【第15話 山の音】
第三の主人公、登場です。
舞台は都会から遠く離れた、美杉の山。
三百年かけて育つ木と、それを継ぐ親子の物語が始まります。
チェーンソーではなく、斧を振る父。
木の「行き先」を言い当てる娘。
静かな章です。
静かなまま、終わらせてはもらえませんが。
山の音に、耳を澄ませてください。
指が、板を叩いた。
コン。
柳井は目を閉じる。もう一度、指の腹で。
コン。コン。
工房の空気が、わずかに震えた。
「……鳴るなぁ」
老いた指が、楓の板の上を滑る。ニスも塗っていない、削り出したばかりの白い板。
それなのに、光が波打っていた。虎の縞。
木目と直交して走る、幾筋もの光の帯。
柳井が板を傾けると、縞は生き物のように揺れて、位置を変えた。
「巌さんの山の木は、どうしてこう鳴る」
「木のせいじゃないですよ」
葵は言った。工房の隅、材木棚の前。作業着のままだった。
「標高と、斜面の向きと、水と。それから——伐る人」
「親父さんの自慢か」
「事実です」
柳井が笑う。皺の奥の目は、板から離れない。
削り屑の匂い。窓から差す松本の冬の陽。
壁には完成を待つギターが三本、吊るされている。
表板のスプルース。指板の黒檀。そして、この楓がやがて裏板になる。
「この虎杢なら、上のグレードで取る。次はいつ出せる?」
「栃の縮み杢が乾いてます。ただ——」
葵は棚の一枚を指した。
細かな漣のような杢が、板一面にちりめんのように寄っている。
「これはギターより、茶筒でしょうね。挽物の職人さんに回した方がいい。
狂いが出やすい木ですから、薄く挽いて、蓋の合わせで鳴かせる」
「……あんた、ほんとに保護官か」
「保護官ですよ」
「木材屋の目だ」
違う、と思った。
これは、父の目だ。
夜明け前の山は、青い。
霧が谷を埋めて、尾根だけが島のように浮かんでいる。美杉の山。
祖父の代から、桧山の家が手を入れてきた山。
斧の音が、聞こえた。
カン。
規則正しい。呼吸のような間隔で。
カン。カン。
葵は登った。長靴が霜柱を踏む。息が白い。音は近づいてくる。
杉の間伐地を抜けた先、広葉樹の斜面。
父がいた。
桧山巌、六十七歳。
チェーンソーは足元に置いたまま。手には斧。
径二十センチほどのコナラに、正確に刃を入れていく。受け口はもう出来ていた。
追い口に、一撃。また一撃。同じ角度。同じ深さ。木片が同じ方向に飛ぶ。
上着は脱いでいた。作業シャツ一枚。
振りかぶるたび、背中の筋肉が盛り上がって、シャツの布を押し上げる。
六十七歳の背中ではなかった。汗が湯気になって、朝の光の中に立ちのぼる。
メキ、と木が鳴いた。
父が斧を止める。顔を上げる。梢を見る。
「倒れるぞ」
誰にともなく言って、二歩、退がった。
コナラはゆっくりと傾き、狙いすました方向へ、隣の木に触れもせずに倒れた。
地響き。霧が揺れた。
「……チェーンソー、あるでしょ」
「小径木に機械は要らん」
「六十七でしょ」
「木は齢で伐るもんじゃない」
会話になっていない。いつものことだ。
父は倒したコナラの切り株に手を置いた。年輪を、指でなぞる。
それから、ぽん、と一度だけ叩いた。
長年見てきた仕草だった。意味を訊いたことはない。
訊いてはいけない気がしていた。
昼。
倒木に並んで座り、握り飯を食う。
父の握り飯は大きい。塩だけ。母が死んでから十二年、ずっと同じ握り方。
「柳井さん、楓を上で取るって」
「そうか」
「栃は茶筒に回す」
「ほう」
父が、初めてこちらを見た。
「誰が決めた」
「私」
沈黙。
風が梢を渡る。
「……あの縮みは、俺も茶筒だと思っとった」
それだけ言って、また握り飯に戻る。
葵は、笑いを噛み殺した。
これが、桧山家の満点だ。
木には行き先がある。 父はそう言って育てた。
虎杢の楓は楽器に。玉杢のタモは箪笥の前板に。栃の縮みは挽物に。
