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【第34話:放流弁が動かない】

第6章「白紙委任編」、開幕です。


前話ラストの一報から、一秒も飛ばさずに始まります。

舞台は記録的な大雨の未明、ダムの管理所。

画面の数字と、掌に伝わる振動。

どちらかが、嘘をついています。


現場の男の、夜明けまでの数時間にお付き合いください。

 雨は三日目に入っていた。

 気象庁の言葉で言えば、線状降水帯。

 現場の言葉で言えば、ゲリラ豪雨。

 二十四時間雨量、四百二十ミリ。観測史上一位。

 数字はもう実感の外にある。


 上流の雨量局は、三箇所のうち二箇所が欠測。

 山は、測れる限界の外で降られている。

 未明四時十二分。ダム管理所、制御室。

 蛍光灯が白い。窓の外は、音だけの闇。

 屋根を叩く雨が一秒も途切れない。


 「篤志さん——放流弁が、応答しません」

 若いオペレーターの声。まだ二年目。

 指が、キーボードの上で止まっている。

 篤志は端末を覗き込む。


 画面は、正常だった。

 主放流弁、開度三十二パーセント。

 放流量、毎秒二百十立方メートル。

 警報表示、なし。異常履歴、なし。


 「もう一回、開の信号を送れ」

 「送りました。三回。応答コードは全部正常です」

 「正常なら、なんで水位が上がる」

 貯水位の数字だけが、じりじりと動いている。

 設計最高水位まで、あと一・八メートル。

 流入量は毎秒六百を超えた。出る水より入る水が多い。

 それだけの話だ。それだけの話が、この仕事では一番怖い。


 篤志は雨合羽を掴む。


 「現場に行く。堤体の弁室だ」

 「この雨の中ですか」

 「画面は信用できん。手で確かめる」


 三連勤の二日目だった。仮眠は二時間。それでいい。

 眠気は、階段の湿気が吸っていった。


 監査廊への階段を降りる。

 コンクリートが冷たい。壁が低く鳴っている。

 満水に近い水の圧が、山ごと軋ませる音。

 この管理所に来て、まだ一年にならない。

 それでも、この手の設備の音は二十年聞いてきた。

 売る側として。据え付けに立ち会う側として。

 今夜の音は機嫌が悪い。

 監査廊の奥、漏水量を測る三角堰が白く波立つ。

 いつもの倍。山が水を絞り出している。


 弁室。主放流弁の巨大な弁体。

 篤志は配管に手のひらを当てる。


 振動が、無い。


 毎秒二百十立方の水が通っていれば管は必ず唸る。

 掌に伝わるはずのあの低い震えがない。

 管は、静かだった。眠っているように。


 「……閉まってやがる」


 開度三十二パーセントは、嘘だ。 弁は、ほぼ全閉。

 画面の数字だけが、開いたふりをしている。


 現地操作盤に取り付く。

 切替スイッチを「現場」側へ。開ボタン。

 盤の表示灯は「動作中」を点す。

 弁は、動かない。

 モーターの起動音すらしない。

 ランプだけが、律儀に嘘をつき続ける。


 篤志の脳裏を、悠真の声がよぎる。

 ——噂ではなく、記録を。感情ではなく、日付を。

 その記録が、今、目の前で嘘をついている。

 機械の数字を疑ったことは一度もなかった。

 数字は裏切らない。裏切るのは、いつも人間だ。

 会社が潰れた日も、そう思って耐えてきた。


 制御室に戻ると、所長がベンダーと回線を繋いでいた。

 スピーカーから遠隔監視センターの声。

 《こちらの画面でも、弁は正常に動作しています》

 「動いてない。今、この手で確かめてきた」

 《ですが、テレメータの数値は——》

 「その数値ごと乗っ取られてたら、どうする」


 沈黙。

 雨の音だけが、回線の向こうとこちらで重なった。

 《……一度、本社に確認します》通話が切れる。

 オペレーターが、小さく訊いた。

 「サイバー攻撃、ですか」

 篤志は答えなかった。

 代わりに、制御盤の裏へ回る。

 「外部回線、物理で切るぞ。ケーブルごと抜く」

