【第6話:崩れる家族】
前話では、篤志夫婦が黙って立ち上がる姿を描きました。
今話は、その続きです。
ただし、今話だけは、覚悟して読んでいただけますか。
絵に描いたような幸せな家庭が、音を立てて崩れる夜があります。
篤志には、止められなかったことがあります。
息子には、見てはいけないものを見た夜があります。
これは、誰も悪くない話です。
だから、余計に苦しいのかもしれません。
その夜、篤志が帰宅したのは、午後十時を過ぎていた。
駅からの道を早足で歩きながら、スマホを確認した。妻からのメッセージはない。
昼に「今日も遅くなりそう」と送ったきり、既読もついていない。疲れて寝たのかもしれない。
玄関の鍵を開けた。
ただいま、と言いかけて、声が出なかった。
泣き声が聞こえる。 息子の泣き声だ。
違う。普通の泣き声じゃない。
何かを怖がっている時の、あの泣き方だ。
「おい」
靴を脱ぎ捨てて、廊下を走った。リビングのドアを開けた。
息子がソファの陰にいた。床に座り込んで、声を上げて泣いている。
篤志の顔を見た瞬間、手を伸ばした。来て、と言いたいのに、声が泣き声にしかならない。
「どうした、どこにいる、ママは」
息子の手を掴みながら、部屋を見渡した。
キッチンとの境目の床に、妻がいた。
壁にもたれて、座り込んでいる。膝を立てて、両腕でそれを抱えている。うつむいて、何か呟いている。聞き取れない。言葉になっているのか、なっていないのかも分からない。
「おい」
もう一度呼んだ。 妻は顔を上げなかった。
篤志は息子をソファに残して、妻に近づいた。膝をついて、顔を覗き込もうとした。
その瞬間、妻が顔を上げた。
目が合った。
何かが、違った。 目に、妻がいなかった。
次の瞬間、声が出た。
言葉ではなかった。叫びとも泣き声とも違う、体の深いところから引きずり出されるような音だった。
両手が床を叩いた。バン、バン、という音が部屋に響いた。頭が壁に当たった。髪が乱れた。
体が自分の意志とは別のところで動いているように見えた。
篤志は固まった。 「お、おい、落ち着け」
手を伸ばした。妻の肩に触れようとした。振り払われた。爪が腕をひっかいた。妻は気づいていない。
篤志もそれを気にしている場合じゃなかった。
後ろで、息子の泣き声が変わった。 それまでの泣き声とは違う声だった。
名前を呼ばれているのが分かった。パパ、パパ、と言っている。
ソファの陰から動けないまま、こちらに手を伸ばして、ただ呼んでいる。
篤志は、とにかく妻が暴れない様に・自傷行為をさせない様に、体を抱きかかえた。
動顛する頭の中で何かが空回りしている。
息子に駆け寄るべきか。救急に電話すべきか。義母に電話すべきか。
何も、選べなかった。
妻の嗚咽が、少しずつ小さくなっていった。
爆発するような激しさが、潮が引くように、静かに消えていった。
代わりに、肩が細かく震えている。ただの泣き声が残った。
篤志は少し身を離して妻の背中に手を置いた。
震えが、手のひらに伝わってきた。
妻は壁の方を向いたまま何も言わなかった。
後ろで、息子がまだ泣いている。
篤志は振り返った。
ソファの陰から、息子が顔だけ出している。目が真っ赤だ。鼻水が、唇の上まで流れている。
怖くて動けないまま、それでも篤志の顔を見て、手を伸ばしている。
篤志は立ち上がった。
息子のところへ行って、膝をついて、抱き上げた。
息子の体が、ぶるぶると震えていた。
「大丈夫だ」 耳元でそう言った。
自分の声が、震えていないか確かめるように、もう一度言った。「大丈夫だからな」
息子は篤志の肩にしがみついたまま、泣き続けた。
そして、嗚咽の合間に、絞り出すように言った。
「パパ」
「ああ」
「ママ、こわい」
篤志は、何も言えなかった。 息子の背中を、ただなで続けた。
大丈夫だ、大丈夫だと言いたかった。 でも、その言葉は、もう一度は出てこなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「ママ、こわい」
この一言を書くために、今話全体を書いたと言っても過言ではありません。
三歳の子供が、自分のママに向けるはずのない言葉です。それを、震えながら絞り出す。
抱き上げた父親が、もう一度「大丈夫だ」と言えなかった理由を、読んでいただけた方には分かっていただけたと思います。
次話では、この夜の「その後」が描かれます。
妻に何が起きていたのか。誰が、どこから、この家族を壊したのか。
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