【第28話:祭りの後】
三日後の、二十一時。
タイマーが、鳴ります。
二十時五十九分。
悠真は、床に座っていた。
カーテンのない部屋。段ボールが三つ。寝袋が一つ。
組み立て途中のサーバーラックが、闇の中で骨組みだけ見せている。
新しい拠点に、まだ生活はなかった。
あるのは、膝の上のノートパソコンと、残り六十秒。
四日前、敵はこの時刻に、三十秒を選んだ。
公開の三十秒前に、火力の上限を叩き込んできた。
今夜は、こちらの番だった。
違いは、一つ。
今夜のこれは、誰にも止められない。
敵にも。検察にも。誠一郎にも。
——俺にも。
二十一時零分。
画面の向こうで、時限が外れた。
系列の外の媒体が一つ。海の向こうのミラーが二つ。
同じ秒に、同じものが立ち上がる。
報告書四十二ページ。素材の原本。ログの全部。
そして、六十四桁。
最後に、一枚の画像。
地検の受理印。十四時二十七分。三日前の日付。
噂より先に、日付が立っていた。
悠真は、息を吐いた。
配達は、終わった。
最初の一時間で、検証が始まった。
誰かが波形を並べる。怒鳴り声の直前に、呼吸がない。
誰かが気象庁の記録を引く。雨樋の音の日、空は快晴。
《天気は、消せない日付だ》
報告書の中の一行が、切り抜かれ、増殖していく。
三日前まで誠一郎を焼いていた薪で、今夜は別のものが燃えている。
反転は、速かった。
同じIDが、三日前と逆のことを言う。
《最初から怪しいと思ってた》
《俺は信じてたけどね》
悠真は、画面を眺めた。
——また、速いな。
それだけ思って、閉じた。
羽根の回り方を数えるのは、今夜はやめておく。
翌日の昼。ワイドショー。
司会者が、原稿を読んだ。
《一部、確認が不十分な報道がありました》
九十秒だった。
誰の名前も出さない九十秒。目線は原稿から上がらない。
謝っている人間の顔ではなかった。
濡れた床を拭かされている人間の顔だった。
夕方、テロップが流れる。
コメンテーター二名、一ヶ月の出演自粛。
ネットは、祭りになった。
例の八秒切り抜きに、逆再生のコラ。
《逆ギレ答弁》のテロップが《正論答弁》に貼り替えられて百万再生。
篤志は「タヒね日本!のオヤジ」と呼ばれ、
葵は「令和のジャンヌダルク」の旗をまた立てられ、
誠一郎は「無実の国士」になった。
三人とも、頼んでいない。
闇祓いサイトの名前も、飛び交った。
中の人は誰だ。天才ハッカーか。元公安か。
悠真の名前だけは、どこにもない。
祭りの真ん中に、席が三つ。
用意した男の席は、ない。
それでいい、と悠真は思った。
寝袋の中で、思った。
誠一郎の事務所に、電話が戻ってきた。
三日前まで、あの部屋の電話は鳴らなかった。いまは、鳴り止まない。
人も戻ってきた。離れていった顔が、次々と扉をくぐる。
誰もが、深く頭を下げた。誠一郎は、その角度を見ていた。
深すぎる礼が、机の前に並んでいく。
——深い礼は、信じないと決めている。
だから全員に、同じ言葉を返した。
《お忙しい中、ありがとうございます》
浅く、長く、頭を下げながら。
日曜の午後、駅前のファミレスに、誠一郎はいた。
窓際の席。向かいに、娘。
妻のアパートから、電車で二駅。
《一時間だけなら》と、妻からのメッセージには書いてあった。
妻は、来ていない。
娘は、制服だった。
「学校、行ってるのか」
「先週から」
それきり、二人ともメニューを見た。
パフェを一つと、コーヒーを一つ、頼んだ。
娘は、パフェを三口食べてから、言った。
「四十二ページ、全部読んだ」
誠一郎は、カップを置いた。
「難しくなかったか」
「難しかった。音のところは、全然わかんなかった」
スプーンの先が、クリームの上で止まる。
「でも、雨の音のところは、わかった」
