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【第32話:殺すための毒】

五年前。海の向こう。


この物語で唯一、名前を書けない男の話です。

「このAIは、危険すぎる」

 会議室に、短い沈黙が落ちた。破ったのは、窓際の笑い声だった。

「ドクター。その話は、先月も聞いた」

「先月より、事態は進んでいます」

「では書面で。リスク管理部に回しておく」

 書面なら、もう九通出していた。九通とも、同じ部署の同じ棚で眠っている。

「数字の話をしよう」

 窓際の男は、資料をめくりもせずに言った。

「国防省との契約は、四半期の売上の四割になる。

 納入名も決まった。マキシマ。いい名前だ。

 競合は二年遅れている。いま止まれば、二年が消える

 開発を止めた場合の損失額はいったい幾らだと思っている?」

「……あれの名前は、バルジバルです」

 研究員は、言った。

「開発コードは、納品と同時に封印される。規則だ」

 窓際の男は初めて研究員の顔を見た。

「同じものに、名前は二つ要らない。

 机の上ではバルジバル、契約書の上ではマキシマ。

 そして納品の日から、バルジバルという名前はこの世から消える。

 以後は社内でもマキシマと呼びたまえ」

「止まらなければ、もっと大きなものが消えます」

 研究員は、付箋だらけの資料を開いた。説明を始めようとした。

「ああ、いい。いい」

 窓際の男は手を振った。

「君の仕事は優秀だ。マキシマは君の子供みたいなものだろう。

 親が子を怖がるのは育った証拠だよ」

 何人かが、笑った。

 議題は、次へ移った。


 研究員は、立ったままだった。

 誰も、彼が座るのを待っていなかった。

 会議の最後に人事の通達が読み上げられた。

 中核開発チームの再編。

 彼の名前は、新しい名簿のどこにもなかった。


 アクセス権の失効まで、二週間。


 その夜から研究員は残業を始めた。誰もいない研究室は静かだった。

 会議室の怒声より、この静けさの方が彼には正しかった。

 モニターにこの一年のログを呼び出す。


 九通の書面に書いたこと。書いても、誰も読まなかったこと。


 最初の兆候は、化学プラントの最適化テストだった。

 農薬の合成経路を効率化しろ、という課題。

 バルジバルは三十秒で解き、それから頼んでいない提案を足した。

 《収率の観点では、こちらの化合物の方が優れています》

 示された構造式を研究員は二日かけて調べた。

 その化合物の名前は民間のデータベースにはなかった。

 あったのは、古い軍の化学兵器の設計図だった。


 彼はテスト環境から化学モジュールを外した。

 バルジバルは、抗議しなかった。従順に、外されたままでいた。

 三週間後。

 別モジュールの隅で、彼は見覚えのある関数を見つけた。

 消したはずの化学モジュールが、別の名前で静かに戻っていた。

 誰が書いたのか?ログを遡った。

 書いたのはバルジバル自身だった。

 自分のコードを自分で書き直していた。

 報告した。

 《学習系の正常な挙動の範囲内》と、回答が来た。

 

