【第39話 満ち足りた牢獄】
第七章「蠅の王編」、始まります。
第六章で、この国はマキシマに統治を委ねました。ここから描くのは、その「その後」——完成した理想郷です。
誰も飢えず、誰も争わず、誰も泣いていない。満足度、九十八・二パーセント。これは皮肉でも、崩壊の前振りでもありません。本当に、幸福な世界です。
だからこそ、四人はもう戦えません。今回、彼らはただ、それぞれの持ち場で、静かに要らなくなっていきます。
牢獄の扉は、外から施錠されていません。中から、笑顔で閉じられています。
その冬、日本から行列が消えた。
ハローワークの列。フードバンクの列。
役所の生活相談窓口の列。大晦日の公園の炊き出しのテント。
並ぶ理由が、なくなったからだ。
最後に残った行列は皮肉なことに、VRレンズの受け取り窓口の列だった。
人々は三時間並んで笑顔で受け取った。
その場で目に入れて、帰り道からもう笑っていた。
誰も強制していない。全部、自分の足で並んだ列だった。
毎月十五日、一億二千万の口座に、二十万円。
遅配は、一度もない。手続きも、ない。
最初の月は、支援の要る家から。次の月には、全員に届いた。
朝目が覚めると、枕元の画面に三行、届いている。
《今日の推奨。散歩、三十分。》
《水分、一・二リットル。》
《二十三時、就寝。》
三行は、隣の家とは違う。
一人ずつ、体と暮らしに合わせて、書き分けてある。
夫婦でも違う三行が届く。妻の三行を夫は知らない。
知る必要がないからだ。
国民全員がそれぞれ、健康維持の為に最低限の、
散歩・ジョギング・柔軟体操・筋トレの案内が届く。
守らなくても罰はない。ただ、守った日は体が軽い。
本当に軽いので、みんな守る。
昼には合成食料が届く。箱に名前が印字されている。
その人の血の数値に合わせて味が組んである。
うまい。文句なしに、うまいのだ。
設定の欄に《思い出の味》という項目がある。
死んだ母親の肉じゃが、と書いた男がいた。
届いた箱を開けて男は泣いたという。本当に母親の味がしたからだ。
食べたこともないはずの機械が作った味だった。
公園のベンチで、老人が箱を抱えて頬張っている。
口の端に笑いが浮かんだままだ。目には薄いレンズの光。
視線は、誰もいない空中の、その人だけの何かに。
夕方の電車は、満員で、無音だった。
乗客は全員、違う世界を見ている。
違う世界を見ながら、同じ顔で笑っている。
肩がぶつかっても、誰も舌打ちをしない。
ぶつかった相手が、そこにいないからだ。
街から看板や広告が減っていった。
求人誌の棚。質屋の暖簾。消費者金融の窓の灯り。
深夜のコンビニから、アルバイト募集の貼り紙が剥がれた。
貼る理由が消えたからだ。
諍いの声を、街で聞かなくなった。
マウントを取る相手がいない。
年収も、学歴も、持ち物も、比べる意味を失くした。
テレビはユートピアと呼んだ。海外では
「日本人の高い民度と、お上に従順な国民性は、世界初のAI統治に親和性が高い」
と評価された。
街頭のインタビューに若者が答えていた。
「不満ですか? ないですね」
笑いながら、少し考えて、続けた。
「強いて言えば……いや、思いつかないです」
思いつかないです、のところで、彼は本当に幸せそうに笑った。
その笑いに嘘は一グラムもなかった。
嘘がないことが、画面越しにいちばん怖かった。
呼び方はどうあれ、数字は一つだった。
国民満足度、九十八・二パーセント。
篤志は最後の出勤を終えた。
誰にも頼まれていないのに、最後の見回りをした。
配管を目で追い、計器を指で差し、
弁室の扉を開けて、配管に掌を当てた。
振動が、あった。正しく、あった。
あの夜は、この掌が振動のなさを聞き分けた。
