【第18話 山が呼んでいる】
「戻る。——味噌汁、火にかけとる。吹くなよ」
それが、最後の言葉になるとは。
今回は、静かにお読みください。
味噌汁の匂いで、目が覚めた。
台所に、父の背中。もう作業着だった。
「早いね」
「霜が降りん先に、沢を渡る」
「昼には戻る?」
「戻る。——味噌汁、火にかけとる。吹くなよ」
それだけだった。
軽トラのエンジン音。砂利を噛むタイヤ。遠ざかって、消えた。
葵は欠伸をして、味噌汁の火を止めた。豆腐と、葱。父の味噌汁は、いつも具が二つだけ。
これが最後の会話になるなら、人はもっと、ましなことを言うはずだった。
昼、戻らなかった。
山では、よくあることだった。
夕方、戻らなかった。
葵は巡回先から二度、家に電話を入れた。父は携帯を持たない。
「山で鳴るもんは、鳥だけでいい」が口癖だった。
日が落ちた。 家の窓は、暗いままだった。
十九時、消防団に連絡。二十時、分団の車が三台、林道の入り口に集まった。
ヘッドライト。無線の声。白い息。
「水口の沢です」
葵は言った。声が、自分のものでないみたいに平坦だった。
「沢の頭の、堰堤。父はそこへ行った」
沢音が、大きくなっていく。
ライトの輪が、濡れた岩を舐める。誰かが何か叫んだ。無線が割れた。
人の輪が、堰堤の下にできていた。
「桧山さん、来ちゃいかん——」
腕を掴まれた。振り払った。 輪が、割れた。
父がいた。
堰堤の下。岩の間。作業着の背中が、見慣れた形のまま、動かない形をしていた。
顔は、水の方を向いていた。
右手が、流れの中にあった。
沢の水が、父の指を、洗い続けていた。
木口をなぞった指。等高線を辿った指。地図を、ぽん、と叩いた指。
その指の間を、水だけが、いつまでも流れていった。
葵は、叫ばなかった。 膝が、勝手に折れた。
濡れた岩の冷たさが、作業ズボン越しに染みてきて、それが今夜いちばん確かな感覚だった。
誰かが、葵の肩に毛布を掛けた。
「堰堤の上から、足を滑らせたものと思われます」
警察署の、若い署員だった。書類に目を落としたまま、申し訳なさそうに言った。
「外傷は転落によるもので、争った痕はありません。
所持品も、財布、手帳、その他——なくなっている物は、ありませんね?」
葵は、返された遺品の袋を見た。
財布。鍵。飴玉が二つ。飴色の山帳。
「……ありません」
「事故として、処理いたします」
事故。
あの日、雨は降っていなかった。
現場の岩は、乾いていた。
父は六十年、あの沢を歩いた。目を瞑っても渡れる、と言っていた。
堰堤の上は、父にとって庭の縁側だった。
縁側から落ちて死ぬ人間が、いるだろうか。
言いかけて、やめた。
若い署員の顔は、疑うことに慣れていない顔だった。
この町の警察は、熊の出没と、無免許の耕運機を追うのが仕事だ。
「お父様は、ご立派な方だったと聞いています」
署員は、深く頭を下げた。
それは、本心からの礼だった。だから余計に、行き場がなかった。
通夜には、町の半分が来た。
森林組合の年寄りたち。役場の職員。
葡萄の宮下は、目を真っ赤にして、祭壇の前で長いこと動かなかった。
柳井も、来た。
松本から二時間、軽バンを運転して。喪服の袖から覗く手首が、細かった。
「巌さんから」
焼香を済ませて、柳井は言った。
「預かっとるもんが、ある」
「預かって……?」
「四十九日が済んだら、工房へ来なさい。それまでは、渡すなと言われとる」
それ以上は、何も言わなかった。老いた目が、一瞬だけ、泣きそうに見えた。
受付の記帳台に、見慣れない名前があった。
《新井誠》 香典は、分厚かった。
供花の札も、あった。祭壇の脇。白菊の、ひときわ大きな籠。
《株式会社アクアテラ・ジャパン》
葵は喪主の席から、その白い花を見ていた。
礼儀として、完璧だった。
タイミングとして、完璧だった。
完璧であることだけが、この上なく、不吉だった。
初七日が済んだ朝、葵は一人で沢へ登った。
堰堤の上。父が立っていたはずの場所。
コンクリートの縁。乾いた岩。掴まるための灌木も、生きていた。
そして、堰堤の脇の岩に——
