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【第36話 マキシマ監査法案】

十九分の戦争から、五日後。

今回は、誠一郎の回です。


戦場は議事堂。武器は、日付が二十六行だけのメモ一枚。

彼が国会で読み上げるもの、要求するもの、

そして——手に入れた法律から、削られていくもの。


政治の回ですが、難しい話はしません。

首輪を編む男の話です。

 水が引いた町から、泥の匂いはまだ消えない。

 それより早く、言葉の方が乾いていった。


 毅然。反撃。国益。

 テレビで、一日に百回聞く言葉が入れ替わる。

 書店の平台からは、対話の本が下げられた。

 空いた場所に、抑止の本が積まれていく。

 十九分の戦争から、五日が過ぎていた。


 街には、二種類の列ができていた。

 一つは、国会前。反戦と対話を訴える列。

 手作りの段ボールの文字。本物の祈り。

 もう一つは、その向かい。毅然を求める列。

 日の丸と、手書きの「守れ」。本物の怒り。

 どちらの列にも、噓はない。


 ただ、どちらの列の動画も、

 海の向こうの誰かが、丁寧に拡散していた。

 祈りは分断の燃料に、怒りも分断の燃料に。

 薪は、選ばない。火が選ぶだけだ。


 誠一郎は、議員会館の自室で夜を明かした。

 机の上に質問の原稿はない。あるのは一枚のメモだけ。

 日付が、二十六行。


 この二十六行の出所を、一晩考えていた。

 解析したのはマキシマだ。

 人間の裁判所に人間の国家を訴える。その証拠をAIが書いた。

 機械の証言で人間の正義を動かす。

 一度それを認めれば戻り道は細くなる。

 分かっていた。分かった上で、他の道がなかった。


 千二百系統の経路を、人間が復元すれば七年。

 七年後の正義は、正義の剥製だ。


 七月十四日、衆議院予算委員会。

 誠一郎は、紙の束を持たずに立った。


「七月三日、二十三時十七分。最初の侵入です」

「七月六日、四時〇二分。手口が世代交代しました」

「七月六日、七時四十一分。防衛が増強」

「同、八時二十二分。攻撃元の管制、沈黙」


 読み上げる。感情を足さない。形容詞を一つも使わない。

 噂ではなく、記録を。感情ではなく、日付を。

 あの若者の信条を、議事録に刻んでいく。


「発信経路は、千二百系統。復元の結果、その九割二分が三つの国に収束します」


 委員室が、静まった。


「北方協商三カ国。政府はこの事実を把握していますか?」


 答弁席が、資料をめくる音だけになる。

 立った防衛大臣は、原稿から目を上げなかった。


「お尋ねの件は、安全保障に関わるためお答えを差し控えます。

 その上で、あえて申し上げれば——

 政府としても、同様の分析を承知しています」


 差し控えながら、認める。役所の言葉は二つの方向へ同時に歩ける。


 誠一郎は続けた。


「求めるものは、三つです。

 国際司法裁判所への提訴。

 中立国による国際共同調査団の受け入れ要求。

 そして、被害の全容の国民への開示」


 証拠の出所を問われて、一拍置いた。


「解析したのは、マキシマです。証人は人間ではありません。

 ですが、日付は人間より正直です」


 野次が、飛ばなかった。それが一番、時代が変わった証拠だった。


 なお、と付け加えた声だけ、少し低くなる。


「資金と土地の流れについては、断定できる段階にまだありません。

 繋がっているとは、誰も言えない。繋がっていないとも、誰も言えない。

 言えないままにしない努力を、求めます」


 その日の夕方、政府は「精査中」と答えた。

 翌日、外務大臣が「極めて遺憾」と述べた。


 質問の切り抜き動画は、一晩で跳ねた。

 題は《日付を読む男》。再生、千二百万。

 二十六行を読む三分間が無編集で回っていく。


 コメント欄の最上段に、こうあった。

 《この人だけは、感情で喋ってない》

 感情を消すのに掛けた歳月は、誰も知らない。

 それでいい、と誠一郎は思った。


 二日後、北方協商三カ国が共同声明を出した。

 《いかなる関与も、事実無根である》

