【第22話:刺客】
前話の終わり、下山した誠一郎の耳に蘇った拍手の音。
今話は、その拍手の主の話です。
あの音源は、どこから来たのか。時間を二年、巻き戻します。
帰りの特急は、空いていた。窓の外は、もう闇だった。
ガラスに、疲れた男の顔が映っている。
膝の上の封筒は、ずっしりと重い。
目を閉じた。
拍手の音が、聞こえてくる。
二年前の、春だった。
県民会館の小ホール。聴衆は、六十人。
空席の方が多い演説会で、一人だけ立って拍手する若者がいた。
最前列。誰よりも長く、手を叩いていた。
終演後、その若者は深々と頭を下げた。
「真山と申します。先生の動画は、全部見ました」
名刺はなかった。
代わりに、ボランティアの登録用紙を差し出してきた。
「何でもやります。ポスター貼りでも、弁当の手配でも」
翌週から、本当に何でもやった。
誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。
雨の日の外回りを、嫌な顔ひとつせず引き受けた。
「先生みたいになりたいんです」
まっすぐな目だった。
誠一郎は、若い頃の自分を見ている気がした。
移動の車に、乗せるようになった。
演説の組み立てを、教えた。
「間だ。言葉より、間が人を動かす」
「間、ですか」
「一番言いたいことの前で、三秒黙れ。客席が、身を乗り出す」
真山はメモを取った。
膝の上のスマホは、いつも画面を伏せて置いてあった。
行儀のいい癖だと、思っていた。
一度、家に呼んだ。
妻がシチューを作った。
娘は初対面の客に懐いて、宿題を見てもらっていた。
「いいお兄ちゃんね」
帰り際、妻が小声で言った。
玄関で真山は、靴を揃え直してから頭を下げた。
深すぎる礼だと、あの時思えばよかった。
次の選挙で、擁立を決めた。党内は、反対が多かった。
「経歴が白すぎます」古参の幹部が言った。
「大学からの三年間、何をしていたのか誰も知らない」
「経歴なら、私にもなかった」
誠一郎はそう言って、押し切った。
公認証を渡した日、真山は泣いた。涙は、本物に見えた。
今でも、本物だったのかもしれないと思う。
それが一番、怖い。
選挙戦は、泥のようだった。
国政政党になってからは逆風がさらに強くなっていた。
演説妨害。プラカード。地元紙の黙殺。
討論番組は、生放送には呼ばれず、録画では発言ごと切られた。
事務所で夜食のカップ麺をすすりながら、檄を飛ばした。
「おまえのためにやってるんだぞ」
ポスターの束を代わりに担いだ時、笑いながら言った言葉だ。
「わかってんのか!」
討論の練習で、相手役の真山の詰めが甘くて、机を叩いてみせた。
芝居だった。二人で笑った。
どの言葉にも、覚えがある。
全部、自分の声だ。一言も、嘘じゃない。
ただ——あの順番でだけは、言っていない。
音源が出たのは、投開票の九日前だった。
週刊誌の見出し。
《恫喝、罵倒、人格否定——「保守のホープ」の素顔》
昼のワイドショーが、音声を流した。
怒鳴り声の後ろに、すすり泣きが重なっていた。
誰の泣き声かも、わからないのに。
夕方、真山が記者会見を開いた。
「もう、政治が、怖いんです」
声が震えた。 震える前に、三秒の間があった。
——一番言いたいことの前で、三秒黙れ。
教えた通りの間で、真山は誠一郎を刺した。
カメラのフラッシュの中、深々と頭を下げる。
あの、深すぎる礼だった。
反撃は、身内から始まった。
古参の後援者が、独自に調べ上げていた。
大学時代所属した敵対政治団体の経歴。活動家と並んだ集合写真。
空白の三年間を埋める、複数の証言。
実名で、全部ブログに載せた。
「先生、潮目が変わりますよ」
事務所に、久しぶりに明るい声が戻った。
その翌日だった。
真山と、連絡が取れなくなった。
電話は電源が切られ、アパートはもぬけの殻。
置き手紙も、なかった。
あれだけ深く下げた頭を、二度と上げないまま。
真山は、消えた。
列車が、終点に着いた。
アナウンスで目を開けても、しばらく立てなかった。
思い出は、ここで止めておきたかった。
この先には、河川敷がある。
お読みいただきありがとうございます。
書いていて一番苦しかったのは、音源の「素材」の場面です。ポスターを担いでくれた日の笑い話。討論練習の芝居。どれも本物の声で、一言も嘘がない——ただ、あの順番でだけは言っていない。切り貼りというものの本当の恐ろしさは、材料がすべて真実であることだと思っています。
そして、膝の上でいつも伏せられていたスマホ。読み返すと、あちこちに置いてあります。
次話「河川敷」——消えた真山の、その先の話です。この章で最も重い一話になります。明日更新予定です。
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