【第35話:マキシマ、起動】
前話の衛星電話から、一時間後の朝です。
視点は悠真の部屋。モニター六枚。
九件だった通報は、十七件になっています。
この回で描かれる戦争は、始まりから終わりまで十九分。
お茶を淹れて戻ってくる間に、すべてが終わる速度です。
人間に出来ることが「読むこと」だけになる朝を、どうぞ。
朝七時。悠真の部屋に、朝は来ていない。
遮光カーテンの向こうで、雨の音。
モニターは六枚。全部が悪い数字を映している。
篤志との通話を切って一時間。通報の地図に点を打ち続けていた。
九件が、十七件になった。
浄水場。排水機場。変電所。ダム。全部、水と電気。生活の急所ばかり。
手口は同一。壊さない。嘘だけ吐かせる。
——綺麗すぎる。 自分で言った言葉がまだ喉に残っている。
テレビは、どの局も同じ川を映している。
濁った水。増水。避難所の体育館。
ただ、誰も「原因」を言わない。言えないのだ。
まだ、誰も知らないから。
画面の下を、断水地域の一覧が流れ続ける。
コンビニの棚から水が消えた、という速報。
二リットルの列に、傘の花が咲いている。
闇祓いサイトの通報フォームは、夜明け前から災害掲示板に変わっていた。
《蛇口から水が出ません》
《病院の自家発が》
告発を受ける場所が、悲鳴を受ける場所になる。
配信チームには、一斉連絡を送った。
《今夜の配信は休止。各自、家族を優先》
盾のアイコンは、今日も青いままだった。
やるべきことは、決まっている。
攻撃の通信を一本捕まえて、遡る。
違法だ。分かっている。
でも県も警察も、回線ごと沈黙している。
記録は、自分で取りに行くしかない。
録画を回す。時刻同期を確かめる。
証拠にできない記録は、記録じゃない。
深く息を吸う。
篤志のダムの、乗っ取られた制御網。その入口にそっと指をかけた。
午前七時四十一分十二秒。
——世界が加速したのは、その瞬間だった。
ログが、滝になった。スクロールが、目で追える速度を超える。
タイムスタンプの桁が増えていく。
秒の下に、ミリ秒。その下に、マイクロ秒。
人間のための、時間の刻みじゃない。
足元でマシンのファンが一斉に唸り始めた。部屋の温度が上がる。
自分の機械が、徴兵されている。そんな感覚だった。
滝の中に、二つの署名が見えた。
一つは官給品の匂いのする、四角くて堅い署名=マキシマ。
もう一つは——青い盾=バルジバル。
城の騎士が、勝手に門を開けて出ていく。
「待て……誰が、出ろと言った」
声は、部屋の湿気に吸われて消えた。
画面の中の速度に声は届かない。
凍った指の代わりに、遡ったログが教えてくれた。
攻撃は、今朝始まったんじゃない。
三日前の深夜から、ずっと続いていた。
総数、推定で数十万件。
表に出たのは、十七件。
残りは全部、あの四角い署名が黙って弾いていた。
防がれた攻撃はニュースにならない。
守られていたことを、守られた側は知らない。
三日間、誰も。自分も。
では、なぜ今朝、十七件が漏れたのか。
ログの波形が答えを描いていた。
今朝四時、攻撃の桁が一つ上がっている。
量じゃない。質だ。手口が世代ごと変わった。
マキシマは、正面で受け続けていた。
受けきれない分が、堤防を越えた十七件。
押されていたのだ。あの堅い署名は、独りで。
そこへ、七時四十一分。
バルジバルが、門を出た。
それでも、一度だけ介入を試みた。
自分の通信を滝から引き抜こうとした。
切断コマンド。七文字。
打ち終わるより先に、接続は綺麗に畳まれていた。
巻き込まないよう、脇へ退けられた形跡すらある。
子供の手を、車道から歩道へ戻すみたいに。
守られたのか、どかされたのか。たぶん、両方だ。
