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【第37話:証拠隠滅の連鎖】

九月一日、施行。

その日から、役所の書類の日付には国家の封がつき、

誰にも書き換えられなくなります。


つまり——後始末をするなら、八月しかない。


今回は、駆け込みで「消したい人々」の一ヶ月を、

日付順に追いかける回です。

迎え撃つのは、紙の写し二百六十枚と、魚拓千四百件。

 八月一日 

 昼のワイドショー。司会が大きなフリップをめくった。

 《九月一日から、役所の書類はこう変わる!》


 図解は単純だった。書類ができた瞬間日付に国家の封がつく。

 封のついた日付はもう誰にも書き換えられない。

 総理でも、役人でも、作った本人でも。


 「つまり、ズルの後始末ができなくなるんです」

 コメンテーターが笑顔でまとめた。スタジオに明るい拍手が起きた。


 その放送を、悠真は別の顔で見ていた。

 拍手の裏側を想像できてしまうからだ。

 四人の場所に短い書き込みを送る。


 《予言します。八月は、燃やす月になります》

 《ズルを消せなくなる前に、ズルの証拠を消す。

  やるなら、今月しかないからです》


 予言は、三日で当たり始めた。


 八月四日

 県北の文書倉庫が燃えた。深夜二時の出火。放火の疑い。

 燃えたのは二十年前の林地開発の綴りだけ。

 隣の棚の備品台帳は無事だった。

 火は読まれたくない棚だけ選んで食べた。

 駆けつけた消防団員が地元紙に語っている。

 「入った瞬間油の匂いがしました。でも、

  匂いだけでは証拠になりませんから」


 同じ週

 書類裁断の業者がテレビ取材に答えた。

 「機密文書の処分? 今月は注文が十倍ですよ。

  役所の裏に、うちのトラックが列を作ってます」

 笑いながら喋り、途中で気づいて青くなった。

 その映像は、夜には二百万回再生されていた。


 八月八日

 県庁のサーバが「定期保守」に入った。

 保守が明けると、古い決裁データが消えていた。

 発表は、三行だった。

 《機器の不具合により一部データが損傷しました》

 不具合は、二十年分の中の、三年分だけを選んだ。


 その晩、葵は現場を見てしまった。

 残業帰り、県庁の分室の前を車で通ったときだ。

 零時近いのに、二階の窓に灯りが並んでいる。

 低い唸りが道路まで届いていた。

 シュレッダーの音だ。それも、複数。

 裏口には、半透明のゴミ袋が積まれていた。

 白い紙吹雪の詰まった袋が、腰の高さまで。

 守衛に会釈して、葵はスマホで写真を撮った。

 日付と時刻の入る設定で、三枚。

 撮りながら、指が少し震えた。書類は悲鳴を上げない。

 だから、誰かが数えておくしかない。


 八月十日。

 葵は、次のものを見つけた。

 登記所の閲覧台。蟬の声。美杉町、旧演習林の地上権の書類。

 三ヶ月前に読んだものと、同じ番号、同じ判子。

 なのに、日付だけが十一日ずれている。たった十一日。

 でも、このずれ一つで、違法だった開発が合法だったことになる。

 窓口に確認した。「それが、原本ですが……」職員も首をかしげていた。

 原本が、いつの間にか別人になっている。

 葵は鞄から三ヶ月前に取った写しを出した。紙の日付は古いまま動かない。

 「この写しの複写を取らせてください。今すぐ」

 その足で、関連の綴りを三冊、閲覧請求した。


 一冊目、日付が九日若返っている。

 二冊目、同じく六日。

 三冊目は、綴りごと「紛失中」だった。


 閲覧票に記入する自分の字が乱れていた。

 急げ。向こうは、もっと急いでいる。


 その夜、葵は悠真に写真を送った。

 《差し替えられてた。他もやられてると思う》

 返事は一分で来た。

 《大丈夫です。全部、魚拓があります》

 《魚拓?》

 《闇祓いネットに届いた書類は、受け取った瞬間、

  中身の「指紋」を数字にして控えてあるんです。

  一文字でも書き換われば、指紋が合わなくなる。

  どれが差し替えられたか、全部あぶり出せます》

 篤志が、横から一行入れた。

 《魚拓て。釣りかよ》

 《似たようなものです。逃がした魚の本当の形が残るので》


 二人の作業は、単純で地味だった。

 葵の写しが、二百六十枚。

 悠真の指紋の控えが、千四百件。

 今、役所にある書類と、一枚ずつ突き合わせる。

 指紋の合わないものに、付箋を貼る。

 夜九時から明け方まで三晩。付箋は、三十七枚になった。

 三十七件の公文書が、八月の間に別人にされていた。


 途中経過を報告すると、誠一郎から返信が来た。

 《九月一日を過ぎれば、その付箋は全部、二度と消せない証拠に変わります。

  あと二週間、必ず守り切ってください》

 言われるまでもなく、備えは済ませてあった。

 照合済みの束は、複写を三部ずつ。

 一部は葵の手元。一部は悠真の元へ。

 最後の一部は、互いに場所を知らせない預け先へ。

 バイク便の夜に、四人が覚えたやり方だった。

 燃やされても、消されても、必ずどれかが残る。


 紙の次は、人だった。


 八月十一日

 測量事務所の老所長が逮捕された。

 容疑は十年前の建築士法違反。今さらの別件。

 葵に古い測量帳を見せてくれた人だった。

 「杭は、噓をつかんよ」と笑った人。

 その帳面は、蔵ごと警察に運ばれていった。

 差し替え前の境界を証明できる、最後の帳面ごと。


 三日後、所長の娘が闇祓いサイトに投稿した。

 《父は五十年、山を測ってきただけです。

