【第19話 令和のジャンヌダルク】
四十九日は、まだ済んでいません。
その沢に、重機が入りました。
三十トンの鉄と、五十キロの人間。
彼女は、考えるより先に、歩き出しました。
電話は、朝の六時に鳴った。
「葵ちゃん、沢に重機が入っとる」
葡萄の宮下の声が、割れていた。
「水口の沢だ。ユンボが二台、もう上がっていきよる」
四十九日は、まだ済んでいなかった。
林道の途中で、軽トラを降りた。
先は、道が変わっていた。
昨日まで山だった斜面が、赤土になっていた。排土板の跡。キャタピラの縞。
伐り倒された広葉樹が、枝も払われないまま、法面に押しのけられている。
楢。桂。水楢。
沢の水を、六十年ろ過してきた根が、空を向いていた。
その先に、オレンジ色の重機が二台。
三十トンの油圧ショベルが、アームを上げたところだった。バケットの爪が、朝日を受けて鈍く光る。その真下に、堰堤があった。
父が、死んだ場所だった。
葵の足が、動いた。考えるより先に、動いた。
「止まってください」
声は、思ったより通った。
エンジン音の谷間に、まっすぐ届いた。オペレーターがこちらを見る。現場代理人らしき男が、小走りに来た。ヘルメット。腕章。手には工程表。
「困りますよ、立入禁止——」
「長野県森林保護官の桧山です」
身分証を、開いて見せた。
「林地開発許可の許可証と、伐採届の写しを提示してください。現地確認の権限があります」
男の顔が、一瞬止まった。それから、書類鋏みを差し出した。
許可証は、あった。判も、あった。
合法だった。いつものように、完璧に合法だった。
ただ——
葵は、図面の一点を指した。
「この施工区域の北端、座標を読み上げます」
山帳を、胸ポケットから出した。父の飴色の手帳。
その最後の余白に、葵は自分の字で、境界杭の座標を書き写してあった。
打たれたばかりの白い杭を撮った、あの写真から。
「今、二号機が立っている地点は、区域の外です。十四メートル、出ています」
「いや、杭は、そこに」
「その杭が、十四メートルずれているんです。国土調査の成果と照合しました。
ずれた杭に沿って伐れば、区域外の立木を無許可で伐採することになる。
——もう、七本伐られていますが」
男が、図面と斜面を見比べた。 無線に、手が伸びた。
エンジン音が、一つ、止まった。
もう一つ、止まった。
山が、急に静かになった。沢の音だけが、戻ってきた。
「上と、確認します。今日のところは——」
「お願いします」
葵は、頭を下げた。 それで、終わるはずだった。
終わらなかったのは、彼女がそのあと、倒された水楢の前にしゃがんだからだ。
切り口に、手を置いた。 年輪を、指でなぞった。
そして、誰に言うでもなく、言った。
「……この沢の水で、味噌汁を作っている家が、あるんです」
朝、火にかけたまま出ていく家が。吹くなよ、と言い残していく人が。
「蛇口の向こうは、ここなんです」
立ち上がって、振り返ると、作業員たちが黙って彼女を見ていた。
いちばん若い一人が、スマホを、こちらに向けていた。
軽トラに戻って、ドアを閉めた。
そこで初めて、手が震えていることに気づいた。
ハンドルを握っても、止まらなかった。
三十トンの鉄の前に、考えなしに歩いていった。父さんなら怒っただろうか。
それとも——
フロントガラスの向こうで、朝日が尾根を越えた。
伐り残された木々が、いっせいに光った。
葵はハンドルに額を付けて、少しだけ、泣いた。
誰も見ていない、二分間だった。
動画は、投稿されたのではなかった。漏れたのだ。
撮った作業員は、仲間内のグループチャットに流しただけだった。
《今日、現場止まったんだけどw》——その程度の、軽いノリで。
仕事仲間の誰かが、別の誰かに転送した。そのまた誰かが、切り抜いた。
三日後、匿名の切り抜きアカウントが投稿した六十秒に、
まとめサイトが見出しを付けた。
《【神対応】たった一人で重機を止めた女性保護官》
撮った本人は、そこにもういなかった。
称賛したのも、拡散したのも、彼ではなかった。
動画は撮影者の手を離れて、勝手に、燃えた。
朝靄。赤土。オレンジの重機。その前に立つ、制服の女。
三十トンの鉄と、五十キロの人間。構図だけで、言葉が要らなかった。
そして、切り口に手を置いて呟く、あの一言。
『この沢の水で、味噌汁を作っている家が、あるんです』
コメント欄が、燃えた。
《泣いた。うちの実家も山、手放した》
《これが公務員だよ。国会議員全員見ろ》
《令和のジャンヌダルクで草。いや草じゃない。マジでそれ》
令和のジャンヌダルク。
誰かが書いたその一行が、タグになり、見出しになり、
三日後にはテレビのテロップになった。
同じ速さで、逆も来た。
《パフォーマンスでしょ。選挙前に胡散臭》
《開発止めたら過疎で死ぬだけなのに正義ヅラ》
《父親の件で会社に私怨あるらしいよ》
私怨。
その言葉が、どこから出たのか。父の死は、地方紙の隅に三行載っただけだ。会社との関係など、町の外の誰も知らないはずだった。
知っているのは——葵はスマホを伏せた。
考えすぎだ、と思おうとした。思えなかった。
擁護と中傷が、同じ日に、同じ熱量で、束になって流れてくる。
まるで両方の火に、同じ手が油を注いでいるみたいに。
賛と否に割れれば割れるほど、動画は回る。回れば回るほど、町の亀裂は深くなる。
誰が、得をする?
