【第17話 静かな買収】
一行も嘘がなく、一行も答えていない書面。
法務局の閲覧室で、葵が登記簿の束をめくります。
「買主」の欄に並ぶ、三つの会社名。
全部、違う会社でした。
全部、同じでした。
書面は、一週間で届いた。
株式会社アクアテラ・ジャパン。A4三枚。
《水資源の利用につきましては、関係法令を遵守し——》
《地域社会との共生を第一に——》
《保安林指定申請区域との重複につきましては、現時点で確認されておりません——》
完璧だった。
一行も嘘がなく、一行も答えていない。
法律の内側だけを、正確になぞった文章。弁護士の句読点。
葵は三度読んで、書面を封筒に戻した。
紙では、勝てない。
なら、紙で調べる。
法務局の閲覧室は、暖房が弱かった。
登記事項証明書。地番ごとに一枚。
葵は開発予定地の周辺、二年分の所有権移転を、端から請求した。
田淵の山。水口の沢。県境の尾根。
コピー用紙が、束になっていく。
買主の欄。
《合同会社スギサワ開発》
《合同会社ミナモト興産》
《合同会社アルテ財産管理》
全部、違う会社だった。
全部、同じだった。
設立日が、三日違いで並んでいる。本店所在地が、東京都港区の同じ番地。同じビル。同じ階。
代表社員の名前だけが、違う。
——ペーパーだ。
指が、次の一枚をめくる。
登記の日付を、時系列に書き出してみた。そこで、手が止まった。
水口の沢の山林。所有者だった老人が、脳梗塞で倒れたのは去年の十月。
所有権移転の登記原因、売買。その日付——十月の、倒れた四日後。
入院先のベッドの上で、判を突いたことになる。
隣の地番。相続争いで揉めていた田淵の山。分割協議がまとまったのは今年の一月。
買付の記録は、去年の十一月。
——揉めている最中に、もう買う側は動いていた。
誰が売るか。いつ売るか。いくらなら売るか。
誰かが、先に知っている。
閲覧室の蛍光灯が、ジ、と鳴いた。閉庁のチャイム。
葵はコピーの束を鞄に押し込んで、外に出た。
十一月の空が、もう暗かった。
役場前の掲示板に、真新しいポスターが貼られていた。
《美杉町に、新しい風を。》
若い男の顔写真。白い歯。新井誠、四十二歳。
「誰、これ」
売店のおばちゃんが、教えてくれた。
「三年前に越してきた人。貿易の仕事しとったって。今度、町長選に出るんだと」
「町長、辞めるの?」
「急にね。体調崩したって。開発には渋かったから、開発会社に粘られて根負けしたんかね?」
おばちゃんは、そこで声を落とした。
「新井さん、いい人よ。祭りにも寄付してくれて。日本語も、あんたより丁寧なくらい」
日本語も?
その言い方に引っかかったのは、家に帰って、選挙公報の経歴欄を読んだときだった。
《平成三十五年、帰化》
それ自体は、何の罪でもない。
ただ、越してきて三年の人間を、開発会社が推している。渋い顔の町長が、急に辞める。
ポスターは一夜で、町中に貼られた。
一つ一つは、合法だった。
一つ一つは、偶然でも通った。
夜。
居間の卓袱台に、五万分の一の地形図を広げた。
コピーの束から、買収された地番を拾って、赤鉛筆で塗っていく。
父は黙って、向かいに座った。老眼鏡。湯呑み。テレビは消してある。
一筆。また一筆。
三十分ほどで、赤い斑点が地図に散らばった。
「……ばらばらだな」
葵も、最初はそう見えた。
尾根。沢。斜面の中腹。リゾート予定地から外れた飛び地もある。脈絡がない。
父の指が、動いた。
節くれ立った人差し指が、赤い斑点を、一つずつ辿っていく。
等高線を読む指だった。六十年、山を歩いた指。
「——水だ」
低い声だった。
「全部、水の上だ。水口の沢の頭。東沢の湧き。井戸尻の伏流。
……この飛び地は、簡易水道の取水堰の真上」
指が、止まらない。
「こっちの尾根は水と関係ない。だが送電線が通っとる。この中腹は——」
「携帯の、基地局」
葵が言った。
水。電気。電波。
赤い斑点が、意味を持って浮かび上がる。町の血管と神経の上にだけ、正確に、針を打つように。
「素人の買い方じゃない」
父が、老眼鏡を外した。
「投機なら、値上がりする所を買う。リゾート屋なら、景色のいい所を買う。これは違う。これは——」
言葉を探して、父は黙った。
葵の背中を、冷たいものが降りた。
これは、兵糧攻めの地図だ。
蛇口と、ブレーカーと、アンテナを、外から握る買い方。値上がりも、景色も、要らない買い方。
人間が、こんな買い方をするだろうか。
——その問いを、葵はまだ、言葉にできなかった。
「明日」
茶を飲み干して、父が言った。
「水口の沢の頭を見てくる。先週、妙なもんがあった」
「妙なもの?」
父は、上着の内ポケットから手帳を出した。
山帳。表紙が飴色になった、防水の野帳。開いたページに、鉛筆の絵があった。
沢の岩。岩に据えられた、四角い箱。太い線で、ボルト。
細い線で、ケーブル。ケーブルの先に、板——ソーラーパネル。
「水位計みたいなもんが、堰堤の上に付いとった。県の標識も、許可の札もない。誰が付けた」
「私も行く」
「お前は明日、保護官の仕事だろう」
「でも」
「山は、ワシの庭だ」
父は湯呑みを置いて、立ち上がった。それから、卓袱台の地図に、目を落とした。
赤く塗られた、水口の沢の頭。
父の手が伸びて——
ぽん、と。
一度だけ、そこを叩いた。
切り株にするのと、同じ仕草だった。
意味は、訊けなかった。
「風呂、先に入れ」
それだけ言って、父は納屋へ出ていった。
裸電球の点く音。道具を確かめる、金属の音。
葵は地図を畳みかけて、やめた。
赤い斑点の散る紙の上に、湯呑みの跡が、輪になって残っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回、派手な事件は一つも起きていません。
書面が届き、登記簿をめくり、ポスターが貼られ、親子が地図を広げただけです。
それでも、この章でいちばん怖い回のつもりで書きました。
脳梗塞で倒れた四日後の、売買登記。
相続争いの決着より先に動いていた、買付。
一夜で町中に貼られた、ポスター。
一つ一つは、合法です。
一つ一つは、偶然でも通ります。
だから、誰も止められない。
そして卓袱台の地図。
六十年、山を歩いた父の指が読み取ったのは、水と、電気と、電波——町の血管と神経の上にだけ、正確に針を打つような買い方でした。
投機でもない。リゾートでもない。
では、何のための買い方なのか。
「人間が、こんな買い方をするだろうか」
葵がまだ言葉にできなかったこの問いを、どうか覚えておいてください。この物語の、ずっと先まで届く問いです。
次回、第18話「山が呼んでいる」。
父は一人で、水口の沢へ向かいます。
ブックマーク・評価・感想、いつも大きな励みになっています。