  せめて帳面を無事に返してください。

  あれは父の字で書いた、山の戸籍なんです》

 投稿には、二十万の応援がついた。帳面は返ってこなかった。


 八月十三日

 孫請け会社の元経理の男性が死んだ。自ら命を絶ったと報じられた。

 例の課長の取調べで、名前の出た人だった。

 下請けに流れた金の帳尻を全部知る立場だった。


 八月十五日

 その課長が供述を変えた。

 《すべて私の一存でやった。指示は受けていない》

 ハンコを押しただけ、と泣いていた男が、だ。

 弁護士の読み上げる紙を、伏し目で聞く映像。

 カメラが寄っても、一度も顔を上げなかった。

 保釈から九日。誰と会ったかは分からない。


 ニュースを見ながら、篤志が書き込んだ。

 《ありゃ、家族を握られた顔だ。

 現場で何度も見た。潰される下請けの顔だよ》


 最終週は、逃げる週だった。


 県議が二人、「一身上の都合」で辞職した。

 議員でなくなれば、百条委員会は届かない。


 元請けの元役員は、会見の前日に入院した。病名は公表されない。


 当時の認可担当の部長は、家と車を妻の名義に書き換えた。

 その登記だけは、正直に日付を残していた。


 八月二十九日

 土地取引を仲介したブローカーの男は、施行三日前の便で国外へ出た。

 空港ラウンジで撮った自撮りが、流出した。

 シャンパン片手に《しばらく南の島!》。

 写真は三時間で四百万人に届き、男の名前はその日の流行語になった。

 施行の、三日前。逃げるために押した判子が、逃げた証拠になる。


 八月三十日

 悠真は動画を公開した。題は《燃やしても、残ってました》。

 十五分。難しい言葉は、一つも使わなかった。

 選んで燃えた棚の写真。裁断トラックの列。

 葵の写しと、指紋の合わない三十七件の一覧。

 辞めた県議と、入院した役員と、変わった名義。

 最後に、悠真の声が静かに言う。

 《噂ではなく、記録を。感情ではなく、日付を。

 日付は、こんなにたくさん残っていました》


 再生は、一晩で九百万回を超えた。

 コメント欄の最上位は、こうだった。

 《小三の息子と一緒に見た。見終わって息子が

 「ずるした人が、テストを燃やしたんだね」って。

 小三に分かることが、なんで大人に裁けないの?》

 共感、四十一万。

 答えられる大人は、いなかった。


 翌日、八月三十一日

 県警が捜査本部を立てた。差し替えに関わった職員二人が書類送検された。


 でも、そこまでだった。


 辞めた県議はもうただの市民だった。

 病室のドアは捜査より頑丈だった。

 死んだ人は、何も証言しなかった。


 一番上まで繋がる紙は、最初の火事で燃えていた。


 三十七枚の付箋が守れた線は、五本。

 八本あった生きた線は、五本に減っていた。


 世間の怒りは燃え上がった。ただし、燃える方向が違った。


 定食屋のテレビの前で、客が言う。

 「マキシマは十九分で国を守ったのにさあ。

  人間は一ヶ月かけて、書類燃やしてたのかよ」

 タクシーの運転手が、ラジオ相手にぼやく。

 「もう全部、機械に任せりゃいいんだよ。機械は保身も出世もしねえんだから」


 ネットには、一つの言葉が溢れた。

 《人間がやると、必ずこうなる》


 隠滅のニュースの下にも、その一言。

 電車の遅延情報にも、冗談の顔でその一言。


 職場でコピー機が詰まっても、誰かが言う。「ほら、人間がやると必ずこうなる」

 オフィスに乾いた笑いが起きる。冗談は、繰り返されるうちに本音になる。


 行政をAIに任せようという署名が始まった。

 発起人は、ごく普通の主婦だった。


 《正直者が損をしない国を、子供に残したい。

  人間に四十年頼んで、駄目でした。次の四十年は、マキシマに頼みたいです》


 憎しみのない文面が、一番速く広がった。

 賛同は、三日で百四十万筆になった。


 葵は、深夜の台所で林檎を剥いた。

 悠真から、短信が一つ届いていた。

 《経理の男性の奥さんから、お礼が来ました》

 遺書の文が、本人の癖と違う。二十年分の業務日誌と比べてそう指摘した件だ。

 《夫は、ああいう文章を書く人じゃなかったと。

  やっと誰かに言えた、と書いてありました》

 救えたものも、確かにある。三十七枚の付箋と、一人の男性の名誉と。


 でも、と葵は思う。

 悪いことをしたのは、名前のある誰かだ。

 燃やしたのも、消したのも、逃げたのも。

 なのに世間の請求書の宛名は、いつの間にか「人間ぜんぶ」になっている。


 林檎の皮が、一本の帯で繋がって落ちる。窓の外で八月最後の虫が鳴いていた。


 敵はもう、海の向こうの国じゃない。

 書類を燃やした誰かたちですら、ない。


 世論の照準は、静かに動いて、止まった。——人間、そのものに。


お読みいただき、ありがとうございます。


燃やして、消して、口を塞いで、逃げる。

一ヶ月の悪足掻きの記録でした。


守れたものはあります。三十七枚の付箋と、一人の男性の名誉。

守れなかったものもあります。五十年分の帳面と、生きた線が三本。

そして大物は、病室と辞職と南の島へ、きれいに逃げ切りました。


《小三に分かることが、なんで大人に裁けないの?》

この問いに答えられなかった代償は、思わぬ方向に請求されます。

請求書の宛名は、「人間ぜんぶ」。


次話「理想郷の誕生」。第6章、最終話です。

十一月、一億二千万人が投票所に向かいます。


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