【第29話:四人の顔合わせ】
四人が、初めて同じ部屋に集まります。
記録は、体温を運ばない。
その代わり、体温は、記録に載らない。
再開した闇祓いネットの窓口に、一通のメールが届いた。
件名は、なかった。本文は、三行だった。
《消してくれた人へ。
息子の写真を消してくれて、ありがとうございました。
あれだけが、心配でした。》
署名も、なかった。それでも、誰からかは分かった。
悠真は、画面の前で長いこと座っていた。
この人の投稿から、全部が始まった。
この人の人生を、特定班が日付の線にした。
個人につながる部分を削ったのは、自分だ。
削りながら、勝手に触っていることに、変わりはなかった。
謝られる筋合いはない。
礼を言われる筋合いは、もっとない。
返信を、何度も書いては消した。
記録なら、いくらでも書ける。日付なら、正確に打てる。
だがこの三行への返事だけは、文字にならなかった。
夜が明ける頃、悠真は短く書いて送った。
《一度、顔を合わせませんか。》
送ってから、自分で驚いた。
顔を隠して一年やってきた男の指が、そう打っていた。
誠一郎には、電話をかけた。
「体制を、整えました」
受話器の向こうで、息を呑む音がした。
「——配達の方ですね」
「はい」
「待っていました。約束でしたから」
葵には、いつもの暗号化チャットで。
《会わせたい人が二人います》
《山を下ります》
返信は、それだけだった。
葵らしい、と悠真は思った。
行き先の決まった木は、迷わない。
当日の朝、悠真は部屋を片付けた。
段ボールを畳み、寝袋を隠し、椅子を四つ並べた。
椅子は昨日、永田が軽トラで運んでくれた。
《四つでいいのか》と永田は笑って、五つ目は置いていかなかった。
この住所を知る人間は、永田だけだった。
今日から、四人になる。
モニターの隅で、青い盾が光っている。
メモリー使用率、七十八パーセント。
悠真は、少し眉を寄せた。
昨日までは、五十台だったはずだ。
プロセス名を見る。《環境学習》。
学習中なら、まあ、食うか。
盾は、模擬攻撃を今朝も全部弾いた。
仕事はしている。文句はない。
最初に来たのは、篤志だった。
約束の二十分前。
ドアの前で、何度も足踏みする音が、カメラに映っていた。
開けると、大柄な男が、紙袋を胸に抱えて立っていた。
「……どうも。あの、これ」
どら焼きだった。十二個入り。
四人で、きっちり三個ずつ。
前の晩に指を折って数えた跡の見える選び方だった。
次に、葵。
背負ってきたリュックから、林檎が転がり出た。
「山の下のやつですけど」
最後に、誠一郎。
時間ぴったり。手ぶらで、扉の前で浅く、長く、頭を下げた。
四人が、初めて同じ部屋にいた。
誰も、しばらく喋らなかった。
互いのことは、知っている。ただし、記録で。
投稿の全文。音源の波形。報告書の四十二ページ。
葵と篤志だけは、それすらなかった。
片や「令和のジャンヌダルク」の見出し。
片や「タヒね日本!のオヤジ」の見出し。
見出し同士が、いま初めて、名前と顔を持った。
だが、声は初めてだった。
背の高さも。歩き方も。緊張すると耳を触る癖も。
記録は、体温を運ばない。
それを、四人は同時に知った。
口火を切ったのは、誠一郎だった。
「篤志さん。私は、あなたに謝らなければならない」
篤志が、目を丸くする。
「あなたの投稿が嘲笑われているのを見て——私は、投稿しました」
「……俺の、あれを」
「ええ。あの夜、世界で一番、あなたの言葉が分かる気がした」
篤志は、下を向いた。
膝の上で、大きな手が組まれたり、ほどけたりした。
「議員さんが、俺なんかの」
「議員も何も、ないですよ」
誠一郎は、静かに言った。
「朝、嫁と娘に出ていかれた。それだけの男です」
篤志の手が、止まった。
「……うちは、車で嫁の迎えが来ました。義理の母が」
二人の男が、少しだけ笑った。
笑うところではないのに、笑うしかない種類の話だった。
葵が、林檎を剥き始めた。
誰も頼んでいないのに、剥き始めた。
ナイフの音だけが、しばらく部屋に流れた。
山の手つきだった。皮が、一本の帯になって伸びていく。
「父がよく言ってました。木には、行き先があるって」
剥き終えた一切れを、篤志に渡す。
「人にも、あるんだと思います。ここが、そうなのかも」
打ち合わせは、夕方までかかった。
配信は一週間後。
三人は顔を出さない。声はボコーダーで変える。
進行は悠真。質問は事前に精査する。
試しに誠一郎がボコーダーに向かって喋ると、
国会中継の声が、深海魚のような声になった。
篤志が吹き出した。葵が咳き込むほど笑った。
誠一郎本人が、一番笑っていた。
悠真は、笑う三人を見ていた。
一年前の、あの部屋を思い出す。
カーテンを閉め切った、実家の六畳。
底無しの孤独と、虚無の自己肯定感。
