第9話 商人の鉄則
沙絵里は朝鮮語の授業を受けているが、そこに思いがけぬ客が⋯
翌朝、ギョングは棚から巻物を取り出して、机に広げた。
「まずは、諺文の読み方から学んでいきましょう」
(オンムン…ハングルのことかな)
「うげー」
「そのうげー、というのが何かは知りませんが、あなた本当にこの時代に来たくて、転生とやらをしたんですよね?」
「もちろんですとも」
「ではなぜ、朝鮮語を学ぶことに抵抗があるのですか?」
「そりゃあ、言葉は通じると思うじゃない」
「まったく、考えが甘いですね。商人の鉄則その1、最悪の事態を考えて行動すること、ですよ」
その言葉が、ぐさりと刺さった。
前世で、違法薬物かもしれないと思いつつ、暴力団のアジトへ一人で行ってしまった自分を、思い出した。
図星を突かれたのを隠して、私はこう言い訳した。
「私、別に商人になりたいとは言ってないんだけど」
「商人になって学べることは、多いですよ?」
ギョングは、こちらをちらりと見てきた。
値踏みされているような、鋭い眼差しだった。
しばらく沈黙が流れたが、ギョングの「ふむ」という声で破られた。
「話がそれましたが、本題に行きますよ。諺文は母音と子音を組み合わせて作られる比較的簡単な文字です」
「へー。ただの暗号にしか見えないんだけど」
「あなた、世宗大王に大変失礼なことを言いましたね。ほぼ反逆罪ですよ」
「송구하옵니다」
(申し訳ございません、という意味だ)
「急に朝鮮語が出てきましたね。しかも、宮廷の言葉だ。どういうことですか」
「未来では、この時代の歴史が、劇になってるの。それで覚えたの」
「へぇ。宮廷の言葉は知っているのに、文字は読めないとは。ずいぶん偏った学び方ですね」
そうやって授業を受けていると(正確には言い争い)、店の方から、騒がしい声が聞こえてきた。
「손님! 그쪽은 안 됩니다!」
何を言っているのかは分からないが、慌てている様子だけは伝わってきた。
異変を感じて、ギョングは立ち上がった。
その直後、戸を、ドンドンドン!と叩く音が響いた。
ギョングは戸の方へ歩いていき、戸にある小さな覗き窓を開けた。
私は、こっそりギョングの後ろから覗き込んだ。
窓の向こうにいたのは、あのおばあさんと一緒にいた青年だった。
「이보시오! 흰옷 입은 처자는 어디 있소!」
青年は、ものすごく険しい顔で言った。
(勝手に出ていったことを、怒っているのかも…)
「아, 그분이라면 지금 저와 언문 공부를 하고 있습니다. 상관없는 분은 나가 주시겠습니까?」
ギョングは、そう言った。
朝鮮語の会話なので、全く理解できない。
けれど、二人とも一歩も引かず、意地を張っているのだけは分かった。
…というか、この二人、なんで私のことで揉めているんだろう。
考え込んでいると、青年が戸を蹴り壊して、中に入ってきた。
ギョングは、青年の予想外の行動に一瞬目を丸くしたが、すぐに冷静を装った。
「어째서 이런 곳에 계십니까! 어서 돌아갑시다!」
そう言って、青年は手を差し出した。
戻ろうと言っているのか?
それとも、エスコートしますよと言っているのか?
いや、さすがにこの状況で後者はないか。
本当に「戻ろう」と言っているのか、定かでない。
パニックになっていると、ギョングが通訳してくれた。
「この人は、『どうしてこんなところにいらっしゃるのですか!早く戻りましょう!』と言っています。この人と面識があるのですか?」
私は、ゆっくりと頷いた。
青年は、ギョングが話す言葉が、私に通じているのを見て、息を呑んだ。
青年には、きっと意味の分からない言葉に聞こえているはずだ。
だが、彼の中でなにかつながったような感じがした。
「일단, 문을 부수셨으니 변상해 주셔야겠습니다, 도현 총각. 상인의 철칙 그 두 번째, 손해는 최소한으로.」
ギョングは指で銭の小さな円形を作って見せた。
お金に関することを話したんだろう。
そして、「ドヒョン」という言葉が一つ目立って聞こえた。
おそらく、青年の名前なんだろう。
「내 알 바 아니오!」
ドヒョンは言った。
「당신, 제가 누구와 줄이 닿아 있는지 아십니까? 저는 양반 대감들과 가깝습니다. 제가 없애 달라고 한마디만 하면, 정말로 없앨 수 있습니다.」
まずい状況になってきた。
これは私が止めなきゃだめだ!
でも言っていることが全く分からないからどう収めればいいものか?
たぶんこの二人は私の取り合いの喧嘩をしている。
え?取り合い?
ということは、私、溺愛ルートに入ったということ!?
きゃあぁぁ!
◇
喧嘩するギョングとドヒョン、溺愛されていると思い込み興奮する沙絵里。
なんとも修羅場であった。
こんにちは、ヤサイローリングです。
次回は2話連続公開です(初の試み)。
ドヒョン視点でこの第9話を描くお話で1話。
同じ視点でこの争いの決着を描くお話でもう1話という構成です。
お楽しみに。
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それではまた次回。