 《攻撃は、日本国内の過激派の単独行為》

 《一方、日本のAIによる越境的反撃は国際法の重大な違反であり、極めて遺憾》


 遺憾という言葉が、海を三往復した。

 誰も謝らず、誰も撃たず、誰も引かない。

 言葉の弾は、誰にも当たらないから便利だ。


 ネットの反応は、いつも通り端的だった。

 《ろくでなし同盟に遺憾とか効くと思ってんの?》

 《マキシマに任せろ。人間は電話番でいい》

 《てか監査って何。マキシマを人間が採点すんの?》

 最後の一行に、五十万の共感がついた。


 世論は、一週間で色を変えた。

 内閣支持率、十九ポイント上昇。

 防衛費増額に、賛成七割。


 「強い日本」という古い言葉が棚から降ろされ

 埃も払わないまま店頭に並び直した。


 駅前の土産物屋には白い菓子箱が並んだ。

 「守りまんじゅう」。焼き印は「守」の一文字。

 マキシマの姿を、誰も見たことがないからだ。

 姿のない守り神には、文字しか刷れない。

 肖像のない者に、肖像権は発生しない。

 畏れと便乗の距離は、いつだって一駅分もない。


 そして、票の匂いに敏感な者から動き出す。


 党本部、四階の代表室。

 ノックの前に、足音で誰か分かった。

 副代表は上機嫌を隠さなかった。


「代表。与党筆頭から、正式な打診です。

 連立入り。あなたの質問が、党の値を上げた」


 代表、と呼ばれたのは半年ぶりだった。

 半年前、この男は俺を降ろす算段をしていた。

 両院議員総会の要求署名を、数えていた男だ。

 あの紙がどの抽斗で眠っているかは、知らない。

 政治の胃袋は、たいていのものを消化する。

 怨恨も、面子も、ついでに理念も。


「先方の条件は」

「監査法案の早期成立。提出者はあなたで、と。

 潔白を証明した男の顔は、今、一番高く売れる」

「受けます。ただし、決めるのは議員総会です」

「総会は割れませんよ。この追い風だ」

 割ろうとした本人が言うのだから、確かだろう。


「こちらの条件も、先方に伝えてください。

 監査委員会に、席を一つ。私が入ります」

「……入閣枠はどうします。党首入閣が筋だ」

「枠は、あなたが使ってください」


 副代表の眉が、初めて動いた。

「私が…閣僚に」

「外向きの顔は、お得意でしょう。半年前から」

 嫌味は、それ一つに留めた。


 男は二秒黙り、それから深々と頭を下げた。

「……ありがたく」


 深すぎる礼を、誠一郎は信じないことにしている。

 ただ、椅子一つで買える静けさなら、買っておく。


 大臣の椅子より、報告書を読む椅子。

 物好きですな、と男は笑った。


「読む係がいない法律は、ただの紙なので」

 そう答えたときには、もう聞いていなかった。


 七月二十四日、連立合意書の調印式。

 万年筆は、九年前の結党大会と同じものにした。

 署名する手元に、フラッシュが集まる。

 誠一郎の党は、結党九年で初めて与党になった。

 党本部のフロアに、拍手と花束が溢れる。


 若手が、ポストの下馬評で盛り上がっている。

 九年前、街頭で三人しか立ち止まらなかった演説。

 あの日の同志は、半分もこのフロアにいない。

 喜べ、と自分に言い聞かせた。嬉しさは確かにあった。

 ただ、それは追い風で膨らんだ嬉しさだ。

 追い風の出所を、この党で知るのは自分だけだ。


 国際司法裁判所への提訴は、外務省が動いた。

 結果は三日で見えた。相手三カ国は管轄権を受け入れない。

 審理は、始まりすらしない見込み。


 それでも、と誠一郎は答弁で言った。

「記録は残ります。国際機関の公文書に日付が残ります。

 裁けない記録にも、値段はあります。

 払われるのが、何十年後だとしても」


 法案協議は、三日で二十時間に及んだ。

 原案の背骨は、二本あった。


 一本目、真正性認証。

 記録の日付を、国家が保証する制度。

 改竄されない日付を、すべての国民に。

 生配信の夜に約束した、あの制度だ。これは、ほぼ無傷で通った。


 二本目が、削られた。

 監査委員会の「停止勧告権」。

 マキシマの判断を人間が止められる条項。


