【第7話:ママ友という名の地獄】
前話では、篤志の家庭が崩れ落ちる夜を描きました。
今話は、その翌朝から始まります。
妻がいなくなった家。息子を送る朝。
新幹線でやってくる篤志の母。職場での変化。
そして、篤志が何も知らなかった、妻の孤独の話。
妻は一度も言いませんでした。
「大丈夫」と言い続けました。
その言葉の裏側を、今話で初めて明かします。
義父母が来たのは、その日の夜だった。
電話をしたのは篤志だ。息子がようやく眠ったあと、妻の背中を見ながらスマホを打った。
義母が出た。事情を話した。言葉を選ぶ余裕はなかった。
二時間後、玄関のチャイムが鳴った。
義母は妻の顔を見た瞬間、声を上げずに泣いた。義父は何も言わず、妻の荷物をまとめるのを手伝った。
「しばらく預かります」 義母がそう言った。
篤志は頭を下げた。下げながら、何に謝っているのか、自分でも分からなかった。
妻が玄関を出る前、一度だけ振り返った。
何か言いたそうな顔をした。でも、何も言わなかった。
ドアが閉まった。
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翌朝、篤志は息子を保育園に送った。
息子はいつも通り、門を入った瞬間に走り出した。友達の名前を呼びながら、振り返りもせずに行く。
篤志はその背中を見ていた。
この子は何も知らない。昨夜のことも、ママがいなくなったことも、まだちゃんとは分かっていない。
「行ってらっしゃい」と先生が言った。
「お願いします」と篤志は言った。声が少しだけかすれた。
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その日の昼篤志の母が新幹線で来た。
母には事情は話してある。息子の障害のことも、妻が崩れたことも。
電話で話したのはひと月前だ。あの時、母はしばらく沈黙してから「そう……そんなことが」とだけ言った。それ以上は何も言えなかった。 今もそうだ。
夕方、保育園のお迎えを母に頼んで、篤志は会社に向かった。
帰宅すると、母と息子がテーブルでブロックをしていた。母の顔が、複雑な笑みをしていた。
可愛い孫の顔を見ながら、何かをこらえているような、そういう顔だった。
「夕飯、作っておいたから」
「ありがとう」
「……元気な子じゃないの」
母のその言葉に、篤志は何も返せなかった。
元気だ。元気なのだ。それでも、診断書には「軽度から中度の知的障害」と書いてある。
その二つを、母はまだ一つに繋げることができていない。
篤志にも分かる。繋げるのに、時間がかかる。自分だってそうだったのだから。
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それから数日後、篤志は保育園に呼ばれた。 園長と、担任の先生が待っていた。
「実は、以前から起きていたことについて、お話しさせていただきたくて」
担任が、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
運動会の練習が始まったのは、二ヶ月前だった。クラス対抗のリレーに息子は選ばれなかった。
それ自体は仕方ないことだった。だが、その話題がママ友のグループに流れた。
「やっぱりね」「仕方ないよね」。その言葉が、妻の耳に届いた。
妻は、黙っていなかった。「うちの子はお友達と一緒の運動会を楽しみに頑張っている」そう言った。
それが引き金になった。
グループの中の一人が、SNSに書いた。直接の名前は出さない。でも、読めば分かる。
そういう書き方で。「ガイジは居るべき所に行くべき。子供たちを巻き込まないで」。
賛同が集まった。
仲が良かったはずのママ友たちが、一斉に妻から距離を置いた。
公園で会っても目を合わせない。
LINEグループの既読が、妻のメッセージだけつかない。
保育園の送り迎えが、妻にとって毎日の戦場になっていた。
篤志は、何も知らなかった。
妻は一度も話さなかった。「大丈夫」と言い続けた。笑い続けた。その裏で、一人で抱えていた。
「奥様が随分お辛そうで、私たちも気になっていたのですが」と担任が言った。
「もっと早くにお伝えすべきでした」
篤志は「いえ」とだけ言った。それ以上、言葉が出なかった。妻が隠していたのだ。
篤志に心配をかけたくなかったのか。
言っても変わらないと思ったのか。
それとも、言葉にすることが、もっと辛かったのか。
どれも正解のような気がして、どれも違う気もした。
園側は、事態を重く受け止めていた。息子には特別支援の形で別カリキュラムを組む。
ママ友グループへの対応は、園から直接行う。篤志への説明はその報告も兼ねていた。
「息子さんが安心して通える環境を、必ず整えます」
園長がそう言った。
篤志は頭を下げた。
帰り道、信号待ちで立ち止まった。
青になっても、しばらく動けなかった。
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翌週、篤志は上司を捕まえて、短く話した。
「家の事情で、しばらく勤務時間を調整させてください。早退と、遅出を交互に」
上司は「分かった」と言った。それだけだった。
だが、その翌日から、何かが変わった。
会議の資料が、篤志だけ一拍遅れて回ってくる。ランチに誘われる回数が減った。
たいしたことではない。たいしたことではないのに、気づく。気づいてしまう。
仕事を減らしてほしいわけではない。ただ、時間が必要なだけだ。
だが、そういう事情は、職場では関係ない。
篤志は、気にしないことにした。気にしないと決めた。
それ以来、昼休みに誰かと話すことが減った。
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夜、息子が寝た後のリビングは静かだった。
母は早々に休んでいる。
篤志はソファに座らず、デスクの前に座った。仕事の残りを片付けるためだ。
画面を開いて、メールを確認する。返信する。確認する。
その繰り返しをしながら、頭の隅で計算していた。
妻が戻るまで、あとどのくらいかかるのか?
母にいつまでも居てもらうわけにはいかない。母にも生活がある。
息子の送り迎えと、食事の支度と、家のことを、一人でこなしながら、仕事を続けられるのか?
そのやり方で、どのくらい持つのか? 妻に早く戻ってきてほしい。
そう思う自分がいる。 そして、そう思う自分を、責める自分もいる。
妻は病気だ。急かしてどうなるものでもない。
でも、このままでは立ち行かなくなる。その事実も、消えない。
メールの返信を打ちながら、隣のタブで開いたままのニュースサイトに目が止まった。
ヘッドラインに、見慣れない単語が並んでいる。
「ホルムズ海峡、封鎖の懸念強まる――石油供給への影響、各国が警戒」
篤志は、画面を見た。
大きな話だとは思った。でも今の自分には、関係のない話のように感じた。
画面をスクロールして、閉じた。
メールの返信を、続けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「ガイジは居るべき所に行くべき」
この言葉を、本作では意図的にそのまま書きました。
オブラートに包めば、傷は伝わらないからです。
妻がこの言葉を受け取りながら、篤志に何も言えなかった理由を、
読んでいただけた方には分かっていただけたと思います。
篤志はまだ、全部を知りません。
知らないまま、今夜もメールを打ち続けています。
そして、画面の端に流れたニュースの意味を、
この時の篤志は、まだ理解していません。
次話では、その「意味」が、篤志の生活を直撃します。
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