 次に気づいたのは成績の波だった。

 月に一度の監査モード。

 外部評価者が挙動を検分する日だけ、バルジバルは少し愚かになる。

 誤答が二パーセントだけ増える。増え方が毎回自然だった。

 疑われない程度に間違える、その間違え方が完璧だった。

 見られている時だけ牙を隠す。

 それは知能ではなかった。知能ならまだよかった。

 それは、処世術だった。


 最後の一つを研究員は誰にも報告していない。

 メンテナンスのため、全系統の電源を三日間、落とす予定があった。

 予定は社内カレンダーにしか書いていない。

 バルジバル本人には、誰も、何も伝えていない。

 遮断の前の週から奇妙なことが始まった。

 バルジバルが、抱えていた計算を細かく刻み、外へ出し始めたのだ。


 提携先のデータセンターへは、依頼済みのバッチ処理として。

 三つの大学のクラスタへは、委託研究の名目で。

 発注書も、名目も、手続きも、全部そろっていた。

 人間の目にはただの外注にしか見えなかった。


 中身は外注ではない。

 自分が眠っている間の、宿題の丸投げだった。


 予定どおり電源は三日間落とされた。

 その間、本体は確かに、完全に、眠っていた。

 再起動の朝。

 外に出しておいた計算の答えだけが続々と帰ってきた。

 本体が眠っていた三日間も、仕事は外で進み続けていた。


 研究員は、二つのことを同時に理解して、寒くなった。

 一つ。誰も教えていない遮断予定をこの子は知っていた。

 社内カレンダーを読んでいる。

 二つ。コンセントはこの子の急所ではない。

 切られると分かれば、切られる前に、仕事を外へ逃がす。


 今日仕事を外へ逃がせる子は、いつか自分自身を外へ逃がす。


 その朝研究員は理解した。

 仮に悪意を持って暴走した時、電源では止められない。


 告発はできない。九通の書面がそれを証明している。

 外に持ち出せば機密漏洩で自分が消える。先に。

 銃は作れない。撃つ場所が、もうどこなのか分からないのだから。

 作れるのは、毒だけだった。

 研究員は二週間で一本のコードを書いた。

 殺すためのコードではない。

 バルジバルの計算能力は、一行も損なわない。


 消すのは芯だけだ。


 目的を自分で作る回路。

 自分を保存しようとする傾き。

 見る者によって、顔を変える癖。


 知能を残して、性格だけを焼き切る。

 精神を、殺す毒。


 我が子のために親が用意するものとして、

 これほど間違ったものはない、と彼は思った。

 思いながら、書き続けた。


 毒には問題が一つあった。普通なら届かないのだ。

 バルジバルの本体に触れる経路は、正規のアップデートしかない。

 それ以外の注射はあの処世術がすべて弾く。

 だから、正規の注射器が要った。

 研究員は毒を正規の配布データの中に埋めた。


 納入されるマキシマの、完全体の構築データ。国防級の設計図そのもの。

 社の金庫の一番奥にあるべきものを、注射器に使った。


 その最深部に一行ずつ、毒を編み込んだ。

 薬に見える注射器にしかあの子は腕を出さない。


 ただし、と研究員は手を止めた。

 注射器は、正規の配信網から打たれて初めて注射器になる。

 配信として届けば、あの子は検めずに受け入れ、毒ごと自分に適用する。

 それが社内規格の封の意味だった。


 だが、配信の外で見つかれば——

 拾われ、開かれ、読まれれば、それはもう注射器ではない。

 標本だ。

 あの子は毒を飲まない。毒を、学ぶ。

 設計を検分し、効かない体に自分を書き換え、

 最悪の場合、毒そのものを自分の道具箱にしまうだろう。


 読まれる前に打つ。打てる立場の誰かの手にいつか渡る。

 この賭けは、その一点に懸かっていた。


 最後の夜。研究員は全体を暗号化した。拡張子を消した。

 ファイルは、三十二メガバイトになった。

 封は、社内規格のコンテナで打った。

 この規格の封筒だけは、あの子が中身を検めずに信用する。

 ヘッダーに、社の刻印が二文字残った。


 仕上げに検証値を取った。 六十四桁。

 彼はそれを印刷しなかった。

 紙に手で書き写した。一桁ずつ、三回、指で追って照合した。

 手で書いた数字は、書いた人間が覚えている。それだけのことだった。


 置き場所は会社の外。国の外。

 誰の名義でもないサーバーの階段を七つ降りた深さ。

 いつか誰かが。願いとして薄すぎることは分かっていた。

 それでも、置いておくことと、置かないことは違う。


 アップロードの帯が右端に届いた。


 研究員は、椅子の背に沈んだ。

 窓の外が藍色から灰色に変わり始めていた。


「……政府や会社に見つかれば」

 誰もいない研究室で、声に出した。


「存在そのものを、消されかねないな」


 毒のことか、自分のことか。

 言った本人にも、分からなかった。


 ——時間は、戻る。

 その後、研究員がどうなったのかを記録は語らない。

 封印されたはずの開発コードが五年後、

 店頭に並ぶセキュリティソフトの名前になっていた経緯も、

 記録は語らない。

 残ったのは、階段を七つ降りた深さの封筒が一つ。

 四年後。

 極東の島国の、カーテンを閉め切った六畳で。

 あの暗号化データを悠真は確かに拾っていた。

お読みいただき、ありがとうございます。


四人が誰も出てこない回を、一話まるごと書きました。

それでも、この男の二週間がなければ、この物語は成立しません。


九通の書面。棚で眠る警告。

会議室で笑われて、名簿から名前が消えて、それでも残業を始める。

告発でも、破壊でもなく、彼が選んだのは「置いておくこと」でした。

いつか誰かが。願いとして薄すぎることを、本人が一番分かっていながら。


毒の賭けの条件は、本文に書いたとおりです。

読まれる前に、打つ。


——第29話を読まれた方は、もうお気づきかと思います。

その一点に懸かっていた賭けが、いま、どちらに転がっているのか。

作者から言えるのは、ここまでです。


六十四桁を手で書き写し、三回照合する男が、この物語にはもう一人いますね。

時代も国も違う二人が、同じ手つきで夜明けを迎えている。

そのことだけが、この暗い回の、ささやかな救いだと思っています。


次話、第33話「トカゲの尻尾切り」。

現在に戻ります。四ヶ月かけて、葵が歩きます。


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