第9話『ちょっと看病しただけなんですけど』
朝の光の中で、ニコの熱は、ゆうべよりいくらか落ち着いていた。
薬草の煎じ汁と、ひと晩の介抱が効いたらしい。それでも頬はまだ赤く、ひとりで歩かせるのは心もとない。リリーがひょいと背負うと、ニコは「お、おろせ……」と弱々しく抗議したが、すぐに大人しくなった。強がる気力も今朝は薄いようだ。
「村まで送ります。お家の人が心配しているでしょう」
「……べつに、心配なんか」
「しますよ。あなたが思っているより、ずっと」
私が言うと、ニコは口をつぐんで、リリーの背に顔をうずめた。
丘を下りながら私はこっそり息を吐いた。遠巻きにされる変わり者が村の子を背負って下りていく。村人の目に、それがどう映るか。よけいな騒ぎにならなければいいのだけれど。
「……だいじょうぶ」隣で、ネルがぽつりと言った。
「何がです」
「クロエ、さっきから、こわい顔してる。心配ごと、しまっとけば?」
「……顔に出ていましたか」
「うん。ぜんぶ」
言い当てられて、私は少しだけ、肩の力を抜いた。
◇
カムナ村は、朝だというのに妙に静かだった。
畑に出ている者が、いつもより少ない。それもそのはず——マレーナの宿屋に近づくと、土間に何枚もの寝床が並べられ、そこに小さな子どもたちが寝かされていた。額に濡れ布を載せられ、苦しげに息をしている。付き添う母親たちの顔は一様に疲れきっていた。
「おや、あんたら」
マレーナが私たちに気づいて顔を上げた。目の下に濃い隈ができている。
「ニコ! あんた、どこ行ってたんだい!!」
母親らしき女がリリーの背からニコを抱き取った。安堵と怒りの入りまじった顔で、何度も頬をなでる。ニコは「肝試し……」とだけ言って、ばつが悪そうに目をそらした。
「お屋敷の前で、倒れていたんです」私は事情を伝えた。
「熱があるのに無理をしたようで。ひと晩、お預かりしました」
女は、はっとして、私たちを見た。それから深々と頭を下げる。
「……ありがとう、ございます。お屋敷の、メイドさんが……」
言いかけて、女の声が少しだけ硬くなった。〝あの屋敷〟の、という躊躇がその間にはあった。それでも頭を下げてくれた。それだけで十分だ。
寝かされた子らを見渡して、ゴルド村長が太い腕を組んで唸った。
「医者を呼ぼうにも、いちばん近い町まで三日はかかる。マレーナの薬で、なんとか持たせとるが……」
「正直、もう手が回らんよ」マレーナが、ぐったりと壁にもたれた。
「煎じても煎じても、追いつかん」
その横で、シルヴィアが寝ている子のひとりをじっと見ていた。
ふだんおっとりしている彼女の目が、薬草を語るときのような、静かな真剣さを帯びている。やがて、おずおずと口を開いた。
「あの……村長さん。少しだけ、お手伝いをしてもよろしいですか?」
「手伝い、とは」
「熱の子の看病を。わたし、こう見えて、看病だけは少し得意なんです」
ゴルドは、すぐには答えなかった。
〝出る屋敷〟の変わり者に、病の子を触らせる。村人がどう思うか——その逡巡が岩のような顔をよぎる。
「……ゴルド」マレーナが、低く言った。
「あたしの薬じゃ、もう保たん。藁にも、すがりたいよ」
長い沈黙のあと、村長は、ふう、と太い息を吐いた。
「……頼む。ただし、何かあったら——」
「ええ。何も、起こりませんよ」
シルヴィアは、ふんわりと笑って、いちばん近くの寝床の前に膝をついた。
汗ばんだ小さな額にそっと手をかざす。
そこから先はあっけないほどだった。
シルヴィアの手のひらが、淡く、温かい色に灯る。
すると、子どもの荒い息がすうっと和らいでき、真っ赤だった頬から少しずつ熱が引いていく。
その隣でネルがぺたりと座り込んだ。
眠たげな半目で、寝ている子らをぼんやり見渡して誰にともなく呟く。
「……みんな、がんばりすぎ。ちょっと、休も」
その途端、土間に満ちていた苦しげなうめきが、ふっと静まった。
子どもたちの顔からこわばりが消える。荒れていた熱そのものが、寝かしつけられたように、おとなしくなっていくのが端で見ていても分かった。