 「切っても、弁が動かないなら——」

 「動かない理由が、一個減る」

 抜いた。何も変わらなかった。

 嘘は、もう弁の中に棲みついている。


 五時二十分、ベンダーの若いエンジニアが着いた。

 県道が半分沈む中、社用車で二時間かけて来たという。

 濡れた眼鏡を拭きもせず、制御装置の盤を開ける。

 「一度、電源ごと落とします。再起動で戻る例があります」

 「戻らなかった例は」

 「……あります」

 主電源、断。盤の灯りが全部落ちる。

 十秒待つ。再投入。

 自己診断のランプが順に走り、盤が起き上がる。

 画面が、戻った。

 主放流弁、開度三十二パーセント。

 嘘を、覚えたまま起きてきた。


 「制御プログラムを、出荷時のものに書き戻します」

 エンジニアの指が走る。エラー表示。

 書き戻しの領域ごと、鍵がかかっている。

 「……そんな仕様、うちの製品にはありません」

 「今夜からあるんだろ」

 誰が掛けた鍵かは、誰も口にしなかった。

 エンジニアが、盤を見つめたまま呟く。

 「弁は、正常なんです。どこも壊れてない。

 正常なまま、命令だけを無視してる」


 壊れた機械なら直せる。壊れていない機械は直しようがない。

 売る側と守る側、合わせて二十年余り。

 初めて出会う、種類の敵だった。


 その少し前から、無線の様子がおかしかった。

 場内連絡用の周波数に、規則正しい雑音が乗る。

 息継ぎのない、機械の呼吸みたいな音。

 オペレーターが眉を寄せた。

 「混信、ですかね」

 「混信は、もっと下手くそだ」


 四時五十分。防災行政無線が沈黙した。

 県への専用回線、不通。

 固定電話、不通。携帯は圏外表示。

 アンテナは三本立っているのに、どこにも繋がらない。

 電波が丸ごと誰かのものになっている。


 五時前、なぜか管理会社の部長からだけ電話が通じた。

 所長が受け、篤志にも聞かせる。

 《独断で設備に触るな。記録を残せ。本社の指示を待て》

 「水位は、指示を待ちませんよ」

 《手順の話をしている。事後の責任の所在が——》

 《だいたい君は監督だろう。監督らしく机で——》

 「監督だから、現場にいるんです」

 篤志は、受話器から一歩離れた。


 逃げ支度の言葉は、匂いで分かる。

 沈む船で、最初に救命胴衣の数を数える種類の人間。

 あの生配信で自分は言った。——売った後の側にいます。

 売った奴らはいつも売り逃げる。残るのは後の側の人間だけだ。


 窓の外、闇の底に川がある。

 この川は、四つの町を抜けて海に出る。

 二つ目の町に自宅がある。

 妻と、幼い息子が眠っている時間だ。

 息子は、言葉より先に、指と目で話す子だ。

 夜勤明けにお子様セットの旗を持って帰ると、

 窓辺に並べて玄関の前で待っている。

 あの騒動からこっち、家の空気はまだ途中だ。

 まだ、は、二度と、ではない。そのはずだ。

 いつか息子に、このダムを見せる。

 三連勤の朝、玄関で妻にそう言った。

 父さんの守ってるやつは、でかいぞ、と。

 あの言葉を噓にしない。

 この水をあの家に行かせるわけにはいかない。


 図面ケースの引出しを開ける。

 竣工図の綴り。紙の図面。昭和の判子。

 乗っ取られない記録はもう紙しか残っていない。

 篤志は図面台に、堤体の断面図を広げる。


 「非常用の排砂ゲート。あれだけは電気が要らん」

 「手動ですか? 全開まで、何回転——」

 「知らん。回すだけだ」


 オペレーターが立ち上がった。

 「俺も行きます」

 「お前は残れ。水位を読み上げ続けろ。十分ごとだ」

 「……はい」

 「それと、下流の役場を起こせ。回線が死んでたら消防団。

 消防団も駄目なら、車で行け。鍵は俺のを使え」


 排砂ゲートの巻上機は、右岸の天端下にある。

 鉄の梯子。雨が横から殴る。合羽の中まで五歩で水が入った。

 ハンドルの握りは、錆が浮いていた。

 春の点検で、注油した。俺がした。

