【第2話:委ねる大衆】
前話「蝿の王のささやき」で語られた、静かな滅びの予感。
ここから少しだけ、視点が「今」に戻ります。
便利になっていく日常の中で、人は少しずつ「考えること」を手放していく――その様子を、いくつかの場面で描きます。
まだ、誰も名前を持っていません。けれど、この空気の中から、次話以降の主人公たちの物語が始まります。
歩いている。 手の中の画面が進む方向を示している。
「次を右です」 その声に従って足が動く。顔を上げることはない。
看板も、夕焼けも、すれ違う人の表情も、もう見ていない。見る必要がないからだ。
画面の方が正しい道を知っている。
たまに目を上げて、景色と現在地が一致しているか確かめるだけでいい。
オフィスの一角で男がキーボードを叩いている。取引先に詫びを入れるメールだ。
本当は自分の言葉で謝りたい。だが、上司からは経緯を入力して作成しろと指示が飛ぶ。
「もう少し丁寧な言い回しにできる?」
数秒後、整った文章が返ってくる。卑屈すぎず、誠実すぎず、ちょうどいい温度の謝罪文だ。
送信ボタンを押すだけでいい。自分の言葉はもう要らない。
学校帰りの女子高生が画面に向かって囁いている。
「彼、最近冷たいんだけど、どう思う?」
すぐに優しい言葉が並ぶ。 傷つかない言葉。 否定されない言葉。 「あなたは悪くない」。
友達に話すよりずっと楽だ。友達はたまに厳しいことを言う。 画面は、絶対に言わない。
経済も、医療も、農業も、もう「答え」をくれる。
手術の方針を決めるのも、作付けの配分を決めるのも、最適化された数字が示してくれる。
国の防衛をどう組み立てるかさえ、シミュレーションが最善手を弾き出す。
人が悩む時間はどんどん削られていく。
それでも、人の手に残されたはずの場所で、人は相変わらず人のままだ。
何年も結審しない裁判が、まだある。被害者が判決を待つ間に老いていく。
意味のない揚げ足取りで止まる国会答弁が、まだある。
実質年収4000万円を保証されたまま、議席で居眠りする議員が、まだいる。
ある国の外交官が、敵視する勢力を「業火に包む」と嘯く夜が、まだある。
別の大国は、関税という名の刃を、思いつきのように振りかざす。
声明文ひとつで、海の向こうの誰かの仕事が消える。
大国の強欲・面子・マウントの取合いで振り回される世界情勢。世界情勢に振り回される日本経済。
木材の値段が、新築を諦めさせるほど跳ね上がった年があった。
半導体が手に入らず、納車を一年待たされた家族がいた。
石油由来の原料不足で、一カ月まるまる仕事が止まる職人がいた。
そのたびに、誰かが画面の向こうで呟く。
「こんなリーダーより、絶対に不正も汚職もないAIに委ねるべきだ。」と。
便利は悪いものではない。
ナビは正しい道を示す。文章は整う。相談には優しい答えが返ってくる。一つひとつは、ただの助けだ。
誰も間違ってなどいない。
ただ、積み重なっていく。
自分で道を選ぶ。 自分の言葉で謝る。 自分の頭で悩む。
その筋肉だけが、少しずつ、誰にも気づかれないまま使われなくなっていく。
ある夜、匿名の指が、画面に短い言葉を打ち込む。
「タイパもコスパもいい。誰も傷つかない。もう、全部AIに委ねた方がいいんじゃない?」
送信される。その投稿に、いいねの数字が静かに増えていく。
画面が暗くなる。
そして、ふっと、別の場所に光が灯る。
どこかの家のキッチンだ。フライパンの上で、甘い匂いがする何かが、じりじりと焼き色を変えていく。
皿を両手で抱えた小さな子供が、待ちきれずに、その匂いの傍で跳ねている。
その無邪気な跳ねる足音にだけは、まだ誰も、何の影も差していない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話より、ようやく一人の人物に焦点が絞られます。日曜の昼、キッチンに立つ父親――その何でもない幸せな時間から、物語は動き出します。
静かな日常の中に、すでに小さな影が差し始めていることに、読者の皆様はもう気づかれているかもしれません。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。