付き添いの母親たちが、息を呑む。
私はというと、煎じ薬を作る湯が濁っていたので桶の水に手を浸して、いつものように軽くかき混ぜた。
「きれいな水に、なってちょうだいね」
濁りが、すっと澄む。これで薬がよく出る。子らに飲ませやすくなる。——よかった。
ひとり、またひとりと、子どもたちが穏やかな寝息を立てはじめた。
さっきまで、宿屋いっぱいに満ちていた病の気配が嘘のように引いていく。
しん、と静まりかえった土間で。
村人たちが、声もなく、私たちを見つめていた。
「……いったい、何が」
ゴルドが、かすれた声を漏らした。マレーナは、口を半分開けたまま固まっている。
母親のひとりが寝ている我が子の頬にそっと触れ——熱が引いているのに気づいて、ぼろぼろと涙をこぼした。
その絶句した村人たちの真ん中で。
私たち四人は、きょとんと立っていた。
「あらあら。みなさん、いいお顔で眠っていますねぇ」シルヴィアが、嬉しそうに微笑む。
「……寝た」とネルが満足げにうなずく。
「よかったなー!」とリリー。
私は、澄んだ桶の水を村人に手渡しながら、首をかしげた。
「あの……どうかしましたか? ちょっと看病しただけなんですけど」
誰も、答えなかった。
ただ、奇跡を見たような目で私たちを見ていた。
◇
その夜。屋敷の居間で、いつもの報告会のお茶になった。
「いやー、今日はいい仕事したなー!」リリーが焼き菓子をかじる。
「子どもたち、元気になってくれるといいですねぇ」とシルヴィア。
「……ちゃんと、寝てた。いい子たち」とネル。
シルヴィアが、湯気の向こうで、ふと指先を見つめた。
「わたし、やりすぎていませんでしたよね。熱を引かせるだけ、のつもりだったんですけど……つい、込めすぎてしまうことがあるので」
「だいじょうぶ」ネルが、お茶をひと口すすった。「シルヴィアが暴れそうになったら、ちゃんと寝かせるから」
「あらあら、頼もしいですねぇ」
「……わたしの仕事、それだから」
二人のやりとりに、私はくすりと笑った。
生やしすぎる人と、なんでも寝かせる人。
妙な組み合わせだが、これが思いのほか、釣り合っているらしい。
私は、お茶をひと口含んでしみじみ思った。
看病をして、薬を煎じて、水をきれいにした。やったことはそれだけだ。なのに、村の人たちはまるでとんでもないものでも見たような顔をしていた。
「みなさん、ずいぶん大げさでしたね」
「だよなー。看病しただけなのにさ」
四人で、うんうんとうなずき合う。
——枯れた花を蘇らせる人。荒ぶる熱を寝かしつける人。濁った水を澄ませる手際。
どれも、本人たちにとっては「ちょっとしたこと」だった。
いつものことだ。私たちは、自分たちのやっていることが、どれほど普通でないのか、いまひとつ分かっていない。たぶん、これからも分からないのだろう。
胃の痛みは、今日はなかった。かわりに、胸の奥が少しあたたかかった。
遠巻きにされていた、あの村で。ひとりでも、頭を下げてくれた人がいた。それで十分だった。
◇
翌朝。
いつものように一番に起きて、玄関の扉を開けた私は足を止めた。
戸口に、野菜のカゴがいくつも積まれていた。
つやつやした大根、まるまるとした芋、青々とした葉物。カゴから溢れんばかりにどっさりと。
「……これは」
月例のお裾分けにしては、多すぎる。それに、まだその時季でもない。
カゴには、書きつけも、名も、何もなかった。誰が置いたのか、分からない。
けれど——その不格好に山と積まれた様子に、私はなんとなく察してしまった。
昨日の絶句していた村人たちの顔。頭を下げかけて、躊躇した、あの間。
まだ、面と向かっては、渡せないのだ。〝出る屋敷〟の変わり者に、ありがとうと言うのは、きっと勇気がいる。
だから、夜のうちに、そっと。
私は、誰もいない朝の道のほうを見て、小さく頭を下げた。
——どういたしまして、と。
誰にともなく、呟いて。