真っ直ぐな杉は柱に。曲がった松は、曲がったまま梁に。
木を伐るんじゃない。行き先まで届けて、初めて伐ったことになる——。
小学生の葵は、意味が分からなかった。
分かったのは、父が伐った木の売り先を、大学のノートに全部書き溜めてからだ。
楽器工房。宮大工。指物師。漆器の木地師。神社の遷宮材。
三百年かけて育った木が、三百年使われる場所へ行く。
その帳簿をつける人生も、悪くないと思った。
だから、保護官になった。
午後、尾根を見回った。
父は谷側の作業道へ。葵は北の県有林との境界へ。カモシカの食害調査。
定点の写真を撮り、歩数を数え、テープの色を確かめる。
境界の少し手前で、足が止まった。
杭。
白いプラスチックの杭が、打たれていた。頭に赤の刻印。見たことのない業者記号。
周囲の灌木に、蛍光ピンクのテープが結ばれている。一本ではない。
斜面に沿って、点々と。等間隔に。
測量杭だ。
打たれたばかりだった。杭の根元の土が、まだ黒く湿っている。
——ここは、県有林との境界じゃない。
境界は、もう二百メートル先だ。この斜面は民有林。
三軒隣の、確か、去年相続で揉めていた——。
風の中に、声が混じった。
葵は顔を上げる。
尾根の向こう。二つ、三つ。人の声。日本語ではなかった。英語でもない。
抑揚の強い、聞き慣れない言葉。笑い声。金属を打つ音が、二度。
木々の間に、オレンジ色のベストが一瞬だけ見えて、消えた。
写真を撮った。杭を。テープを。指が、少しだけ冷えていた。
日暮れ。
軽トラの荷台に道具を積む父の背中に、言った。
「北の尾根、測量入ってた。田淵さんとこの山」
「知っとる」
手を止めずに、父は言った。
「先月から、ちょくちょく来とる。田淵んとこだけじゃない。
西の水口の沢も、去年売れた」
「売れた? 誰に」
「知らん」
チェーンソーを荷台に載せる。ワイヤーを掛ける。
父の手は、いつも通りに動いている。
ただ、口だけが、いつもより多かった。
「森林組合に東京の会社が来たそうだ。原木を、あるだけ買うと。
杭にするんだと。土留めの、杭に」
葵は、昼間の栃を思った。ちりめんのような、縮み杢。
「……木を見ないで、買うんですか」
「立米いくらの世界だ。杢も年輪もない。太さと長さだけだ」
ワイヤーが、ぎ、と鳴った。
父はエンジンを掛ける前に、一度だけ、暮れていく山を見た。
青から黒に沈んでいく稜線。カン、と、どこか遠くで音がした。
杭を打つ音か、ただの枝折れか、分からなかった。
「最近——」
父が、言った。
「山が、うるさい」
それだけだった。
軽トラのライトが、林道の闇を照らす。荷台で、今日伐ったコナラが揺れている。
行き先の決まっている木だ。薪炭材。里の椎茸農家へ。
行き先の決まっている木は、幸せだ。
そのときの葵は、まだ、そんなことを考えもしなかった。
杭の写真は、スマホの中で、静かに眠っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
葵編、開幕です。
篤志は家族を、悠真は仲間を描いてきました。
葵が背負うのは「土地」——父祖の代から受け継がれてきた山です。
虎杢、縮み杢、玉杢。
銘木と呼ばれる木々には、一本一本に「行き先」があります。
楽器に、箪笥に、茶筒に。三百年育った木が、三百年使われる場所へ。
その木が今、太さと長さだけで値段をつけられ、
土留めの杭として、コンクリートの下に消えていく——。
これは架空の物語ですが、山で起きていることは、そうではありません。
打たれたばかりの、白い杭。
父の言った「山が、うるさい」の意味。
次回、第16話「杭になる森」。
美杉町に、説明会の案内が届きます。
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