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【第3話:パンケーキの朝】

前話では、便利さの中で思考を手放していく世界の空気を描きました。

今話から、物語は一人の人物の顔を持ち始めます。

主人公・篤志。三十八歳。どこにでもいる、普通の父親です。

日曜の昼、キッチンに立ち、家族のためにパンケーキを焼く男の話です。何も特別なことは、まだ起きていません。それでも、この何でもない幸せの中に、小さな影が差し始めていることに、読んでいるあなたはもう気づいているかもしれません。

「パパ、まだ?まだ?」

息子が皿を両手で抱えたまま、キッチンの前でぴょんぴょん跳ねている。

フライパンの上で、パンケーキの縁がじりじりと焼き色を変えていく。

甘い匂いが部屋いっぱいに広がって、窓の外は気持ちのいい日曜の昼だった。

「もうすぐだぞ」

篤志がそう言ってひっくり返すと、息子はわあっと声を上げた。

その声を、キッチンの入口に立つ妻が頬杖をついて笑いながら見ている。

何でもないただの日曜の昼だ。

こんな時間がこれからもずっと続くものだと、当たり前のように思っていた。

息子の名前を呼ぶと、笑顔を輝かせてこちらに駆け寄ってくる。

足取りはまだ少し覚束ない。それでもまっすぐに駆けてくる。

その重さを抱き上げるたび、篤志は自分の人生がようやく形になったような気がしていた。


仕事で疲れて帰った日も、玄関を開ければこの声が出迎えてくれる。

それだけでその日の疲れの大半は溶けて消えた。

妻と結婚して五年、息子が生まれて三年。望んでいた通りの暮らしがここにあった。

「焼けたぞ。座って待ってような」

皿を受け取りテーブルに運ぶ。 息子は椅子によじ登りフォークを握りしめて待っている。

バターが溶けて、薄い金色の川になって皿の上を流れていく。それを見つめる息子の目が輝いている。


ただ、この何でもない時間の中に、篤志の頭の片隅だけが小さく引っかかったままだった。


三歳になった。なのに、まだ二語文から先に進まない。

「パパ、かいしゃ」。「ワンワン、いた」。「パンケーキ、たべる」。

三語、四語と話す言葉を、まだ聞いたことがない。


先週公園で会った同い年の子は、好きな絵本の内容がどれだけ面白いか一生懸命説明してくれる。

その子の母親と立ち話をしている間、妻が少しだけ口数を減らしていたのを篤志は見ていた。


「気にしすぎだよ。人それぞれだろ」 そう声をかけると妻は無理に笑って頷いた。

だがその日の夜、布団の中で背を向けたまま、妻が小さく溜息を吐く音を篤志は確かに聞いていた。


考えすぎだ。きっと、そうに違いない。

そう自分に言い聞かせながら、篤志はパンケーキにシロップをかける。

息子が手をベタベタにしながら不器用なフォークで夢中にかぶり付いている。

可愛い。それだけで十分だと、思おうとした。


数日後、保育園から電話がかかってきた。担任の声は、いつもより少し慎重だった。


「実は、お子さんの発達について、一度、専門の先生に診ていただくことをお勧めしたくて……」

電話を切ったあと、篤志はしばらく、受話器を握ったまま動けなかった。


リビングでは息子がブロックを積んで遊んでいる。崩れるたびに、笑い声を上げている。

その無邪気な笑い声が、いつもより少しだけ、遠くから聞こえる気がした。


窓の外は、相変わらず気持ちのいい昼下がりだった。

篤志は、まだ何も知らない息子の背中を見つめながら、自分の中で何かが静かに軋み始めるのを感じていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

「気にしすぎだよ。人それぞれだろ」

篤志は、そう言いました。妻も、無理に笑って頷きました。きっと、多くの親御さんが同じ言葉を、自分に言い聞かせたことがあるのではないかと思います。

次話では、夫婦が療育センターを訪れます。柔らかな声の女医が、静かに言葉を置いていくシーンから始まります。

引き続き、お付き合いいただければ幸いです。

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