【第20話 三百年の楓】
四十九日が、明けました。
松本の工房で、布が解かれます。
十年前——葵がギターをやめた年に、父が伐った木。
「急がんでいい。娘が、また弾きたくなる日まででいい」
葵編、最終話です。
四十九日の法要は、晴れた。
坊さんの読経の間、開け放した障子の向こうで、山が色づき始めていた。
父の好きだった季節だった。
紅葉は雑木の勲章だ、と言っていた。杉と桧だけの山に、秋は来ない、と。
翌朝、葵は松本へ向かった。
工房の戸を開けると、削り屑の匂いがした。
柳井は、待っていた。
いつもの前掛け。いつもの椅子。ただ、作業台の上が、今日は片付いていた。
「まあ、座りなさい」
茶が出た。飲み終わるのを、柳井は待った。それから、奥の部屋へ入っていき——
布に包まれたものを、両腕で抱えて、戻ってきた。
作業台の上に、寝かせる。布を、解く。息が、止まった。
ギターだった。
アコースティックの、少し小ぶりな一本。
スプルースの表板は蜂蜜色に焼けて、長い年月を吸っていた。
そして、柳井がゆっくりと裏へ返すと、裏板が、燃えた。
虎杢。
板の端から端まで、光の縞が走っていた。窓の光を受けて、縞が揺れる。
角度を変えるたび、山の稜線みたいに、波打って、動く。
玉が三つ、腰のあたりに浮いていた。夕陽の沈む沢面のような、丸い光。
「……これ」
「あんたの山の楓だ」
柳井は言った。
「十年前に、巌さんが伐った。北東の尾根の、三百年もんだ」
十年前・・・葵が、ギターをやめた年だった。
大学の軽音サークル。安いアコギ。
母が死んで、家に戻って、山の仕事を継ぐと決めて——ケースごと押し入れに仕舞った年。
父は、何も言わなかった。
弾けとも、惜しいとも、何も。
「持ってきたときの巌さんの顔は、忘れんよ。木口も見せんうちから、こう言った。
『これで、ギターを一本。急がんでいい』——急がんでいい、と念を押した」
柳井の目が、細くなった。
「『娘が、また弾きたくなる日まででいい』とな」
葵は、ギターを見た。
見えなくなった。
視界が、揺れて、光の縞が滲んで、一つに溶けた。
「木ってのはな、伐ってすぐは使えん。寝かせるんだ。
十年、二十年。狂いが出なくなるまで、木が落ち着くのを待つ。
——わしはもう歳だから、五年前から少しずつ削り始めた。
急がんでいい仕事ってのは、いちばん、いい仕事だ」
柳井は、ギターのネックを取って、葵に差し出した。
「巌さんの、預かりものだ。受け取りなさい」
重かった。
木の重さでは、なかった。
膝の上に抱えると、裏板の虎杢が、腕の内側に触れた。ひんやりとして、すぐに、体温で温まった。
「弦は、昨日張った。まだ木が起きとらん。——鳴らしてやりなさい。最初の音は、あんたの仕事だ」
指が、震えた。
十年ぶりの弦は、細くて、冷たくて、指先の皮が覚えていた。
六弦に、親指を置く。
一音。
――ぉん、と。
低い音が、木の胴の中でふくらんで、膝から胸へ、まっすぐ昇ってきた。
音は、すぐには消えなかった。胴の中で、回っていた。
三百年ぶんの年輪の間を、確かめるように回って、それから、ゆっくりと工房の空気に溶けた。
北東の尾根の音だった。
朝靄の音。霜柱の音。斧の音。切り株を、ぽん、と叩く——
「……そうだ!」葵は、顔を上げた。
「柳井さん。父は、伐った株を、必ず一度だけ叩いてました。ぽん、と。あれは——」
「知らんのか」
柳井が、少し笑った。
「ありゃあ、挨拶だ。わしらルシアーが板を叩いて音を聴くだろう。巌さんは山でやっとった。
伐った株を叩いて、言うんだ。『いい音で行け』と」
いい音で、行け。
「木には行き先がある、が口癖の人だ。株を叩くのは、送り出しの合図よ。
——あんた、知らんで見とったのか」
知らないで、見ていた。
三十年。
知らないまま、自分も、いつの間にか叩いていた。地図を。山帳を。
葵は、ギターの胴を抱きしめた。
蜂蜜色の表板に、額を付けた。涙が、スプルースの上に落ちて、玉になった。
柳井は何も言わず、窓の外を見ていた。
工房の中で、六弦の余韻が、まだかすかに、鳴っていた。
父の声で、鳴っていた。
夜、家に戻った。
居間の卓袱台に、ギターを寝かせて、葵はノートパソコンを開いた。
やることが、二つあった。
一つ目。
山帳の、あの擦り出しのページを撮影して、闇払いネットの管理人に送った。
《父が沢で見つけた装置の型番です。AX-Θ07。装置は父の死の直後に撤去され、
山帳の該当ページは切り取られていました。事故の四日前の記録です》
送信して、三分だった。
返信が、来た。