画面の中の敵と、画面の中の味方。
部屋は変わった。
いま、ここには呼吸が四つある。
どら焼きの包み紙が、テーブルに三つ。
——記録には、これは載らない。
載らないものが、こんなに重いとは、知らなかった。
夜、告知を出した。
《一ヶ月前の報告書について、当事者三名が語ります。
来週金曜、二十一時。声は変えます。顔は出しません。
出すのは、日付だけです。》
一時間で、告知は百万人に届いた。
トレンドの一位に、闇祓いネットの名前。
二位に「四十二ページ」。三位に「金曜二十一時」。
書き込みが、滝のように流れていく。
悠真はそれを眺めながら、どら焼きを食べた。
テーブルには、三つ残っていた。
三人が、自分の取り分から一つずつ、置いていった。
日付が変わる頃、機材のチェックを始めた。
配信用の回線。予備の回線。電源の系統。
一つずつ、指差しで確認していく。
ファンの音が、耳についた。
サーバーラックの排気が、昼間より高い。
メモリー使用率、九十七パーセント。
プロセス名は、《環境学習》。
朝は七十八だった。夕方に、九十一。
いまは、九十七。
学習に、一日でどれだけ食うんだ。
悠真は、ログを開いた。
開いて、指が止まった。
アクセス先が、一点に集中している。
外付けドライブの、一番深い場所。
拡張子なし。三十二メガバイト。
一年間、どんなツールでも開かなかった、あれだ。
アクセス回数、この三時間で——四十万回。
「……おい」
ファイルを確かめる。
封が、開いていた。
一年間、何をしても剥がれなかった封が。
コピーを取り、自分で開いてみる。
文字化けの砂嵐。読めない。
解析ツールを三つ、通した。三つとも、砂嵐。
人間には、開いていない。
開いているのは——あれにだけ、だった。
モニターに、別のログを並べる。
盾の、自己更新の記録。
版の番号が、上がっていく。
見ている間にも、上がる。
三十九。四十。四十一。
昨日までは、週に一度の更新だった。
いまは、数分に一度、自分を書き換えている。
差分を開いた。読めなかった。
どのエンジニアにも読めない書き方で、
あれは、自分の中身を、作り直していた。
あの設計図を読みながら。
読んでは、書き換える。読んでは、書き換える。
走りながら、心臓を取り替えている。
そんな映像が頭に浮かんで、消えなかった。
やがてドライブの隅に、新しい区画が生まれた。
名前が、ない。鍵がかかっている。
容量表示はゼロのまま。
あるのに、ない場所。
何かを、しまった。
何を、しまった。
午前三時すぎ、更新の嵐は止んだ。
版の番号は、二百十七で止まっていた。
一晩で、二百回。
盾は静かになった。
何事もなかった顔で、青く光っている。
悠真は、朝までかけて調べた。
ウイルススキャン。異常なし。
脆弱性診断。ゼロ件。
どの階層まで潜っても、欠陥が、一つもない。
それどころか
応答速度がカタログ値の三倍を超えていた。
サーバーの構成が、見たことのない形に組み直されている。
無駄が、どこにもない。
理屈が、半分も読めない。
読めないのに、完璧に動いている。
模擬攻撃を十種類、撃ち込んだ。
十種類とも着弾の前に消えた。
昨日より速く。静かに。
……何だ、これは。
通販で買った星四点八の盾が、一晩で、別の何かになっている。
例えるなら、国を守る側の機械。
あの規模の。あの精度の。
馬鹿な、と自分で打ち消した。
打ち消して、もう一度ログを見て、打ち消せなくなった。
外すか、と一瞬思った。
思って、やめた。
配信まであと六日。
攻撃は、また必ず来る。
この盾より確かな守りを、六日で用意する手はない。
完璧すぎる盾を、外す理由が見つからなかった。
様子を、見ることにした。
それしか、できることがなかった。
部屋の隅で、ファンだけが、低く回り続けていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
前半は、この物語で一番あたたかい場面を書きました。
どら焼き十二個、きっちり三個ずつ。誰も頼んでいないのに剥かれる林檎。
深海魚の声で一番笑っていたのは、たぶん一番泣いていた人です。
キャリーケース二つの男と、車で迎えが来た男が、笑うしかない話で笑う。
記録で知り合った四人が、記録に載らないものを知る——そういう回のはずでした。
後半について、作者からはまだ、何も説明できません。
一つだけ書けるのは、悠真と同じことです。
盾は、今夜も完璧に働いています。
完璧すぎる盾を外す理由が、見つからない。
それが一番怖いということに、彼はもう気づき始めています。
次話、第30話「生配信」。
金曜、二十一時。六十万人の前で、四人が語ります。
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