後になって、一つだけ、分かったことがある。
切り抜きが投稿された直後の一時間。まだ誰も知らないはずの六十秒を、
数百のアカウントが、一斉に拡散していた。火が付く前に、薪が組まれていた。
そのアカウントは、一月後に調べると——全部、消えていた。
一つ残らず。同じ日に。
だがそれに気づく者は、このときはまだ、どこにもいなかった。
一週間後の夜、見知らぬアカウントから、メッセージが届いた。
短い文面だった。
《美杉町の土地取得について調べています。
港区の同じビルに登記された合同会社を、十一社確認しました。
説明会での、あなたの質問の記録を読みました。
取得の「時期」を訊く人は、登記を見に行く人です。
あなたが辿った道と、我々が辿った道は、同じ場所を指しています》
リンクが、一つ。 開くと、黒を基調にした簡素なサイトだった。
《闇祓いサイト》
記事の見出しが、並んでいた。SNSの集団攻撃の解剖。捏造音源の検証。デマの発生源の追跡。感情ではなく、ログと日付だけで書かれた、奇妙に静かな文章。
最新記事のタイトルは、こうだった。
《静かな買収——ある町の水源が、誰にも気づかれずに他人のものになるまで》
葵が法務局の閲覧室で組み上げた図が、そこにあった。もっと精密に。もっと広く。美杉町だけではなかった。北海道。九州。同じビル。同じ手口。同じ、水の上。
指が、冷えた。
一人ではなかったことに、安堵した。
一つの町の話ではなかったことに、震えた。
管理人の署名欄には、名前がなかった。
ただ一行、こう書いてあった。
《噂ではなく、記録を。感情ではなく、日付を。》
窓の外で、山が黒い。
明日は、四十九日。
それが済んだら、松本へ行く。柳井の工房へ。
父が遺した「預かりもの」を、受け取りに。
葵は山帳を閉じて、飴色の表紙を、ぽん、と一度だけ叩いた。
意味は、まだ知らないままだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
葵は、英雄になろうとしたわけではありません。
父の沢を踏ませたくなかっただけの人間が、書類と座標で仕事をしただけです。彼女の武器は勇気ではなく、第15話で撮った一枚の写真と、父の山帳に書き写した数字でした。
そして、あの動画。
葵は投稿していません。撮った作業員も、投稿していません。仲間内の軽いノリが、転送され、切り抜かれ、見出しを付けられ——本人たちの手を離れて、勝手に燃えました。
いま、バズというものは、だいたいこうして生まれます。
ただ、一つだけ。
誰も知らないはずの六十秒を、投稿直後の一時間で一斉に拡散した数百のアカウント。一月後、同じ日に、一つ残らず消えていたアカウント。
火が付く前に、薪が組まれていました。
擁護と中傷が、同じ日に、同じ熱量で届く。割れれば割れるほど、動画は回る。
誰が、得をするのでしょう。
——そして、葵に届いた一通のメッセージ。
《噂ではなく、記録を。感情ではなく、日付を。》
第9話から読んでくださっている方は、お気づきのはずです。あの一年の闇を潜り抜けた男のサイトが、山の物語と、ここで繋がりました。
次回、第20話「三百年の楓」。葵編、最終話です。
柳井の工房で、父の「預かりもの」が布を解かれます。
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