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【第21話:真の国士】

本日より新章・誠一郎編が始まります。

舞台は美杉の山から、永田町へ——と言いたいところですが、最初の舞台はやはり山です。

連日ワイドショーを賑わせる「あの政治家」。彼は本当に、報じられている通りの男なのか。

葵が出した条件《話は山でさせてください》に、男がどう応えるかから、この章は始まります。

《美杉町長選は五日、投開票の結果、無所属新人で会社役員の新井誠氏(42)が初当選した。

 新井氏は「開かれた町政と地域経済の再生」を訴え、幅広い支持を集めた。

 投票率は六八・四%だった。》


 記事は、それだけだった。

 論評はない。写真は花束と万歳。

 どこの町にでもある、当選の風景だった。

 当選の翌週。

 町営バスの車内広告が、二枚増えた。

 日本語は、どちらにもなかった。

 直売所の棚から、宮下のぶどうジュースが消えた。

 代わりに並んだペットボトルの水。ラベルには湖と、外国の山の写真。

 隅に小さく、アクアテラのロゴ。

 秋祭りの寄付名簿が、公民館に貼り出された。

 筆頭は、アクアテラ・ジャパン合同会社。金一封、五十万円。

 誰も、何も言わなかった。


 東京、議員会館。

 テレビの中で、誠一郎が怒鳴っていた。

 《おまえのためにやってるんだぞ! わかってんのか!》

 音声が切れ、スタジオに戻る。

 コメンテーターが眉を寄せ、ため息をついた。

 「これはもう、政治家以前に、人としてどうなのかと」

 薄い拍手。テロップ。《恫喝音声・新証言》

 当の本人は、その画面を消音で眺めていた。

 深夜二時。 机の上には条文の束。


 《外国資本等による水源地域等の土地取得の規制に関する法律案》

 赤ペンで直しては、消す。

 「重要施設周辺」の定義が、まだ甘い。

 ここを抜けられたら、この法は死ぬ。


 テレビを消した。部屋が静かになる。

 静かになると、あの音声が頭の中で再生される。

 自分の声だ。自分の声の、はずだ。

 だが、あんな言葉をあの並びで言った記憶がない。

 記憶がない——その反論の弱さも、知っていた。

 「明日の長野は、取りやめましょう」

 朝、秘書が言った。

 「今、先生が山に入る絵は、逃げたと書かれます」

 「書かせておけ」

 「参考人といっても、一介の保護官です。それも、炎上した」

 「炎上なら、こっちが先輩だ」

 秘書は口を閉じた。

 誠一郎は鞄に条文の束を詰めた。

 SPは、置いていくことにした。


 登山口に、葵は立っていた。

 約束の十分前だった。誠一郎は、二十分前に着いていた。

 真新しい登山靴。量販店の値札は、昨夜切った。

 「歩けますか」

 「歩きます」

 挨拶は、それだけだった。

 葵が先を行く。速い。

 誠一郎は黙ってついた。

 三十分で、シャツが背中に貼りついた。

 息が上がる。弱音は、飲み込んだ。

 葵は時々立ち止まり、振り返らずに待った。

 尾根に出ると、風が変わった。

 「ここから先が、父の山でした」

 過去形だった。

 誠一郎は、聞き返さなかった。

 沢の頭。 水が岩を割って走っていた。

 「この水が、下の田んぼと、葡萄畑と、味噌汁になります」

 葵は屈んで、手で水をすくった。

 誠一郎も、同じようにした。冷たさが、指の骨まで届いた。

 「下の集落は、何軒ですか」

 「百四十世帯。下流の浄水場まで入れれば、三万人」

 誠一郎は水面を見た。

 三万人の蛇口が、この一筋につながっている。

 境界の斜面に、杭があった。

 真新しい、白い測量杭。

 「去年の秋に打たれました。境界から十四メートル、外側です」

 「・・・十四メートル」

 「山ではよくある誤差だと、言われました」

 葵は笑わなかった。

 「よくある誤差は、いつも同じ外側にずれるんです」


 少し下ると、開けた場所に出た。

 大きな切り株があった。年輪が、渦を巻いている。

 「三百年」

 葵は短く言って、その上に封筒の束を置いた。

 切り株が、机になった。

 登記簿。スギサワ財産管理。ミナモト興産。アルテ財産管理。

 登記上の住所は、全部同じだった。港区の、同じビルの、同じ階。

 「十一社。先月、十三に増えました」


 売買の日付に、付箋が貼ってある。

 脳梗塞で倒れた地主の、四日後の売買契約。

 調停中だった山の、先回りの買付。

 「誰かが、先に知っているんです」


 誠一郎はページを繰った。

 膝をつき、一枚も飛ばさなかった。

 スーツの膝が汚れた。払わなかった。

 一時間が、経った。

 「これを、なぜ私に」

 顔を上げて聞いた。

 葵は、少しだけ黙った。


 「私を燃やした火と、あなたを燃やしている火」

 風が、付箋の端を揺らした。

 「薪の組み方が、同じに見えたから」

 書類を封筒に戻しながら、葵が言った。

 「ひとつだけ、聞いていいですか」

 「どうぞ」

 「あの音源。本物ですか」

 沢の音だけが、続いた。

 誠一郎は、すぐには答えなかった。

 嘘なら、即答できた。

 本当のことは、いつも遅い。

 「——妻には」

 声が、少しかすれた。

 「信じて、もらえませんでした」


 葵は頷いた。

 それ以上は、聞かなかった。

 切り株の年輪を、指でなぞる。

 三百年の渦の、いちばん外側。

 「山では、嘘は続かないんです。息が上がるから」

 立ち上がり、封筒の束を差し出した。

 「全部、写しです。原本は別の場所にあります。——使ってください」

 誠一郎は、両手で受け取った。


 下山の道は、一人だった。

 葵は、沢の見回りに戻っていった。

 膝が笑う。靴擦れが、今ごろ痛み出す。

 それでも、足は軽かった。

 鞄の中の封筒が、条文の続きを書けと言っている。

 夕暮れの登山口。

 振り返ると、稜線が黒く沈んでいた。

 あの沈黙が、まだ耳に残っている。


 ——本物ですか。


 答えられなかった数秒の底で、浮かんだ顔があった。

 人懐こい笑顔。深すぎる礼。誰よりも早いポスター貼り。

 「先生みたいになりたいんです」と言った、あの声。

 思い出したくなかった。

 だから今日まで、思い出さずにきた。

 沢の音は、もう聞こえない。

 代わりに、あの男の拍手の音がしていた。

お読みいただきありがとうございます。

冒頭の新聞記事は、葵編を最後まで読んでくださった方への、一番冷たい報せになったかと思います。町は、静かに変わり始めています。

誠一郎という男を、皆さんはまだ信じられないはずです。それでいいと思って書いています。彼が本物かどうかは、これから六話かけて、記録が明らかにしていきます。

次話「刺客」——誠一郎を袋叩きの渦へ突き落とした、あの音源の始まりの話です。明日更新予定です。

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