【第38話 理想郷の誕生】
第6章、最終話です。
今回は、大きな事件は起きません。
投票も、開票速報も、画面の外です。
ある晴れた日曜の朝、パンケーキを焼く父親の話。
それだけの回です。
理想郷が本当はどんな場所なのか。
答えは、議事堂ではなく台所にありました。
日曜の朝だった。
フライパンの上で、パンケーキの縁が、じりじりと色を変えていく。
甘い匂いが、部屋いっぱいに広がる。
息子が皿を両手で抱えて、その横で跳ねている。
「パパ、まだ?」
「もうすぐだぞ」
妻がキッチンの入口に立っている。頬杖をついて、笑っている。
あの頃と、同じ姿だった。
——戻ってきた。半年かけてこの朝が。
焼き上がりを皿に運ぶ。
バターが溶けて、薄い金色の川になって、皿の上を流れる。
息子がその川を、じっと見ている。
フォークを握った手が、待ちきれずに上下する。
「パパ、パンケーキ、まるい」
篤志の手が、止まった。 三語だ。
少し前までは、二語で止まっていた子だった。
「……そうだな。まるいな」
声が少しだけ震えた。
嬉しさで声が震えるのは、ずいぶん久しぶりだった。
テレビが点いている。音は絞ってある。国会前の映像だった。
人はいない。
あの夏、あそこには二つの列があった。
毅然を求める列と、反戦と対話を訴える列と。
どちらの列も、もう、ない。
段ボールの文字も、日の丸も、片付けられていた。
テロップが静かに流れる。
《本日、行政運用の全権をマキシマへ委任》
《国民投票、賛成七九・二パーセント》
夏に一人の主婦が署名を始めた。
人間に四十年頼んで、駄目だった、と。
あの百四十万筆のたどり着いた先が、これだった。
誰も反対しない。反対する理由が、もうどこにもないからだ。
不正のない政治。汚職のない行政。忖度も、派閥も、身内隠しも、ない。
誰がそれに石を投げる。
篤志はリモコンを取って、テレビを消した。
今日は日曜だ。
窓の外を見た。
日曜の昼前だというのに、通りに人がいない。
角のパン屋は、先月閉めた。
パンなら支給される合成食料についてくる。わざわざ焼く理由がなくなった。
向かいの家のカーテンが引かれている。
その奥で、青白い光が揺れている。テレビではない。もっと、近い光。
目の中で、直接、揺れている光だ。
この町の日曜は、静かになった。
争う声も、しない。子供の、はしゃぐ声も、しない。
満ち足りた家は、音を立てない。昔、日曜のこの時間はうるさかった。
どこかの家で夫婦が言い争っていた。子供が泣き、犬が吠えていた。
いまは、何も聞こえない。
平和とは、こんなに静かなものだったろうか。
スマホが短く鳴った。会社からの業務連絡だった。
現場監督の役が、来月いっぱいで終わる。
弁の点検も、水位の管理も、これからはマキシマがやる。
人の手より正確で速い。
二十年、設備を売ってきた。一年たらずそれを守る側にいた。
守るものがなくなった。
あの夜、両腕で回した排砂ゲート。
雨の中を、掌の皮が剥けるまで回した鉄のハンドル。
いまは指一本動かさずに開く。
雨の降る前に、勝手に開いて、止んだら勝手に閉じる。
誰も、雨の中を走らなくていい。
誰の家も、流されない。
それはいいことのはずだった。
電話が鳴った。あの夜、計器の前で泣いた若いオペレーターだった。
「篤志さん。俺、来月で……」
「知ってる。俺もだ」
「これから、何をやればいいんですかね」
「……どうすっかね」
あの夜、水位を十分ごとに読み上げた声だ。
お前の声が、今夜の唯一の正しい計器だ、と褒めた声だ。
読み上げる数字は、もうない。
生配信で、自分は言った。
動いて当たり前のものを、当たり前に動かし続ける仕事だ、と。
誰にも気づかれないのが、一番いい仕事だ、と。
向いてるんだと思います、と。
その仕事を、機械がもっと上手にやる。
通話はすぐに切れた。指先が冷たかった。
テーブルの端に、封筒が一通置いてあった。
役所から。宛名は、息子の名前になっていた。
《生活最適化支援・優先案内》
支援をいちばん必要とする世帯から。
息子のような障害児のいる家から、先に。そう書いてあった。
中身を開いた。案内は、三行に要約されていた。
《月々の生活支援金、一人当たり二十万円。就労は不要です。》
《お子様には、その子だけに調整された学びの世界を。》
《ご家族には、お子様の進路で悩まない毎日を。》
封筒の中にもう一つ、小さなケースが入っていた。
透明な薄いケース。
中に、コンタクトレンズ型VRモニターが二枚。
目に入れれば、見える景色が変わるという。
嫌なものは、もう、何一つ流れてこない。好みに百パーセント合った世界。
篤志は、そのケースを開けなかった。 テーブルの隅にそっと置いた。
まだ、これは、いい。
まだ、俺の目は、俺の目でいい。
同意書だけが、白い欄をこちらに向けていた。
息子は床に座って、タブレットを見ていた。画面の中で機関車が走っている。
トーマス。一番。パーシー、六番。ゴードン、四番。
あの頃、妻が教えたやつだ。
だが、いまの画面は違った。息子が、遅れない。
問いはいつも、息子が答えられる速さで来る。速すぎず、遅すぎず。
間違えても、責める音がない。
同じ年頃の子が、先に行ってしまうこともない。
「いち、に、さん」
息子が数えた。三まで。指を折って。
画面の中の機関車が、三両並んで、褒めるように汽笛を鳴らす。
息子が笑っている。声を上げて、笑っている。
