第6話『この屋敷、やっぱり誰かいます』
「……あんたら、新しいメイドさん、かい」
強張った顔の村人を前に、私は身構えた。なにか、よほどの用件かもしれない。
ところが。
「これ、旦那さまに。畑の、お裾分けでさ」
男の人が差し出したのは、カゴいっぱいのツヤツヤした野菜だった。
「……お裾分け、ですか」
「ああ。前の取り決めで、毎月いくらか、こうして届けることになってて……。旦那さまは、いなさるかい?」
「あいにく、ご主人さまは留守でして」
「そうか」
そう答えると、男の人は、あからさまにほっとした顔をした。それから、屋敷の奥のほうをチラチラと盗み見て声をひそめる。
「……あんたら、こんな〝出る〟屋敷で、平気なのかい」
「出る、というと?」
「幽霊だよ、幽霊! 夜な夜な灯りがついて、ひとりでに物が動くって……みんな、怖がって近寄らねえんだ」
ああ、それのことか。私は思わず、口元がゆるみそうになるのをこらえた。
たしかに、夜のケトルは温かいし、掃除も勝手に手伝ってくれる。
けれど、それを「怖い」と言われると、なんだか少し心外な気がした。
「……ええ。今のところ、たいへん住み心地がいいですよ」
「へ、平気なのか……あんたら、肝がすわってんなあ……」
男の人は、私たちの顔を順にもう一度確かめた。
特に、夜目にも明るいリリーの金髪やネルの眠たげな半目を、おそるおそる見比べて、ぶるりと身震いする。
「噂の……変わったメイドさんってのは、あんたらか。なるほど、出る屋敷に、変わり者が住みついた、ってわけだ……」
「変わり者とは失礼な。ごく普通のメイドですが」
私はむっとして言い返したが、男の人はもう聞いていなかった。
野菜の籠を押しつけるように渡すと、逃げるように帰っていった。
残された私たちは、籠を囲んで顔を見合わせる。
「いい野菜だなー」とリリーが大根をつまみ上げる。
「立派ですねぇ。今晩、煮物にしましょうか」とシルヴィア。
平和な反応だった。誰ひとり、幽霊の話を気にしていない。
けれど、ひとつ、引っかかったことがある。
「……私たち、まだ一度も、ご主人さまにお会いしていませんよね」
言われて、三人がきょとんとした。
「あっ、ほんとだ」とリリー。
「求人の手紙のやりとりだけで、来ちゃったもんなー」
「どんな方なんでしょうねぇ」とシルヴィア。
雇い主の顔も知らないまま、私たちはこの屋敷で寝起きしている。
考えてみれば、ずいぶん奇妙な話だ。
「この野菜も、ご主人さまあての物ですし。お部屋に置いておきましょう。……まあ、その部屋がどこかも、知らないのですが」
というわけで、私たちは野菜の籠を口実に、まだ足を踏み入れていない屋敷の奥を、探検することにしたのだった。
◇
屋敷は、思っていたよりずっと広かった。
使っている部屋は、ほんの一握り。奥へ進むほど、扉は重くなり、空気は古びていく。
白い埃をかぶった廊下を、ろうそくの灯りを頼りに進んでいく。
「うわー、すごい部屋数。あたしらの故郷のお屋敷より広いかも」
リリーが目を輝かせる。
そのまま廊下を駆け出そうとしたので、私は慌てて襟首をつかんだ。
「走らないでください。床が抜けます。それと、勝手に扉を開けて回らないこと。何が出てくるか分かりません」
「えー、宝物とかあったりしてさ!」
「あるとしたら、ご主人さまの私物です。勝手に触ったら、ただの泥棒ですよ」
「あらあら、こちらのお部屋、素敵な暖炉がありますねぇ」
「……ここ、昼寝によさそう」
ネルが早速、古いソファに沈み込もうとした。
「埃まみれですよ。あとで掃除する場所が増えるだけです、起きてください」
布のかかった家具。色あせたカーテン。使われなくなった食器棚。
どれも上等な品で、かつてこの屋敷が、たいそう栄えていたことを物語っていた。
けれど、人の暮らしの匂いだけが、すっぽりと抜け落ちている。
長いあいだ、誰も住んでいなかったのだ。——あの、優しい気配を除いては。
途中、ある小部屋の前で、私は足を止めた。
