第31話『穏やかな日の片隅で』
長雨がようやく上がった朝だった。
窓を開けると洗われたような青い空が広がっていた。雨に濡れた木々が朝日を浴びてキラキラと光っている。森のほうからは久しぶりに小鳥たちの賑やかなさえずりが聞こえてきた。
——いつもの朝だ。
私はいつものように夜明けと共に起き出して家事に取りかかった。昨日までの雨で洗濯物がたまっている。たっぷりの水で洗って庭に干していく。
不思議なもので私の干した洗濯物はいつもやけに早く乾く。今日も、午前の内にはすっかりふっくらと乾いてしまうだろう。きっと、この屋敷の庭は日当たりがよほどいいのだ。
台所ではシルヴィアが朝のパンを焼いていた。
「おはようございます、クロエさん。いいお天気になりましたねぇ」
「ええ、本当に。薬草園の草木も喜んでいるでしょうね」
「ふふ、そうなんです。雨上がりは、植物がいちばん、生き生きする時間ですから。後でたっぷりお世話してきます」
居間の方からパタパタと足音がする。リリーだ。
「おはよー! うわ、いい天気! よし、今日は、薪割りはかどりそうだー!」
朝から元気いっぱいである。
そして——いつものようにネルの姿はない。
「……ネルは、まだ寝ているんですか」
「あらあら。さっき、起こしに行ったんですけど。『あと五回ねる~』って」
「五回……」
相変わらずだった。けれど、その相変わらずさが今朝は、なんだか、ひどく愛おしく感じられた。
窓辺を通りかかった時、私はふと足を止めた。朝日の差し込むその光の中に、あの優しい気配がいるような気がしたのだ。
「……おはようございます」
誰にともなく、そう声をかける。
すると、カーテンが風もないのにふわりと揺れた。まるで「おはよう」と返すように。
昨日まで、ただ不思議だったモノが今は、ちゃんと私たちの家族の一員だった。
◇
午後、私はシルヴィアと連れ立って村へ下りた。
薬草園で採れた薬草をマレーナのところへ届けるためだ。雨上がりの坂道は少しぬかるんでいたけれど、空気はすがすがしく澄んでいた。
村に着くと、子どもたちがわっと駆け寄ってきた。
「クロエお姉ちゃーん!」
先頭は、もちろんミナだ。栗色の髪を揺らしながら、満面の笑みで抱きついてくる。
「ミナ。元気そうですね」
「うん! あのね、絵、お部屋に飾ったの! クロエお姉ちゃんたちの絵!」
あの四人と子どもたちが手をつないでいる絵。隅に丸い猫の描いてあった、あの絵だ。
「それは、嬉しいです。大切にしてくださいね」
ミナの後ろからニコもやってきた。相変わらず、ツンとすました顔で。
「べ、別に、おれは絵なんか飾ってないけどな」
そう言いながら、その手にはしっかりと丸めた画用紙が握られている。たぶん、自分の描いた絵をこっそり持ち歩いているのだろう。私は気付かないフリをして微笑んだ。
子どもたちとしばらくはしゃいでいると——足元に、ふわりと何かがすり寄ってきた。
村で飼われている一匹の猫だった。
茶色い縞模様のまるまるとした猫。私の足にごろごろと頭をこすりつけてくる。
「……まあ」
私は思わずしゃがみこんだ。そのやわらかな背中をそっと撫でる。
ごろごろと喉を鳴らす音が手のひらに伝わってきて——なぜだか、胸がきゅうとなった。
「あらあら、クロエさん。猫がお好きなんですか?」
「い、いえ。べつに、そういうわけでは……」
私は慌てて立ち上がった。けれど、その名残惜しさは隠しきれなかったかもしれない。
マレーナの宿屋に薬草を届けると、しわがれた声で迎えられた。
「おや、いつもすまないね。あんたらの薬草はよく効くって評判だよ」
そして、マレーナはふと思い出したように言った。
「そういや、最近、隣村から行商がよく来るようになってねえ。獣騒ぎがおさまったってんで、街道も、また賑わってきたんだろうさ」
「行商、ですか」
「ああ。あちこちの噂話を運んでくるよ。まっ、大抵は与太話だがね」
マレーナはカラカラと笑った。私は特に気にも留めず、相槌を打っただけだった。
帰り道、坂を上りながら私はふと村を振り返った。
夕日に染まる小さな村。子どもたちの笑い声。畑を耕す人の影。なんでもない、辺境の暮らし。
——この光景を、守りたい。
心の底からそう思った。誰かに命じられたからではなく。自分がここを大切に思うから。
それは、半年前の私には想像もできなかった気持ちだった。
◇
屋敷に戻ると、もう夕暮れだった。
いつものように、四人でお茶を囲む。今日のお茶とお菓子の時間。一日の出来事を報告し合う、私たちのささやかな儀式だ。
「今日は薪をたんまり割ったぜ! これで冬の分までばっちりだ!」リリーが得意げに胸を張る。
「あらあら、それは頼もしいですねぇ。わたしは薬草園のお手入れを。雨上がりでグングン育っていましたよ」
「私は村へ。子どもたちが元気そうで何よりでした」
ネルはというと、お茶を淹れながら、ふあ、とあくびをひとつ。
「……わたしは、おひるねした」
「ネル。あなた、それしかしていないのでは……」
「……お茶、淹れた。じゅうぶん、はたらいた」
「あらあら。確かにネルさんのお茶は何にも代えがたいですからねぇ」シルヴィアがふふ、とフォローする。
「だよなー。ネルのお茶、飲んだら、もう、他のは飲めないもん」リリーもうんうんとうなずいた。
「……でしょ」ネルがふふんと、めずらしく得意げに鼻を鳴らす。
その堂々としたサボりっぷりに思わず皆で笑ってしまった。
窓の外では空がゆっくりと、茜色から藍色へと染まっていく。温かいお茶をすすりながら、私はふと、思った。
——これが、私たちの暮らしだ。
なんでもない一日。誰かを助けたわけでも大きなことを成し遂げたわけでもない。
ただ家事をして、村へ行って、お茶を飲む。それだけの一日。
けれど、そのなんでもなさが今は何より愛おしかった。
誰も口には出さなかった。けれど、四人とも、きっと同じことを思っていた。
ずっと、ここにいよう。
このなんでもない暮らしを、ずっと、ずっと、続けていこう、と。
◇
お茶を飲み終えて、私は片づけをしようと窓辺に立った。
藍色に暮れていく空。その下に村の灯りがポツポツと灯り始めている。
穏やかないつもの夕暮れだった。
——けれど。
ふいに、私は言葉にならない小さな予感を覚えた。
遠い街道のずっと先。夕闇のその向こうから、何か——まだ形にならない何かがこちらへゆっくりと、近づいてくるような。そんな気配がした。
胸の奥がわずかにざわつく。
「……クロエ?」
ネルが不思議そうに私を見た。ネルもまた何かを感じ取ったように、書斎のほうをちらりと見やる。あの優しい気配がほんの少しそわそわと揺れているような気がした。
「……いえ。なんでもありません」
私は首を横に振った。
きっと、気のせいだ。今日は、こんなにも穏やかで平和な一日だったのだから。
そう思い直して、私はカーテンを閉めた。
そのささやかな予感が、やがて何を運んでくることになるのか。
このときの私はまだ、知る由もなかった。