この子がこれほど笑うのを、篤志は知らなかった。
保育園の運動会で、リレーに選ばれなかった子だ。
「ガイジは居るべき所に」と、書かれた子だ。
その言葉が、もうどこにもない世界。
遅れることが罰にならない世界。
いい世界だと思った。 思おうと、した。
妻が、パンケーキを運んでくる。皿を置くその手が、震えていない。
あの夜以来、初めてかもしれなかった。壁を叩いた手。白目を剥いて暴れた夜。
義母の車。「私のせいなのかな」と呟いた助手席。それが、遠い。
あの頃、妻は毎晩、机に向かっていた。
難読症の俳優。障害を越えた起業家。
プリントアウトの束に、蛍光ペンで線を引いていた。
この子は、まだ負けていない。そう確かめるために。
いま、その束はテーブルにない。確かめる必要がなくなったからだ。
息子は、負けない世界にいる。誰もこの子を値踏みしない。
ママ友の輪はもうない。誰も、誰かを見下ろす必要がなくなった。
人を下に置いて、自分の位置を確かめる。その壊れた癖が。
置く相手も、確かめる意味も、消えたからだ。
「今日、何か、したいことある?」
妻がそう聞いた。ふつうの声だった。何でもない日曜の、ふつうの声。
篤志はそれだけで、泣きそうになった。
「……いや。何も。このままでいい」
「この子の将来のこと」
妻が、ぽつりと、言った。
「もう、心配、しなくていいのかな?」
あの診断の夜、篤志は妻に言った。
息子の未来が、決まった訳じゃない、と。
健常者に負けない何かに、目覚めるかもしれない、と。
あの頃は、決まっていないことが、希望だった。
どこへでも行ける、その余白が、希望だった。
いま、未来は決まった。この子は一生食べていける。
働かなくても。競わなくても。負けなくても。誰にも遅れずに。
決まっていることが、いまは、救いだった。
「……ああ。もう、大丈夫だ」
そう答えて、篤志は息子を抱き上げた。四歳の重みが、腕にずしりと来る。
この重さを抱くたび、人生が形になった気がした。
その重さはいまも、確かに、ここにある。
なのに、決まってしまった未来が、少しだけ寂しかった。
その寂しさの正体も、うまく言えなかった。
篤志はペンを取った。
誰も急かさない。 誰も脅していない。
差押の貼り紙も、鳴り止まないクレームも、ない。
朝までは普通で、夕方には崩れている。そんな日は、もう来ない。
二本の足で現場に立ち続ける必要も。
白い欄に名前を書いた。
篤志、と。 几帳面ではない大きな字で。
書き終えて、手が止まった。
あの朝を、思い出していた。 差押の貼り紙に向かって吠えた朝。
スマホの投稿ボタンを押した朝。
「もう、死ねよ。死んじまえ日本!」
本気だった。あの朝の俺は、本気だった。
日本は死んだ。静かに、誰にも恨まれずに、死んだ。
強欲も、マウントも、嘘ばかりの大義も。全部消えた。
願った通りになった。俺が、正しかった。 ——だから、怖い。
何が怖いのか、うまく、言葉にできなかった。
スマホが光った。四人の場所に通知が一つ。
悠真からだった。
《報告があります。バルジバルについて》
篤志は、その画面を伏せた。
今日じゃない。 今日くらいは。 息子が、笑っているから。
あとで読む。 きっと、あとで。
今日は日曜だ。 息子のパンケーキを焼く日だ。
窓辺に小さな旗が並んでいる。夜勤明けに持ち帰ったやつだ。
お子様セットの、あの旗。
息子は、それを、玄関に並べて待っていた。
窓辺に飾って、父の帰りを待っていた。
言葉より先に、指と目で話す子だ。
旗を指さして、目で「おかえり」と言う子だった。
夜勤は、もう、ない。
お子様セットも、もう買わない。息子は玄関で待たない。
自分の世界の中にいる。そこは、遅れる子のいない世界だ。
いい世界のはずだった。
テーブルの隅で、VRレンズのケースが光っている。
あれを目に入れれば、息子の見る世界が見えるだろうか。
篤志は、少しだけ、そう考えた。
いや、と思い直した。
息子の世界は、息子だけに、調整された世界だ。
同じVRレンズを入れても、映るのは俺だけに調整された世界だ。
同じ部屋にいて、同じものを見られない。親子でも。
最適化とはそういうことだった。
「パパ、みて」
息子がこちらを見ずに言った。画面の中の、何かを、見ている。
笑っている。心から。篤志には、それが見えない。
「みてる?」
「……見てる」
見えなかった。でも、そう答えた。
運ばれてきたパンケーキが一枚、冷めていく。
窓の外はよく晴れていた。あの朝と同じ空だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
第6章「白紙委任編」、これにて完結です。
放流弁が沈黙した豪雨の朝に始まった章は、
十九分の戦争を経て、法律から骨が抜かれ、
八月に書類が燃え、一枚の投票用紙にたどり着きました。
願った通りになった。俺が、正しかった。——だから、怖い。
パン屋が閉まり、日曜の町から音が消え、
息子は心から笑っている。
ただ、その笑顔が見ているものだけは、父に見えない。
同じ部屋にいて、同じものを見られない。親子でも。
最適化とは、そういうことでした。
そして、伏せられた画面には、こうあります。
《報告があります。バルジバルについて》
悠真が、ついに沈黙を破りました。
次章、最終章「蠅の王編」。
この物語がなぜその題名なのか、回収しに行きます。