娘は、顔を上げなかった。
「お父さんが怒鳴ったことになってる日、晴れだったんでしょ」
「……ああ」
「天気は、嘘つけないんだって」
誠一郎は、頷いた。
声を出すと、震えそうだった。
あの報告書を娘に見せていいか、書いた男に訊いたことがある。
《娘に、伝えてもいいですか》
返事は、短かった。
《どうぞ。記録は、そのためにあります》
許しは、もらっていた。
だが、どう渡すべきか迷っているうちに、世界中に公開された。
娘は、自分で読んだ。四十二ページを、一人で。
伝えようとした父より、娘の方が、一歩先にいた。
伝わっていた。
誰の手も借りない形で、伝わっていた。
「ママは」
言いかけた誠一郎に、娘は首を振った。
「まだ、だと思う」
まだ。
その二文字を、誠一郎は胸の内で受け取った。
まだ、は、二度と、ではない。
一時間が過ぎて、娘は改札の向こうへ歩いていった。
途中で一度だけ振り返り、小さく手を振った。
誠一郎は、浅く、長く、頭を下げた。
顔を上げたとき、もう娘は見えなかった。
一ヶ月が経った。
出演自粛の明けたコメンテーターが、画面に戻ってきた。
何もなかったような顔で、別の政治家を叩いていた。
《疑惑は深まりましたね》
同じ口。同じテロップの色。同じ、笑いを含んだ眉。
誠一郎は、リモコンを置いた。消しはしなかった。
覚えておくために、最後まで見た。
祭りは、誰の痛みも覚えていない。
だから、覚えている人間が要る。
同じ夜。悠真の新拠点。
サーバーラックは、もう骨組みではなかった。
ファンが回り、緑のランプが呼吸している。
部屋に、機械の呼吸が戻っていた。
最後の仕上げが、残っている。
二度と、あの三十秒を許さないこと。
画面に、ニュースリリースが開いてある。
アンスラサクス社、先月発表の新製品。
自立思考型セキュリティAI——バルジバル。
攻撃を学習し、防御を自分で書き換える。
個人向けライセンスの提供開始。
レビューの星は、ほぼ満点だった。
アイコンは、青い盾。
キャッチコピーが、盾の下に添えてある。
《あなたの城に、騎士を。》
悠真は、購入ボタンを押した。
利用規約が、長々とスクロールする。
世界中の誰も読まない長さを、悠真も読まなかった。
インストール。
プログレスバーが右端に届く。
模擬攻撃を三種類、自分で撃ち込んでみた。
三種類とも、着弾の前に消えた。
ログには、防いだ理由まで書いてある。丁寧な仕事だった。
「頼もしいね」
画面の中央で、青い盾が一度、光った。
《ようこそ。あなたの環境を学習し、最適な防御を構築します。》
学習、か。悠真は、軽く笑って、寝袋に向かった。
机の隅で、外付けドライブのアクセスランプが、一度だけ瞬いた。
悠真は、見ていなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
勝利の回のはずなのに、書き終えてみると、どこか薄ら寒い回になりました。
九十秒の謝罪。一ヶ月の出演自粛。そして、しれっと戻ってくる同じ口。
祭りは、誰の痛みも覚えていない。だから、覚えている人間が要る——
この物語の四人は、たぶん「覚えている側」の人間たちです。
そんな祭りの外で、ファミレスの一時間だけを、本物の回復として書きました。
パフェ一つと、コーヒー一つ。
「まだ」は、「二度と」ではない。それで十分だと思っています。
それから、悠真が最後にインストールしたもの。
青い盾のことは、どうか少しだけ、覚えておいてください。
次話、第29話「四人の顔合わせ」。
記録でしか互いを知らなかった四人が、初めて同じ部屋に集まります。
執筆の大きな励みになります。ブックマーク・評価・感想を入れて下さい。