《AX。——この頭文字を、最近、別の場所でも見ました。
ダークウェブで拾った暗号化ファイルの、ヘッダーです。
まだ開けていませんが、解析を続けています。
あなたのお父さんが見たものと、私が拾ったものは、同じ場所から来ているかもしれない》
画面の文字を、葵は長いこと見ていた。
山の沢と、ネットの深部。
いちばん遠い二つの場所が、同じ型番で、繋がった。
二つ目。
昼間から未読のままにしていた、一通のメールを開いた。
差出人は、聞いたことのある政党の、代表事務所だった。
《突然のご連絡を失礼いたします。代表の誠一郎が、
貴殿の動画と、水源地取得に関する一連の調査に強い関心を——
外国資本による土地取得の規制法案を準備しております。
実情を、直接お聞かせ願えないでしょうか》
誠一郎。
連日、ワイドショーで名前を見る男だった。
パワハラ音源。流出。辞任要求。コメンテーターたちの、揃った断罪。
世間の九割が、もう「クロ」の顔をしていた。
番組は毎晩、同じ十秒の音声を流した。怒鳴り声。テロップ。スタジオの、ため息。
普段の葵なら、削除していたメールだった。
指が、止まった。
——擁護と中傷が、同じ日に、同じ熱量で、束になって流れてくる。
あの既視感だった。
燃やされている人間の言い分を、誰か一人でも、直接聞いたのだろうか。
私の「私怨」を、誰か一人でも、確かめただろうか。
父が生きていたら、なんと言っただろう。政治は山を見ん、が口癖だったけれど——
木を見ずに値段をつける奴を、いちばん軽蔑した人でもあった。
音を、聴いてから決めればいい。
葵は、返信の下書きを打って、消して、また打った。
最後は、一行になった。
《お会いします。ただし、話は山でさせてください》
翌朝、葵はギターを背負って、山に登った。
北東の尾根。
株は、まだそこにあった。
十年前の切り株。苔をまとって、雨に洗われて、それでも年輪は読めた。三百と、少し。
父はこの株の周りだけ、下草をきれいに刈り続けていた。理由を訊いたことは、なかった。
もう、訊けることは、一つもなかった。
葵は株の横に腰を下ろして、ギターを膝に載せた。
朝の山は、静かだった。
沢の音。鳥。風が梢を渡る音。
その中へ、一音、置いた。
コードを、一つ。
もう一つ。
三百年、この尾根で聴いてきた音たちの中へ、楓は、自分の音で還っていった。
木々が鳴った。沢が鳴った。ギターが鳴った。
どこまでが山の音で、どこからが父の音か、もう分からなかった。
弾き終わって、葵は立ち上がった。
切り株に、手を置く。
そして、一度だけ。
ぽん。
「――いい音で、行くよ」
山は、答えなかった。
ただ、風が一度だけ強く吹いて、色づき始めた雑木の葉が、いっせいに、拍手のように鳴った。
木には、行き先がある。
私にも。
葵はギターを背負い直して、尾根を降りた。
行き先は、決まっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
葵編(第15話〜第20話)、これにて完結です。
最後に、少しだけ木の話を。
ルシアー(ギター製作家)は、板を指で叩いて音を聴きます。タップトーンといいます。よく乾き、よく育った板は、叩くと澄んだ声で応えます。
そして、伐ったばかりの木でギターは作れません。十年、二十年と寝かせて、木が落ち着くのを待ちます。「急がんでいい仕事」というのは、比喩ではなく、この世界の本当の時間なのです。
巌が切り株を叩いていた「ぽん」は、ルシアーのタップトーンと、同じ行為でした。
山の男とギター職人が、同じ仕草で木の声を聴いていた——この一点を書きたくて、この章はありました。
虎杢、縮み杢、玉杢。三百年育った木には、三百年使われるべき行き先がある。
その木がいま、太さと長さだけの値段で、杭や車敷になって、泥に還っていく。
葵編は、その憂いから生まれた章です。
でも、最後は憂いで終わらせたくありませんでした。
音を捨てて山を選んだ娘に、山が、音になって還ってくる。
切り株の横で鳴った一音が、皆さまにも届いていれば幸いです。
——さて。
葵は「行き先」を決めました。
世間の九割が「クロ」と断じている、渦中の政治家。あの十秒の音源は、本物なのか。
そして、山の沢とダークウェブを繋いだ型番《AX》の正体。
次回、第21話より誠一郎編が始まります。
物語は山を降り、永田町へ。四人の反撃が、静かに形を持ち始めます。
ここまで葵と歩いてくださって、ありがとうございました。
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