そこだけ、妙に空気が違ったのだ。棚には、古いお茶の道具が、まるで今しがた使われたかのように、きちんと並んでいた。ティーポット、揃いのカップ、いくつもの茶葉の缶。よく見れば、ほかの部屋とちがって、埃ひとつかぶっていない。
「……ここだけ、不思議と綺麗ですね」
「気配の子、ここでお茶してるのかも」と、ネルがのんびり言う。
「幽霊も、お茶を飲むんですか」
「……飲むよ。たぶん。いい香りのする部屋は、落ち着くもん」
誰よりお茶を愛するネルが言うと、妙な説得力があった。
そういえば、夜のケトルがいつも温かいのも——と、私はふと思った。
◇
奥まった一室の扉を開けたとき、私は思わず足を止めた。
書斎のような部屋だった。古い書物が壁一面に並び、大きな机が中央に置かれている。
そして、その机の向こうの壁に——1枚の、肖像画が掛かっていた。
色褪せた古い絵。額には品のいい銀の縁取り。描かれているのは、ひとりの女性だった。
ゆったりとした古い時代の衣装に身を包み、手には一輪の花を持っている。聖職者のような、それでいて、ちっとも気取らない佇まい。背景には、見覚えのある景色——この屋敷の、庭らしきものが描かれていた。今より、ずっと若い木々の庭が。
つまりこの人は、かつて、この屋敷に住んでいた人なのだ。
はっきりとした顔立ちは、年月のせいでぼやけている。けれど、その目もとだけは、不思議と優しかった。こちらを見つめて、今にも微笑みかけてきそうな——そんな、あたたかいまなざし。
「綺麗な人ですねぇ」シルヴィアがうっとりと見上げる。
「ご主人さまの、ご先祖さまかな?」とリリー。
誰だろう。いつの時代の人だろう。絵の下に名を記した札があったはずの場所は、すっかり剥がれ落ちていて読み取れなかった。
その時だった。
ネルが、つかつかと肖像画の前まで歩いていって、じっと見上げた。眠たげな半目を、めずらしく、まんまるに開いて。
「……この人だ」
「えっ?」
「お屋敷の子。ずっと、ここにいる子。……この絵の人と、おんなじ気配がする」
しん、と部屋が静まった。
ネルは肖像画に向かって、小さく首をかしげる。
まるで、絵の中の人と、目で会話しているみたいに。
「……うん。ずっと、待ってたんだって。誰か来てくれるの。さみしかったんだって。でも、もう、さみしくないって」
その言葉に、私の胸の奥が、きゅう、と鳴った。
誰か来てくれるのを、ずっと待っていた。さみしかった。
——それは、なんだか、他人事とは思えない言葉だった。
居場所をなくして、ここへ流れ着いた私たちと、どこか似ている気がして。
ろうそくの炎が、ふいに、ふわりと揺れた。風もないのに。
けれど、こわくはなかった。
むしろ——絵の中の優しいまなざしが、ほんの少し、やわらいだような気さえした。
「ありがとうございます」
気がつけば、私はまた、頭を下げていた。
誰にともなく。この屋敷を、私たちのために、ずっと整えてくれていた、誰かに向かって。
◇
その夜、村人がくれた野菜は、見事な煮物になった。
大根はとろとろに味が染みて、リリーは三杯おかわりし、ネルでさえ珍しく箸が進んでいた。
お腹が満ちて、報告会のお茶になった頃、私はみんなに切り出した。
「あの肖像画の方が、どなたなのか。それに、屋敷の〝気配〟のこと。一度、ご主人さまに伺ってみたいですね」
「だねー。気配の子も、ご主人さまのこと、知ってそうだし」
「でも、その肝心のご主人さまが、いついらっしゃるのか……」
誰も答えを持っていなかった。
手紙の主は、いつ帰るとも書いていなかった。村人ですら、めったに姿を見ないという。
私たちが今いるこの屋敷の、本当の主は——どうやら、ずいぶんと、つかまえどころのない人物らしい。
「……まあ、いっか」と、ネルがあくびをした。
「いつか、帰ってくるでしょ。気配の子も、待ってるみたいだし」
いつか。
その「いつか」がいつ訪れるのかは、誰にも分からない。
顔も知らない主と、肖像画の優しい人。
——この屋敷が、まだたくさんの謎を抱えていることを、このときの私は、まだ知らなかった。




