【第27話:バイク便】
第五章「4人の反撃編」、開幕です。
サーバーが焼け落ちた、その翌朝から始まります。
回線を失った男に残された、最後の通信手段の話。
夜明け前の部屋は、静かすぎた。
サーバーの排気音がない。ルーターの緑の点滅もない。
一年間、この部屋には常に機械の呼吸があった。
いまは、悠真の呼吸だけ。
机の上に、USBが三本。
掌に載せる。軽い。
一年分にしては、軽すぎる。
報告書、四十二ページ。素材、原本のまま。ログ、秒まで。
男一人の人生を焼いた火と、それを消す水が、この重さ。
番号は振らない。番号は、辿る手掛かりになる。
代わりに、紙を三枚。
ハッシュ値、六十四桁。手で書き写す。
プリンタは使わない。機械を疑っているのではない。
手で書いた数字は、書いた本人が覚えている。それだけのこと。
三回、照合する。
指先で一桁ずつ追う。声には出さない。
窓の外が、藍色から灰色に変わっていく。
スマホが、短く二度、震えた。
永田の合図だった。
呼び鈴は鳴らさない約束にしてある。
夜明け前の家は、まだ眠っている。
両親を、これ以上この件に近づけたくなかった。
悠真は音を立てずに階段を降り、玄関の鍵を開けた。
永田だった。
両手に、大きな紙袋。
「本物だ」
袋の中身を机に並べる。
バイク便の制服。ヘルメット。肩掛けの配達鞄。
そして、伝票の束。
「偽物は、調べれば割れる。本物に紛れる」
知り合いの営業所に、今日一日だけの登録。
正規の配達を三件、間に挟んである。
書類上、悠真は今日、ただの配達員だった。
「二本は、預かる」
永田が掌を出す。
悠真は、USBを二本、載せた。
宛先は、互いに全部は言わない。
系列の外の媒体。遠くのミラー。
永田のルートは永田しか知らず、悠真のルートは悠真しか知らない。
「片方が落ちても、全部は消えない」
「ああ」
「三本目は」
「一番重いのを、俺が運ぶ」
永田は、それ以上聞かなかった。
紙袋を畳み、一度だけ悠真の肩を叩いて、出て行った。
午前九時。都心へ向かう下道。
ミラーを見る。
癖になっている。信号ごとに、見る。
誰もいない。
白いバンも、同じバイクも、二度は現れない。
尾行の教科書どおりの何かは、どこにもない。
それが、逆に不気味だった。
二十時五十九分三十秒に、あれだけの火力を向けてきた連中だ。
金で借りられる火力の、上限まで。
その連中が、いまは黙っている。
理由は、一つしかない。
サイトは死んだ。そう思っている。
死んだと思われている男は、道路を使える。
回線は監視できても、朝の環七までは監視できない。
正規の配達を、二件こなす。
判子をもらい、頭を下げる。
誰も、配達員の顔を見ない。
制服は、透明マントだった。
三件目の伝票を、鞄の底から出す。
政党事務所は、雑居ビルの二階にあった。
歩道に、人だかりはない。
少し前まで、ここにはカメラの列があったはずだ。
袋叩きの祭りが終わり、記者は次の火事場へ移った。
階段を上がる。
ガラス戸の向こう、机が並んでいる。
半分は、空。電話は、鳴っていない。
支持者が離れた事務所の静けさは、焼け跡の静けさに似ていた。
「お届け物です。直接お渡しする決まりですので」
奥から、男が出てきた。テレビで百回見た顔。
百回とも、切り抜かれた顔だった。
実物は、思ったより痩せていた。
ワイシャツの襟が、首に対して一回り大きい。
誠一郎は、伝票を見た。 差出人の欄が、空白だった。
顔を上げる。 配達員は、ヘルメットを脱がない。
シールド越しに、目だけが見えた。
誠一郎の手が、一瞬、止まる。
——深い礼で近づいてくる者を、もう信じないと決めていた。
人懐こい笑顔も、綺麗な志望動機も。
だが、目の前の男は、笑わなかった。名乗りもしなかった。
ただ、小さな包みを差し出した。
「サイトが攻撃されました。サーバーは、落ちたままです」
低い、若い声だった。
「家族に迷惑はかけられない。拠点を移します」
誠一郎は、包みを受け取った。軽い。
その軽さで、分かった。中身は紙ではない。
「報告書と、素材と、ログ。全部入っています」
配達鞄から、封筒が一通。
「それと、指紋のメモ」
封筒の中、手書きの数字が六十四桁。
「データの指紋です。一桁でも違えば、誰かが触った証拠になる」
誠一郎は、数字の列を見た。癖のない、几帳面な字だった。
定規で引いたような字を書く人間が、これを三回は確かめている。
そういう字だった。
「データには、時限を仕掛けてあります」
男は、そこで初めて、少しだけ間を置いた。
「三日後の二十一時。自動で、全部公表されます」
「……三日」
「握り潰しても、燃やしても、出ます。俺が止めても、出ます」
もう、誰にも止められない形にしてから、渡しに来た。
本人にすら、止められない形に。
誠一郎は、包みを両手で持ち直した。
四十二ページと、五ヶ月と、一人の男の一年が、掌に載っている。
「お名前は——」
言いかけて、やめた。
聞いてはいけないことくらい、分かっていた。
代わりに、一つだけ訊いた。
「なぜ、ここまで」
シールドの奥で、目が少し動いた。
「噂ではなく、記録を」
それだけだった。
「感情ではなく、日付を。——そういう決まりで、やってるので」
誠一郎は、頭を下げた。深くは、下げなかった。
深い礼は、あの日から信じていない。
浅く、長く、下げた。
顔を上げたとき、男はもう階段を降りていた。
「体制を整えたら、また連絡します」
背中だけが、そう言った。
エンジンの音が一つ、遠ざかって、消えた。
事務所は、また静かになった。
だが、さっきまでの静けさとは、違う。
掌の上の軽い包みが、鳴っていない電話の全部より、重かった。
その日の午後。誠一郎は、地検の窓口にいた。
付き添いは、弁護士が一人だけ。
提出したのは、USBと、六十四桁のメモ。
求めたことは、二つ。
受理の時点でハッシュ値を照合し、記録に残すこと。
三日以内に、音源が合成物か否か、確認に着手すること。
「三日、ですか」
係官が、顔を上げる。
「期限は、私が決めたのではありません」
誠一郎は、静かに言った。
「三日後の二十一時に、これは世に出ます。私が何をしても、出ます」
だから、それより先に、公の記録にしてほしい。
噂が走り出す前に、日付を打ってほしい。
係官は、書類に受理の時刻を書き込んだ。
十四時二十七分。
誠一郎は、その数字を見た。
タイマーは、もう走っている。
お読みいただき、ありがとうございます。
第五章の初回は、この物語で一番アナログな回になりました。
デジタルの信条を貫くために、道路とヘルメットと手渡しを選ぶ。
記録は、回線がなくても運べる。悠真にそれを教えたのは、皮肉にも敵の火力でした。
そして受理時刻、十四時二十七分。
タイマーは、もう走り始めています。
次話、第28話「祭りの後」。
三日後の二十一時に、何が起きるのか。
ブックマーク・評価・感想、いつも大変励みになっております。