 回す。 重い。 両腕で。 腰で。 全身で。

 一回転。 二回転。 三回転…。


 腰の無線が、十分ごとに鳴る。

《水位、プラス十四センチ》

 回す。

《水位、プラス十一センチ》

 回す。

 オペレーターの声は、震えを隠すのが下手だ。

 いい。隠すな。震えたまま読み続けろ。

 お前の声が今夜の唯一の正しい計器だ。


 数えるのをやめる。雨と汗の境目がなくなる。

 掌の皮が、ハンドルに持っていかれる。

 構うな。皮はまた張る。戻らないのは沈む町の方だ。


 やがて、足の下で音がした。管の中を水が走り始める音。

 低い、獣みたいな唸り。生きてる音だ。

 機械が、ちゃんと生きてる音。

 制御室に戻り計器を読む。

 排砂ゲート経由、毎秒四十立方。

 六百入って、四十出す。 焼け石に水。

 でも、ゼロじゃない。

 ゼロじゃない、を積み上げるのが現場の仕事だ。


 オペレーターが、無線機を握ったまま報告する。

 「役場、車で行ってもらった守衛さんが着きました。

  消防団に招集かかったそうです」

 「サイレンは」

 「五時五十分に、鳴らすと」


 やがて、雨の膜の向こうでサイレンが立ち上がった。

 波打つ長い音。水防信号。


 あの音の下で、妻は息子を抱き上げただろうか?

 寝ぼけて泣く重みを、背負い直しただろうか?

 避難先は山側の公民館。妻なら分かっている。

 逃げろ。父さんの機械を今夜だけは信じるな。


 そこへ、部長から二度目の電話が来た。

 《報道対応の想定問答を先に作れ。

  「想定外」という言葉は絶対に使うな。炎上する》

 水位の質問は、一つもなかった。

 役員会は、もう言葉の避難を始めている。

 所長が受話器を置き、初めて篤志の目を見た。

 「……排砂ゲート、あと何門いける」

 肩書きがひとつ、現場に降りてきた瞬間だった。


 排砂ゲート、二門目も開けた。合わせて毎秒九十。

 それでも水位は、一時間に二十センチずつ登ってくる。

 単純な引き算だ。このままなら日暮れに堤頂へ届く。

 ダムは水を越えさせるようにはできていない。

 越えた水は堤体の背中を削る。その先は教科書にも書いていない。


 六時。夜明けの時刻。

 藍色は、来なかった。灰色さえ、来ない。

 空はただ暗いまま、雨を落とし続けている。

 通報すべき先は全部沈黙している。

 県も、本社も、警察の専用線も。

 残っているのは、肩書きのない番号だけだった。


 「所長。衛星電話、借ります」


 防災用の衛星電話。バッテリーは満タン。

 番号は頭に入っている。

 あの夜、どら焼きを三個ずつ分けた部屋で

 四人で交換した番号のひとつ。

 三コールで繋がった。


 《……篤志さん?》

 悠真の声。眠っていない声だ。


 「うちのダムがやられた。弁の遠隔系だ。

  数字ごと乗っ取られてる。電波も全部」

 短い沈黙。キーボードを叩く音。

 《やっぱり》

 「やっぱり?」

 《同じ症状の通報が、この二時間で九件。

 浄水場、排水機場、変電所——全部、制御系です》

 「誰の仕業だ」

 《分かりません。ただ——手口が、綺麗すぎます。

 九件、全部。壊さずに、嘘だけ吐かせてる》

 悠真の声が、一度切れた。

 雨の音の向こうから、続きが来る。

《それと——福島の原発。

 冷却系が、さっきから応答していません》


 ハンドルに破られた掌が、今になって熱を持ち始めた。

お読みいただき、ありがとうございます。


壊れた機械なら、直せる。

壊れていないのに命令だけを無視する機械は、直しようがない——

篤志が二十年の商売人生で初めて出会った「敵」は、まだ名乗ってすらいません。


壊さずに、嘘だけ吐かせる。綺麗すぎる手口。

そして、応答しない福島の冷却系。


次話「マキシマ、起動」。

人間が息を一つ吸って吐く間に、戦争がひとつ、始まって終わります。

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