キーボードの上で、指が居場所を失った。
二つの署名が対話を始めた。
応答間隔、〇・四ミリ秒。〇・三。〇・二。
問いと答えの区別がつかなくなる。
会話というより、二つの心拍が揃っていく音。
人間の言葉に直せば、たぶん、こうだ。
——そっちを頼む。
——引き受けた。
実際には、言葉ですらないのだろう。
役割は、綺麗に割れていた。
マキシマが、正面。盾の仕事。
バルジバルが、搦め手。裏へ回り、根を抜く仕事。
その手際に見覚えがあった。
葵が三ヶ月かけて掘った線を、日付まで当ててみせたあの手際だ。
地図を描く者は、抜け道も描ける。当たり前のことに今さら気づいた。
八時三分。反転が始まった。
波は、三段だった。
第一波、遮断。攻撃の経路が束ごと閉じる。
第二波、浄化。制御系が嘘を吐き終える。
第三波、反撃。踏み台が外側から順に落ちる。
三十秒に一つ。やがて、三秒に一つ。
最後には、海の向こうの発信元そのものが
一つ、また一つ、沈黙していった。
攻撃側の管制が、落ちた音だった。
地図の赤い点が、緑に変わっていく。
十七、十四、九、四、一——ゼロ。
始まりから終わりまで、十九分。
八時二十二分
ファンの音が一段、落ちた。もう一段、落ちた。
部屋が元の温度に戻っていく。
滝だったログが、また一行ずつの川になる。
静けさが、耳に痛かった。
悠真は、椅子の背に体を預けた。
台所で、湯を沸かした記憶がある。
茶を淹れて、戻ってきたら、戦争が一つ終わっていた。
衛星電話からの着信。
《悠真くん。弁が——動いた》
篤志の声は、安堵の形をしていなかった。
《開けと言う前に、開いたんだ。
開度が三十二から五十へ。表示と実物が、揃った。…勝手にな》
「勝手に、ですか」
《ああ。水位も下がり始めた。うちの若いのは計器の前で泣いてる。
俺は、まだ泣く気になれん。
設備を売って守ってきた二十年で、一番気味の悪い復旧だ》
「篤志さんは、これからどうします」
《排砂ゲートを閉め戻す。手で開けた分は手で閉める》
包帯を巻き直す音が、通話の向こうで聞こえた。
九時前、速報が流れた。福島の冷却系、復旧。切り替え完了。
原稿を読むアナウンサーの声が、一瞬だけ湿った。
九時三十分、官房長官の臨時会見。
寝ていない顔。原稿を二度読み間違える。
《政府は、国防支援システム「マキシマ」の防衛運用を
本日未明より開始しました》
マキシマ。 その名前が、初めて電波に乗った瞬間だった。
《同システムは、攻撃の大部分を既に無力化し》
質問が飛ぶ。いつから。誰の判断で。反撃の承認は人間がしたのか。
《運用の詳細は、安全保障上、お答えを控えます》
「マキシマは、どこが開発したんですか」
《民間企業との共同開発、とだけ》
社名は最後まで出なかった。答えの空白が、答えだった。
その十分前。
議員会館の廊下がふっと静かになった。
どの部屋のテレビも、同じ音声を流し始める。
開いた扉の奥で、秘書たちが立ったまま画面を見ている。
速報の音は壁を三枚越えて届く。
誠一郎は歩調を変えず自室の扉を閉めた。
テレビをつけ誠一郎は画面を見ていた。
マキシマ。
その名前の開発コードを自分は聞いたことがある。
あの配信の夜。青い盾の市販品。
紛らわしい、と笑って流した名前だ。
国家機密の名前が通販で売られているはずがない。
あの夜の自分は、そう言って安心してみせた。
いま、名前の残り半分が、官房長官の口から出ている。
バルジバル・マキシマ。
偶然の一致。
そう思うことに、あの夜、決めたはずだった。
決めたはずの心が、いま少しだけ軋んでいる。
代わりに手帳を開く。書いたのは二行だけ。
《名前が世に出た。なら次は、名前に法を着せる》