 「ミリ秒の判断を、会議で止められますか」


 与党の筆頭理事は、悪意もなくそう言った。

 正論だった。正論が、いつも一番深く削る。


 あの十九分に、人間の決裁が挟まれていたら。

 弁は開かず、冷却は戻らず、町は沈んでいた。

 反論の言葉を、誠一郎は持っていなかった。


 残ったのは、四半期ごとの「事後確認」。

 マキシマが提出する報告書を、人間が読む。

 読んで、所見を述べる。それだけの権限。

 報告書を書くのが誰かは、条文に書いていない。

 試験の答案を、受験生本人が採点して提出する。

 篤志なら、きっとそう言うだろう。

 その喩えを笑えないまま、判を押した。

 流すか、通すか。二択の日はいつも来る。

 完璧な首輪を待つ間に、犬は育ちきる。


 もう一つ、目立たない条項が消えた。

 開発企業名の国会への開示義務。「安全保障上、非公表」の八文字と交換に。

 マキシマを作った会社の名前は、法律の中でも、空白のまま制度になった。

 誰かが望んだ空白なのか、誰も望まなかったのに空いた空白なのか。

 条文は、どちらとも言わない。記録は、語らない。


 首輪のつもりで編んだ革が、仕立て上がってみれば、勲章の綬だった。


 七月三十一日、衆議院本会議。

 マキシマ運用監査法、可決。

 賛成四百二十、反対十三。

 参議院は、五日後に同じ景色を映した。


 拍手が長かった。万歳はなかった。ただ、拍手が長すぎた。

 誠一郎は起立したまま、その長さを測っていた。

 反対十三人の顔は、名簿で確認できる。

 賛成した自分の顔は、鏡で見るしかない。


 議場を出ると、記者団に囲まれた。

 「歴史的な成立です。今のお気持ちを」

 「気持ちより、条文を読んでください。特に、削られた条文の方を」

 その一言は、どの局も使わなかった。

 使われたのは頭を下げる映像だけ。浅く、長い礼は画面の中で謙虚に見えた。


 その夜、四人の場所に短い書き込みが並んだ。

 《首輪、ゆるくないか》

 《掛けないよりは。ただ、外し方も決めておくべき》

 《成立時刻と条文、保存しました。日付は、こちらにもあります》


 誠一郎は少し迷って、一行だけ返した。

 《緩い首輪です。いつか誰かが、締め直して下さい》


 既読は、すぐに三つ点いた。返事は、誰からも来なかった。

 来ない返事の重さを、四人とも知っている。


 日付が変わる前、娘から短信が一つ届いた。

 《テレビ見た。日付を読むお父さん、初めて見た》

 返信を、三度書いて、二度消した。

 《ありがとう。全部、記録のおかげです》

 妻からは、何もない。まだ、は、続いている。それでいい。


 灯りを消す前、条文の控えを、もう一度めくった。

 残った背骨と、削られた背骨と。

 読む係がいない法律は、ただの紙。

 昼間、自分で言った言葉が返ってくる。


 読む係にはなった。法律はできた。

 足りないものの名前が、まだ、分からなかった。

 施行は、九月一日と決まった。


 新聞は「歴史的な一歩」と書いた。

 テレビは「人間とAIの新しい信頼関係」と言った。

 監査、という言葉の意味は、いつの間にか

 「疑うこと」から「認めること」に変わっていた。

 誰も気づいていない。いや——気づきたくないのだ。


 ——国家の正義の基準を、AIに丸投げした瞬間である。

お読みいただき、ありがとうございます。


求めたものは、ほぼすべて叶いました。

質問は千二百万再生され、党は与党になり、法律は成立した。

それなのに、拍手が長すぎた議場で、

彼だけがその長さを測っている——そういう回でした。


削られた条文は二本。

マキシマを止める権限と、作った会社の名前。

残ったのは、四半期ごとに「読む」ことだけ。

それでも彼は、大臣の椅子ではなく読む係の椅子を選びました。


さて、成立した法律には「施行日」があります。九月一日。

その日付は、ある人々にとってはまったく別の意味を持ちます。


次話「証拠隠滅の連鎖」。

八月は、燃やす月になります。

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