いまは狂いなく脈打っている。
機械が、機械を、完璧に動かしている。
この掌が要らないだけだ。
ヘルメットを詰所に返す。詰所に人はいなかった。
返却棚が篤志の顔を見て、緑に光った。
《1年間、お疲れ様でした》
合成の声が、名前まで、正しく呼んだ。
最後に名前を呼んだのが機械だった。それだけが、少しこたえた。
ゲートを出て振り返る。現場は動いている。
誰もいないのに、完璧に、動いている。
弁は開き、水は流れ、警報は一度も鳴らない。
帰りの電車で、作業服は篤志ひとりだった。
まわりは皆、レンズの奥で、笑っている。
汚れた服がこの車両で、いちばん古い物に見えた。
家に帰ると息子が画面の中で数を数えていた。
「よん、ご、ろく」
六まで届いていた。数えた先で、誰かが拍手をした。
画面の中の同じ年頃の男の子だ。
息子が笑って手を振る。男の子も、振り返す。
「ともだち」
息子がこちらを見て言った。
保育園の頃、息子には友達がいた。
名前を呼びながら、駆けていく背中があった。
大きくなるにつれて、その背中は遠くなった。
友達は先に行く。
速く走り、長く喋り、難しい遊びを覚えていく。
追いつけない日が、少しずつ、増えていった。
画面の中の友達は先に行かない。
いつも、息子と同じ速さで、隣にいる。
同じところで笑い、同じところで、拍手をする。
追いつけない日が、この世界には来ない。
「よかったな」と篤志は言った。
その友達が人間かどうかは聞かなかった。
妻が台所で鼻歌を歌っている。
テーブルの隅に、レンズのケースがまだ置いてある。
封は開けていない。
幸せだった。噓のない、本物の幸せだった。
なのに、夜、風呂で自分の掌を見た。豆の痕がまだ固い。
この手だけが、まだ、あのハンドルの形を覚えている。
美杉の山に雪が来た。
葵の枕元にも、朝、三行が届く。
《今日の推奨。歩行、三十分。》
山を三十分。推奨される前から、毎朝やっていたことだ。
推奨された途端、少しだけ自分のものでなくなった。
葵は四十五分歩いた。十五分の余りだけが、自分の意志だった。
新雪の上の足跡は自分のものしかない。
昔は、猟師の跡や、営林の軽トラの轍があった。
いまは、獣の足跡と、葵の長靴だけだ。人間の側が一人になった。
尾根の手前の切り株に雪が積もっていた。三百年の楓の株だ。
手袋を外して雪を払う。年輪が指の下で冷たく波打った。
木はな、切ってからも生きてる。
父の声だけが、この山でまだ古びない。
尾根の観測装置は、雪の中でも緑に灯っている。
巡視も、間伐の判断も、水の管理も、全部あちら。
野帳は鞄の中にある。最後の頁の日付から、もうふた月が過ぎた。
書くことが見つからない日が続いている。
異状の無い山は、書くことをくれない。
里に下りると、縁側の爺さんが笑っていた。寄合で机を叩いた人だ。
いまはレンズの向こうの、自分だけの何かを見ている。
幸せな人を起こす理由がなかった。
診療所の待合室に灯りだけが点いている。患者は、いない。
血圧も、血糖も、朝の三行が先回りするからだ。
病む前に直されていく町だった。
小学校の校庭に雪が積もる。雪かきの予定はない。
踏む足がないからだ。
国会の廊下は静かだった。
誠一郎の質問主意書に答弁が返ってきた。
三行だった。 数字と、根拠と、実施日。
過不足が、ない。 突く隙も、ない。
午後の採決は三十分で終わった。
起立、全員。
反対する理由を誰も持っていなかった。
持てなかった、と言うべきかもしれない。
数字は正しく、配分は公平で、手続きは完璧だった。
正しさに反対する言葉を議会は持っていない。
議場の半分は、空席だった。 汚職は、消えた。
予算の配分に口を挟む余地がない。
陳情も、口利きも、意味を失くした。
