぐ同じ場所に来ると思う?」
「普通なら来ねぇな」
「でしょ」
「普通なら、だぞ」
「分かってる」
仕事場には人がいる。
親方もいる。
衛兵にも場所を伝えてある。
銀鍋亭で離れて待たせるより、今はそっちの方がいい気がした。
「リラ」
「うん」
「今日も仕事」
「ふくろ」
「そう」
「さいごまで」
「そう。ただし」
「?」
「変な匂いがしたら、すぐ言え」
「うん」
「知らない奴についてくな」
「うん」
「私か親方から離れるな」
「うん」
「危ないと思ったら」
「おおごえ」
「よし」
衛兵が横からこちらを見る。
「何」
「いや」
「何」
「結構ちゃんとしてきたなと思って」
「失礼」
「褒めたんだよ!」
◇
「遅ぇ!」
仕事場へ着くなり、親方が怒鳴った。
「ほら!」
私はリラを見る。
「おこった」
「だから言ったろ」
「お前ぇら何の話してんだ!」
事情を説明する。
宿を替えないこと。
通る道も、基本は変えないこと。
その代わり、こちらも相手を注意して見ること。
「……なるほどな」
「反対?」
「いや」
親方がキセルを咥える。
「逃げ回るよりは、お前ぇらしい」
「でしょ」
「ただし」
キセルの先が私へ向く。
「嬢ちゃんが危なくなったら、全部捨てて逃げろ」
「仕事も?」
「仕事もだ」
「親方が?」
「当たり前だ」
「昨日まで最後までって」
「命より大事な仕事があるか」
「…………」
それ。
大事。
「リラ」
「うん」
「今の覚えとけ」
「にげる?」
「危なかったらね」
「さいごまで?」
親方が少し笑った。
「逃げ切るところまでが仕事だ」
「…………」
「なるほど」
「お前が納得すんのかよ」
◇
午前中は何も起こらなかった。
リラはいつもの木箱で麻袋を縫い、親方が時々手元を直す。
私は石を運ぶ。
ただ、昨日までとは違う。
人が通るたびに見る。
荷車が止まれば見る。
知らない臭いがすれば鼻を使う。
それでも仕事は進む。
「ウバメ!」
「何!」
「そっちの石!」
「はいよ」
持つ。
運ぶ。
置く。
「犬のあんちゃん、次こっち!」
「犬じゃねぇ!」
「呼び方そこまで気にする余裕あるなら大丈夫だな!」
「ウバメって呼べ!」
「ウバメ、こっち!」
「最初からそう呼べ!」
普通。
いつもの。
その中に、少しだけ警戒が混ざっている。
今は、それくらいでいい。
◇
昼。
パン。
干し肉。
リラは芋。
親方は相変わらず固そうな肉。
「リラ」
「うん」
「今日、何か変なのあった?」
「…………」
少し考える。
「ない」
「そっか」
「ウバメは?」
「ない」
「じゃあいいじゃねぇか」
親方が言う。
「そうなんだけど」
「何だ」
「何もないと、逆に気になる」
「面倒くせぇ奴だな」
「自分でも思う」
「めんど」
「リラは言わなくていい」
「めんど」
「気に入ったの?」
耳が少し上がる。
楽しんでる。
「親方」
「何だ」
「変なこと教えるのやめて」
「俺じゃねぇ」
「じゃあ誰」
二人とも私を見る。
「…………」
「私か」
「そうだな」
腹立つ。
◇
午後。
南側。
石を一つ運ぶ。
何となく気が散っていたらしい。
「ウバメ」
「何」
人足が呼ぶ。
「その石、置き場そっちじゃねぇぞ」
「え?」
見る。
確かに違う。
「誰か言ってよ」
「今言っただろ!」
「もっと早く!」
「お前が勝手に持ってったんだよ!」
遠くで親方が笑っている。
「親方!」
「聞こえねぇ!」
「絶対聞こえてる!」
石を持ち直す。
「ったく」
正しい場所へ運ぶ。
でも。
少しだけ安心した。
昨日なら、同じ間違いをしても自分で気づかなかったかもしれない。
今日は誰かが見ていて、ちゃんと突っ込んでくれる。
いつもの現場が戻ってきている。
◇
夕方。
「今日は何もなかったな」
親方から日当を受け取る。
「そうですね」
「だからって気ぃ抜くなよ」
「分かってる」
「本当か?」
「何で皆それ聞くの」
「お前だから」
「失礼」
「ウバメ」
「何」
「ほんと?」
「リラまで!」
周りから笑い声が上がる。
帰る。
同じ道。
同じ串焼き屋。
「おっ、ウバメの姉ちゃん!」
「三本」
「今日は最初からか」
「学習した」
「そりゃ偉い」
「何で上から」
リラも隣で串を受け取る。
「熱いぞ」
「うん」
店主が少し声を落とした。
「昨日の話、聞いたぞ」
「早いね」
「この辺は狭ぇからな」
「変な奴いた?」
「今日は見てねぇ」
「そう」
「また来たら知らせる」
「ありがと」
「姉ちゃん」
「何」
「無茶すんなよ」
「…………」
最近、それもよく言われる。
「努力する」
「その返事、不安だな」
「何で皆同じこと言うの」
◇
銀鍋亭へ戻る。
「おかえり」
女将。
「ただいま」
「りらも」
「ただいま」
「はい、おかえり」
いつもの宿。
いつもの道。
いつもの仕事場。
いつもの串焼き屋。
変えない。
だからこそ、何かが変われば気づける。
匂い。
臭い。
人の顔。
店の様子。
いつもいる奴がいない。
いつもいない奴がいる。
そういう小さな違いを拾っていく方が、逃げ回るより私には合っている。
「ウバメ」
「何」
「ふろ」
「…………」
そうだった。
「行く」
「うん」
「今日は絶対行く」
「うん」
「昨日我慢した分まで入る」
「にかい?」
「時間を長くする」
「ながく」
「そう」
女将が呆れた顔をする。
「警戒してるんじゃなかったのかい」
「してる」
「その割に風呂は行くんだね」
「それとこれとは別」
「狙うなら風呂帰りじゃないかい」
「…………」
それは。
そう。
「リラ」
「うん」
「今日は早めに出る」
「…………」
「何その顔」
「びっくり」
「また!?」
最近。
守るために諦めることが増えてない?
面倒だ。
やっぱり。
面倒。
でも。
何もかも捨てて逃げ回るよりは。
こっちの方が、まだいい。