穴が、あった。
ボルトの穴。四つ。正確な四角形に。穴の縁は新しく、白い削り粉がまだ残っていた。
周りの岩肌には、機械を据えていた四角い跡。日焼けの差で、うっすらと。
箱は、なかった。
父が山帳に描いた、あの水位計は、消えていた。
葵はしゃがんで、穴の一つに指を入れた。指の第一関節が、すっぽりと沈んだ。
風が、沢を渡った。 木々が、鳴った。
山は、何も教えてくれなかった。
家に戻って、納屋の戸を開けた。 裸電球を、点けた。
作業台の上に、斧があった。
あの夜、父が研いでいた斧だ。刃が、鈍く光っていた。
指の腹を当てると、吸いつくような刃だった。
完璧に研ぎ上げられて、油を薄く引いて、木の柄まで拭き込まれて。
明日も使う人間の、刃だった。
壁の釘に、鉈が下がっていた。革の鞘。
腰にぶら下げた歳月で、鞘の革は父の腰の形に曲がったまま、固まっていた。
その隣に、手袋。
豚革の作業手袋。何百日の汗を吸って、乾いて。
指の形のまま、固まっていた。
軽く握った、あの手の形のまま。
葵は、それを取ろうとした。 取れなかった。
触れた瞬間に、革の硬さの中に、父の手の温度の記憶だけがあって、
温度そのものが、どこにもなかった。
膝から、崩れた。
納屋の土間に座り込んで、葵は初めて、声を上げて泣いた。
誰も見ていなかった。
裸電球と、研ぎ上げられた斧と、手の形の手袋だけが、見ていた。
嗚咽は、長かった。
涙が土間に落ちて、黒い点になって、乾いていく。それでも止まらなかった。
父さん、と呼んだ。
返事の代わりに、夜の山が、ごう、と一度だけ鳴った。
泣き止んだのは、何時か分からなかった。
葵は立ち上がって、居間に戻った。遺品の袋から、山帳を出した。
飴色の表紙。防水の紙。父の六十年。
ページを、繰った。
伐倒の記録。苗の本数。カモシカの足跡。天気。鉛筆の、几帳面な字。
最後の方で、指が止まった。
ない。
あの絵のページが、なかった。
沢の岩。四角い箱。ボルト。ソーラーパネル。
父が描いて見せた、あのページ——綴じ目の際から、鋭利に、切り取られていた。
刃物の切り口だった。
父は、山帳を破る人ではない。六十年、一枚も破かなかった。
葵は、次のページを見た。
白紙。
ただ、目を凝らすと、紙の上に、かすかな凹みがある。
前のページに、強い筆圧で描いたものの、跡。
鉛筆を、取った。
芯を寝かせて、白紙の上を、そっと塗っていく。
灰色の中に、白い線が浮かび上がってきた。
岩。箱。ボルトが、四つ。
そして、箱の側面に、父が几帳面に書き写していた文字列が、白く、浮かんだ。
《AX-Θ07》
葵は、鉛筆を置いた。
窓の外で、山が黒かった。
「山が、うるさい。」 父の声が、した気がした。
お読みいただき、ありがとうございます。
書くのが、いちばん苦しい回でした。
最後の会話が、味噌汁の火加減だったこと。
人は、別れると知らずに別れるのだということ。
「これが最後の会話になるなら、人はもっと、ましなことを言うはずだった」——この一行のために、この章はありました。
納屋の場面について、少しだけ。
山で生きた人の道具は、嘘をつきません。
完璧に研ぎ上げられ、油を引かれ、柄まで拭き込まれた斧は、「明日も使う人間の刃」です。
手袋は、何百日の汗を吸って、その手の形のまま固まります。
持ち主だけが、いない。
私は長く建築の現場におりますが、巌のような棟梁を、実際に知っています。ああいう人の道具箱は、本当に、ああなのです。
そして——
雨の降らなかった日の、乾いた岩。
六十年歩いた「庭の縁側」からの転落。
四つのボルト穴だけを残して消えた、あの箱。
六十年、一枚も破かれなかった山帳から、刃物で切り取られた一頁。
警察は「事故」と言いました。
紙の上に残された筆圧だけが、父の最後の報告でした。
《AX-Θ07》
この型番を、覚えておいてください。
次回、第19話「令和のジャンヌダルク」。
四十九日を待たず、重機が水口の沢に入ります。
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