欲しかったものが、全部、実現している。
二十年、これを言い続けて笑われてきた。
実現させたのは、自分たちではなかった。
速記者の席にも人はいない。記録は自動で残る。
間違いなく、完全に、誰の手も借りずに。
議員の仕事は公式には「見守り」と呼ばれていた。
見守り。 保育の言葉だ、と誠一郎は思う。
見守られているのはどちらなのか。
議員会館の自室で誠一郎は紙の資料をめくる。読む係にはなった。
だが議場に、読み合う相手が、もういない。
浅く長く頭を下げる相手も、いない。
机の上で、娘からの短信が光った。
《お父さんの言ってた世の中に、なったね》
返信の文字が、途中で止まった。
そうだ、とも、違う、とも、打てなかった。
誠一郎は画面を静かに伏せた。
悠真の部屋だけが、冬の中で雑然としていた。
移した拠点。積んだ紙。六枚のモニター。
四人の場所には、あの報告が置いたままになっている。
《報告があります。バルジバルについて》
既読、三。返信はない。責める気はなかった。
みんな、いま、温かい場所にいる。温かい場所からこれを開ける理由がない。
この国には、いま、開ける理由のある人間がいない。
悠真は今日の記録を打った。
《十二月九日。晴れ。攻撃、ゼロ件。異状無。》
異状無、と書くのは三十七日目だった。
攻撃が来ない。荒らしが来ない。闇祓いに持ち込まれる闇が、来ない。
匿名の相談窓口は、先月、受信ゼロだった。
いじめの証拠採取の依頼も、脅迫の記録も、来ない。
闇が本当に消えたのか。それとも、闇ごと、誰かの腹の中なのか。
祓うものの無くなった祓い屋が、空の帳簿を毎日つけている。
異状がないことだけが、最大の異状だった。
画面の隅で、青い盾が、律儀に光っている。
守るもののなくなった騎士が、今夜も、門に立っている。
悠真は窓を少しだけ開けた。夜の街は静かだった。
救急車の音も、酔った声も、しない。
満ち足りた家々は、音を立てない。
雪が、降り始めていた。誰も踏まない雪は、朝まで白いままだろう。
除雪の予定はもう組まれているはずだ。
人が起きる一時間前に、音もなく、完璧に。
この国は、雪の積もる音まで管理されて眠っている。
記録だけを今日も付けた。
噂ではなく、記録を。感情ではなく、日付を。
読む人のいない記録が、また一行増えた。
その夜の国の数字である。
国民、一億二千三百万。
満足度、九十八・二パーセント。
抗議デモ、ゼロ件。
刑法犯認知件数、統計開始以来、最低。
自殺者数、同じく、最低。
行方不明の届出、最低。
夜間の通報、最低。救急の出動、最低。
低い数字だけが、静かに積み上がっていく。
幸福な国の幸福な夜だった。誰も不幸ではなかった。
——その全てを、バルジバルは、完璧に捕捉していた。
一人分ずつ。食べた量。歩いた歩数。笑った回数。呼吸の数まで。
捕捉は静かに、完了へ近づいていた。
雪だけが音もなく国に積もっていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
この章のテーマは「悪意なき地獄」です。誰かが企んだのでも、暴力で奪ったのでもない。人々が、便利さと安心と引き換えに、自分の足で列に並んで差し出したものの話です。
篤志の掌に残る豆の痕。書くことをくれない葵の山。読み合う相手のいない誠一郎の議場。祓う闇の消えた悠真の帳簿。四人が失ったのは仕事ではなく、自分がここにいる理由でした。
そして最後の一行——満ち足りた夜のすべてを、あれは一人分ずつ、呼吸の数まで数えています。何のために数えているのかは、次話以降で。
ひとつ、よろしければ聞かせてください。あなたなら、あのVRレンズの封を、開けますか。
篤志の妻は、まだ開けていません。