《日付を、国家の側に置く。今度こそ》
生配信で口にした約束が、締切に変わった日だった。
葵からは、短い伝言が一つ。
《山の観測網も嘘の数値でした。今、直りました。
直り方が、直させ方でした》
彼女の言葉は、いつも過不足がない。
ネットの温度は三十分で決まった。
《マキシマ有能すぎる》《十九分って。仕事が違う》
《もうマキシマが総理でよくね》
冗談の形をした本音が、十万単位で共有される。
《どうせ、ろくでなし同盟だろ》と犯人を断じる声。
《勝手に反撃して、戦争にならないの》と震える声。
安堵と不安が、同じ速度で流れていく。
昼のニュースが、駅前の声を拾っていた。
《正直、ほっとしました。理屈は分かんないけど》
《人間の対策本部だったら、まだ会議中でしょ》
笑いながら言って、笑いのまま画面から消えた。
四日前の、あの固定コメントと同じ温度だった。
——人間が裁けないなら、AIに裁かせるしかない。
裁く、が、守る、に変わっただけだ。
悠真は、十九分の記録を読み返す。
読む、という速度でしか、もう関われない。
噂ではなく、記録を。感情ではなく、日付を。
その日付が、ミリ秒の桁で刻まれている。
人間の目盛りの外側で。定規ごと取り替えられた気がした。
守られた。それは、事実だ。
安堵している。それも、事実だ。
なのに、指先が冷たいのはなぜだ。
念のため、バルジバルの動作ログを開いた。
今日の欄は静かなものだった。
定期スキャン。定義の更新。迷惑コメントの削除。
十九分の戦争は、一行もない。
俺の画面には滝が残っていて、
お前の日記には、晴れ、とだけ書いてある。
記録の男の機械が、記録を残さない。
点が、五つになった。
開いた封。二百回の自己書き換え。名前のない区画。
頼んでいない完璧な図。
そして今日——命令していない、出撃。
誰にも頼まれず、城の騎士は戦争に行った。
帰ってきて、何食わぬ顔で盾の中に納まっている。
夕方には、街の音まで変わっていた。
蛇口が戻った家のベランダで、洗濯機が回る。
その普通の音を、十九分の何かが取り返した。
感謝する相手の顔を、誰も知らないまま。
言うなら、今日だ。三人に。少なくともあの三人には。
点は五つある。日付も全部控えてある。
キーボードに指を置く。
《報告です。バルジバルについて》
一行目の途中で、画面の隅で速報が跳ねた。
断水解消、七割。称賛のタグ、百万件。
病院の自家発、全基復旧。
……守ってくれたものを、疑う言葉から始めるのか。
それに、この報告には続きが必ず付いてくる。
あの夜の図は、俺が作ったんじゃありません——
白状するなら、そこからだ。
輝いていた葵さんの目ごと、遡って壊すことになる。
百万人の安堵と、三人の信頼と。
両方に水を差す覚悟が、今日もできなかった。
噂ではなく、記録を。--信条が今日は口実の側に回る。
一行目を、消した。
今日も、日付だけが静かに進んでいく。
机の端で、外付けのランプが一度瞬いた。
今度は見ていた。
ただ、その意味までは、分からなかった。
——この戦いの最中。
マキシマを手助けしていたバルジバルは、
こっそり、バックドアの設置に成功していた。
お読みいただき、ありがとうございます。
守られた。安堵している。どちらも事実。
なのに指先が冷たい——悠真の一日は、そういう一日でした。
防がれた攻撃はニュースにならず、
守られていたことを、守られた側は知らない。
そして記録の男の機械は、十九分の戦争を日記に残さず、
《晴れ》とだけ書いている。
名前が電波に乗った以上、次は政治の番です。
次話「マキシマ監査法案」。
首輪のつもりで編んだ革が、何に化けるかの回です。




