【第8話:死ねよ、日本】
前話のラストで、篤志はニュースを一目見て、画面を閉じました。
「関係のない話」だと思って。
あれから、三週間が経ちました。
今話は、その「関係のない話」が篤志の会社を飲み込むまでの話です。
息子の障害。妻の崩壊。ママ友の悪意。母の複雑な顔。職場の空気。
それらを全部抱えたまま、篤志はある朝、会社の玄関に立ちます。
今話で、篤志の物語はひとつの区切りを迎えます。
覚悟して読んでいただけますか。
ホルムズ海峡が封鎖されたのは、あの夜から三週間後だった。
最初はニュースの中の話だった。中東の緊張が高まっている。産油国が動いた。
海峡を通る船舶に制限がかかった。世界中の市場が揺れている。
篤志の会社とは、関係のない話のはずだった。
最初の異変は、仕入れ先からのメールだった。
「一部資材の納品に遅延が生じる見込みです」
たいしたことではない、と思った。よくある話だ。代替の仕入れ先を当たればいい。
翌週、同じ文面が別の仕入れ先からも来た。
その翌週、また別のところから来た。
「一部」が、「大部分」になっていった。
原因が分かったのは、業界の知人からの電話だった。
「聞いたか。あの大手が動いたらしい」
政府が備蓄を放出し、最悪の事態は免れるはずだった。
だが、ある大手企業が水面下で手を回した。原材料を大量に買い占めた。
市場に出回る量が、一気に絞られた。
「現場には全然回ってこない。経産省は足りてると言ってるけど、現場は別の話だ」
電話を切って、篤志はしばらく画面を見ていた。
発注残が、画面に並んでいる。
間に合わない案件が、もう出始めていた。
クレームの電話が鳴り始めたのは、その翌週からだ。
「納期が守れないなら、他に頼む」
「うちも困ってるんだ、何とかならないのか」
「引渡しが出来なければ代金回収出来ずウチは倒産する。責任取れるのか?」
篤志は一本一本、電話を取った。頭を下げた。代替案を探した。仕入れ先に掛け合った。別のルートを探した。
また電話が来た。また頭を下げた。
母が夕飯を作って待っていた。
パジャマ姿の息子が「パパおそい」と言いながら駆け寄ってきた。
「体、大丈夫?」妻からのLINEが来ていた。 「大丈夫」と返した。
それだけで、寝た。
終わりは、突然来た。
いつもと同じ朝だった。
得意先の対応の為に早目に家を出て、電車に乗って、最寄り駅で降りて、事務所へ向かう道を歩いた。
角を曲がって、会社の建物が見えた。玄関のドアに、何かが貼ってあった。
近づいた。
弁護士事務所の名前が入った貼紙だった。
「差押」という文字が見えた。
ドアノブを引いた。
鍵がかかっていた。
どのくらいの時間、そこに立っていたのか分からない。
通勤途中のサラリーマンが、横を通り過ぎた。
宅配のトラックが、遠くで止まった。空は、よく晴れていた。
篤志は、スマホを取り出した。
カメラを起動した。
貼紙を撮影した。
シャッター音がした。
その音を聞いた瞬間、腹の底から何かが沸き上がってきた。
怒りではなかった、最初は。
ただの、熱だった。
頭の中で、この三ヶ月が一気に再生された。
障害の告知。運動会のリレー。「ガイジは居るべき所に」。
妻が一人で抱えていたもの。妻の心が折れた夜。義父母の車。
母の「元気な子じゃないの」という顔。上司の「分かった」という一言。
資料が一拍遅れて届くようになった朝。間に合わない納期。謝り続けた電話。
誰が悪いのか?
買い占めた大手企業か?「足りている」と言った大臣か?SNSに書き込んだ誰かか?
何も解決しなかった自分か?
熱が、怒りになった。
怒りが、言葉になった。
スマホの投稿画面を開いた。
指が震えていた。
打ち込んだ。打ち間違えた。消した。また打った。
「一体、俺の何が悪いんだ?息子に何の罪があるっていうんだ?」
「利権を貪るような奴らがのうのうと生きているのに」
「息子に障害を一生背負わせて、嫁のメンタルを破壊して、挙句に家族の収入まで絶ちやがった」
「この世に神なんていない!あるのは強欲と、マウントの取り合いと、嘘ばっかりの大義だけだ!」
「もう、死ねよ!死んじまえ日本!!」
送信ボタンの上に、指が止まった。
一秒。
二秒。
後先のことなど、もう考えられなかった。
押した。
送信完了の画面が、一瞬光った。
篤志はスマホを下ろした。
差押の貼り紙が、風に揺れていた。
空は、まだよく晴れていた。
誰も、何も、変わっていなかった。
ただ、その言葉だけが、篤志の手を離れて、誰にも止められない速さで、世界の中に放たれていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「死ねよ。死んじまえ日本!!」
これは暴言ではありません。
三ヶ月分の、悲鳴です。
息子のために。妻のために。
何一つ間違ったことをしていないのに、
気づけばすべてを失っていた男の、
たった一度だけの絶叫です。
この一言が、次話から物語を大きく動かしていきます。
篤志はまだ知りません。
見知らぬ誰かが、この投稿を画面の向こうで見つけていることを。
次話からは、新たな登場人物の物語が始まります。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
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