【第4話:二語文の壁】
前話では、篤志一家の幸せな日常を描きました。
今話は、その続きです。
市の療育センター。白衣の女医。積み木と絵カード。
静かな部屋の中で、篤志夫婦は「言葉」を受け取ります。その言葉が何であったか、どうかこの先を読んで確かめてください。
重たい内容を含みます。ゆっくり読んでいただければと思います。
市の療育センターは、駅から少し離れた住宅街の中にあった。
低層の、こじんまりとした建物だ。大きな病院のような威圧感はない。入口には、子供の描いた絵が何枚も貼られている。色とりどりのクレヨンの線が、壁を賑やかにしている。
それでも、玄関をくぐった瞬間、空気が変わるのを感じた。
待合スペースの椅子は柔らかく、絵本やぬいぐるみが置かれている。配慮されているのが分かる。分かるからこそ、余計に落ち着かない。隣で篤志の手を握る妻の指が、いつもより冷たい。
息子だけが、床に置かれた木製のパズルに夢中になっている。同じピースを、何度もはめたり外したりしている。
名前を呼ばれる。立ち上がった瞬間、足の裏の感覚が、少し遠くなった気がした。
診察室というより、小さな個室といった方が近い部屋だった。机の上に、積み木と、絵のカードが何枚か並んでいる。担当の医師は、優しげな雰囲気の女性だった。白衣の襟元に、小さな猫のブローチがついている。声のトーンも、柔らかい。
「では、少し遊んでみようか」
しゃがみこんで、息子と目線を合わせる。
息子は警戒する様子もなく、積み木に手を伸ばす。赤い積み木を、青い積み木の上に乗せる。
それを見て、何かが書き込まれる。キーボードを叩く音がする。乾いた音だ。柔らかな声と対照的に、一打ずつが、やけにはっきり聞こえる。
絵カードが並べられる。「わんわんはどれ?」。息子の指が、迷いなく犬を指す。「じゃあ、これは?」。猫の絵を指して、何か聞かれている。息子は黙って、また犬の絵を指す。
医師の指が、また動く。乾いた音。
篤志の喉が、何度も唾を飲み込む。
隣の妻は、もう瞬きをしているのかどうかも分からないほど、動かない。
検査は、二十分ほどで終わった。短いような、永遠のような時間だった。
息子は飽きたのか、部屋の隅に置かれた別のおもちゃ――小さなブロックの城――に手を伸ばしている。何も分かっていない。何の不安もない。崩れたブロックを見て、声を上げて笑っている。
その笑い声だけが、部屋の中で、場違いなほど無邪気だった。
医師がモニターから目を離し、こちらを向く。穏やかな表情のまま、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「検査の結果、軽度から中度の知的障害があると考えられます」
声に悪意はない。むしろ、できる限り柔らかく伝えようとしているのが分かる。それでも、言葉の中身までは、優しさで包みきれない。
その先、何を説明されたのか、篤志はほとんど覚えていない。言葉は聞こえているのに、頭の中まで届かない。
「篤志さん」呼ばれて、初めて自分の名前だと気づく。何か返事をしたはずだ。
だが、何と答えたのか、自分でも分からない。
「・・・ちょっとショックが大きくて、考えが追いつきません。」
隣で、妻も固まっている。さっきから、ずっと同じ姿勢のままだ。視線は息子に向いているのに、何も映っていないような目をしている。
息子は、ブロックの城をもう一度組み立て始めている。
集中した横顔。集中すると口を必ず窄ませる。何も知らない。何も、変わっていないと思っている。
その対比が、篤志の胸の奥を、刃物のように薄く切っていく。
「今後の療育について、また改めてご相談しましょうね」
医師の言葉で、診察が終わったと分かる。立ち上がる。足元が、自分のものではないみたいだった。
療育センターを出ると、外はもう夕暮れだった。
空が、不自然なほど綺麗な色をしている。橙と紫が混ざり合って、駐車場のアスファルトを淡く染めている。
篤志がエンジンをかける。誰も、何も喋らない。ウィンカーの音だけが、車内に規則正しく響く。
赤信号で、車が止まる。
助手席の妻が、前を見たまま、小さく呟いた。「……私のせいなのかな」
その声は、エアコンの風の音に紛れて消えそうなほど小さかった。
篤志は何か言おうとした。違う、そんなことはない、と。だが喉の奥で、言葉が固まって動かなかった。
信号が青に変わる。車が静かに動き出す。
帰宅後、いつも通り夕飯を作り、家族そろって食べ、お風呂に入れ、いつもの時間にベッドに入る。
だが、いつもの風景に色が無い。まるでセピアの古典映画の情景みたいに無機質だ。
寝息を立てる息子に添い寝する嫁の肩に触れ、
「・・・息子の未来が決まった訳じゃあ無いし、健常者に負けない能力に目覚めるかも知れない・・・。
障害を乗り越える為に、一緒に頑張って行こう。」と気丈に振舞ってみる。
嫁は潤んだ目で息子を見つめながら「・・・うん。」とだけ返した。
篤志は寝室のドアをそっと締め、ダイニング照明だけ付けた薄暗い部屋で一人呆けて座り込む。
考え事をしてる訳でも無く、ただ、薄暗いリビングの隅を見つめながらしばらく呆けて座っている。
こんな状態でも普通に明日はやって来る。仕事もやらなきゃならない事が山積みだ。
腰を上げて、ソファに上着を脱ぎ棄て、浴室に向かう。
浴槽に浸かって温まる間も、なにか考え込む訳でも無く呆けている。
嫁と付き合い始めた頃・打上で同僚と夜通し飲み歩いた事・学生時代のバンドでライブ演奏した風景・・・
意味もなく過去の記憶がランダムに蘇る。
洗い場の椅子に腰かけ、ふと、それらの事は障害を持つ息子が経験する事は無いんだなと思った途端に涙がこぼれ落ちる。
感情が高ぶるのを抑えられない事に驚き、シャワーの水栓を全開にする。
浴室に鳴り響くシャワーの音を確認した途端嗚咽が止まらなくなる。
「何で・・・。 何で俺の息子なんだ・・・。」
寝静まった家族に聞こえない様、口を押え、胸を搔きむしり、あたりの強いシャワーで溢れ出る涙を洗い流しながら、嗚咽が収まるまで堪えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
浴室のシーンを書きながら、篤志という人間が、ようやく自分の中で本当に動き出した気がしました。誰にも見せない場所でだけ壊れる男の、その一夜です。
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