【第5話:トーマスと補助輪】
前話では、療育センターでの告知と、篤志が浴室で一人泣き崩れる夜を描きました。
今話は、その続きです。
絶望の翌朝から、この夫婦はもう動いていました。
派手な決意表明はありません。泣き明かした顔のまま、黙ってAmazonを開く男と、夜中にひとり蛍光ペンを握る女の話です。
重たい内容が続いていますが、今話だけは少し、温かく読んでいただけるかもしれません。
診断から帰った翌週、篤志はAmazonで三つのものを注文した。
知育ブロック。幼児用のタブレット教材。それから、ストライダーだ。
妻には何も言わなかった。黙って注文した。
段ボールが届いた日の夜梱包を解いて並べると、妻がリビングに入ってきて黙って見ていた。
しばらく経ってから、妻が言った。
「ストライダー、乗れるようになるかな」
「・・・乗せるよ。」
それだけ言って、篤志は説明書を開いた。
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最初の週末、息子はストライダーを怖がった。
またがった瞬間に「いやだ」と言って、降りた。
翌週も、また降りた。
三週目、篤志は公園のベンチに座って、息子のペースに任せることにした。強制しない。ただ、隣にいる。
息子はストライダーを押しながら、しばらく歩いていた。
それからふと、またがった。
足で地面を蹴った。
少しだけ、進んだ。
「おっ」
息子が顔を上げた。篤志と目が合った。
「・・・できた。」
「できたな」
息子が、もう一度蹴った。もう少し進んだ。
「できたー!」
「できたぞ!」
篤志は立ち上がった。拍手した。息子が笑った。
その笑い方が、いつものものより少しだけ、誇らしそうだった。
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妻の方は、机に向かっていた。
夜、息子が寝てから、リビングのテーブルに広げるのはプリントアウトされた資料の束だ。
有名人の名前が並んでいる。
難読症を抱えながら映画界の頂点に立った俳優。
ADHDと診断されながら世界記録を塗り替えたアスリート。
学習障害を抱えたまま大学に進んだ起業家。
篤志が風呂から出てくると、妻はまだそれを読んでいる。蛍光ペンで線を引いている。ノートに何かを書き写している。
「まだやってるのか」
「もう少し」
「寝ろ」
「もう少しだから」
篤志はコップに妻のジャスミンティーを注いで、妻の隣に置いた。
妻は顔を上げずに「ありがとう」と言った。
それだけだった。
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機関車トーマスを使ったのは妻のアイデアだった。
息子がトーマスに夢中だということは分かっていた。問題はどう使うかだ。
妻はキャラクターを一体ずつ出して、名前を教えた。番号を教えた。息子は最初、興味なさそうに別のことをしていた。
だが翌日、篤志が「トーマスって何番だっけ」と何気なく聞くと、息子が「1ばん!」と即答した。
「じゃあパーシーは」 「6ばん!」
「ゴードンは」 「4ばん!」
次々と答えた。一度も間違えなかった。
篤志は妻を見た。妻は静かに笑っていた。
「この子、一回覚えたら忘れないんだよ」
その声に、誇りがあった。
篤志は息子の頭を撫でた。
「おまえ、すごいじゃないか」
息子が得意げに胸を張った。口を少しだけ窄ませてこちらを見ていた。
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保育園との連携も、少しずつ形になってきた。
担任の先生が月に一度、面談の時間を作ってくれた。療育センターで学んだことと、家での取り組みを共有した。先生も、クラスの中で息子が得意なことを見つけて、そこから自信を育てようとしてくれた。
遅れながらも、ついていけている。
それだけで、十分だと思おうとした。実際、十分だった。
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ある土曜日。
公園で、息子がストライダーで坂を下った。
足を地面から離して、そのまま滑るように進んだ。
「パパ!みて!」
「見てるぞ」
「みてる?」
「見てる見てる」
息子が満面の笑顔で、また坂を上りはじめた。
同じ年頃の子どもたちが、補助輪付きの自転車で走っている。
息子はストライダーで、それより速く坂を下っている。
篤志は、それをベンチから眺めていた。
何も考えていなかった。
ただ、見ていた。
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その日の夜、妻がスマホを見ながら固まっていた。
「どうした?」
返事がなかった。
妻がスマホを伏せた。
「……何でもない」
篤志はその顔を見た。
何かを、こらえている顔だった。
「見せろ」
「いい」
「見せてくれ」
妻はしばらくの間、スマホを胸に押し当てていた。
それから、差し出した。
画面には、ママ友のグループらしいSNSの投稿が映っていた。直接の名前は出ていない。だが、読めば分かる。誰の話かは、すぐに分かる。
「障害の子と同じクラスになった」
「うちの子に影響が出ないか心配」
「親も何か変わってるって聞いた」
「先生の手が取られてかわいそう」
篤志は、最後まで読んだ。
スマホを、テーブルに置いた。
妻が、膝の上で手を握りしめている。
「気にするなよ」
「……うん」
「気にするな」
「分かってる」
分かっていても、消えないものがある。篤志にも分かっていた。だから、もう何も言えなかった。
リビングに、沈黙が落ちた。
隣の部屋で、息子が眠っている。
今日、坂を下れた息子が。トーマスを全部言えた息子が。一度覚えたら忘れない、あの子が。
その子のことを、知りもしない誰かが、画面の向こうで値踏みしている。
篤志は、テーブルの上に置いたスマホを見た。
手が、少し震えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「この子、一回覚えたら忘れないんだよ」
この一言を書きたくて、この話を書きました。
坂を下る息子。全部答える息子。夜中まで資料を集める妻。何も言わずにストライダーを注文する篤志。誰も「頑張ろう」とは言いません。ただ、動いています。
そしてその夜、篤志はスマホの画面を見てしまいます。
次話では、積み上げてきたものに、外側から冷水が浴びせられます。篤志の手が、少し震えたところから続きます。
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