第32話『噂は風に乗って』
昨夜のあの小さな予感は——朝になってみれば、すっかり、どこかへ行ってしまっていた。
今日も辺境の屋敷には、いつもどおりののんびりした一日が訪れていた。
朝の家事を一通り終えて、私たちはいつものようにお茶の時間を迎えていた。
「ねえねえ、聞いてよクロエ! さっき薪割りしてたらさ、斧がすっぽ抜けて——」
「リリーさん。まさか……また、何か壊したのではないでしょうね?」
「だいじょぶ、だいじょぶ! 木に刺さっただけ! ……ちょっと深めに、だけど」
「深めに……」
一体、どれだけ深く刺さったのか。考えるのはやめておこう。
シルヴィアは今日も、ご機嫌でお菓子を焼いている。
「今日は、村で頂いた蜂蜜で焼き菓子を作ってみました。我ながら上出来です」
ネルはというと、お茶を淹れた後、もうテーブルに突っ伏して船をこいでいた。
「ネル。お菓子、食べないんですか?」
「……んっ……五分後に、おきる……」
「五分後には、リリーさんに全部食べられていますよ」
「……!」
ぱちっとネルが目を覚ます。お菓子のことになると、起きるのがやけに早い。
「はむっ……このお菓子、おいしい」目を覚ますなり、ネルが早速、焼き菓子に手を伸ばす。
「あっ、ネル、ずるい! あたしの分も残しといてよ!」
「……はやいもの勝ち」
「うー、ネルの癖にこういう時だけすばしっこい!」
お菓子を巡って、ワイワイと騒ぐ二人を見て、シルヴィアが楽しそうに笑った。
「あらあら。たくさん焼きましたから。喧嘩しなくても大丈夫ですよ」
私はやれやれと肩をすくめながらも、その賑やかさに、つい頬がゆるんでしまう。
——いつもの朝だ。
昨夜感じたあの予感のことなど、私はもうすっかり忘れていた。
◇
午後、買い出しに村へ下りると。
広場では、旅の行商人たちが何やら噂話に花を咲かせていた。
獣騒ぎが収まって以来、街道を行き交う人がずいぶん増えたのだ。
「——でな、この先の、ずっと奥の辺境に、とんでもないメイドたちがいるって話でよ」
「とんでもないメイド?」
通りかかった私は思わず足を止めた。
「ああ。何でも、獣の群れを手なずけた上に、枯れた森を一夜で緑によみがえらせたとか。雷を自在に操る娘もいるらしいぞ」
「へえ! まるで、おとぎ話だねえ」
「だろう? まあ、どこぞで小耳に挟んだ話だ。話、半分に聞いときゃいい」
旅の者たちはカラカラと笑っている。
……雷を操る娘。獣を手なずけ、枯れた森をよみがえらせる。
なんだか、聞き覚えのあるような、ないような。
私は首をかしげた。けれど、すぐに思い直す。
——まさか。そんなおとぎ話みたいなこと。
隣を見ると、いっしょに来ていたリリーもキョトンとしていた。
「すっごいメイドもいたもんだねえ! あたしたちも見習わなきゃ!」
「……ええ、そうですね」
どうやら、リリーも自分のことだとは、これっぽっちも思っていないらしい。
マレーナの宿屋に寄ると。しわがれた声で、からかうように迎えられた。
「おや。村で噂のすごいメイドさんがおいでだよ」
「噂、ですか?」
「ふふ。さっき行商から聞いたんだよ。辺境に規格外の聖女くずれが四人いるってねえ」
規格外の聖女くずれ。四人。
その言葉に、今度こそ私はドキリとした。
「……それは、一体、どこの話なんでしょうね」
「さあて。どこの話だか」
マレーナは意味ありげに笑った。
その目はすべてを見透かしているようでいて、けれど何も言わなかった。
「まっ、噂ってのは風に乗ってどこへでも飛んでいくもんさ。……いいことも、わるいことも、ね」
◇
屋敷に戻る坂道で。
リリーがのんきに言った。
「しかし、すごいメイドもいるもんだなー。あたしも、もっとがんばろっと!」
「リリーさん。あなたは、もう十分がんばっていますよ」
私は思わずふっと笑った。たぶん、その「すごいメイド」はあなたのことなのですけれど。
——とは、言わずにおいた。言ったところで、きっと信じないだろうから。
屋敷に着くと夕暮れだった。
いつものように、四人でお茶を囲む。窓の外では、夕日が村をやわらかく染めている。
半年前。
私はハズレと呼ばれ、行き場をなくして、この辺境の屋敷に流れ着いた。
たった一人だと思っていた。自分だけが〝何の取り柄もない出来損ない〟なのだと。
けれど、今はどうだろう。
隣には、シルヴィアがいて、リリーがいて、ネルがいる。
村には、ミナや、子どもたちや、ゴルドや、マレーナがいる。
屋敷には、あの優しい気配がいつも見守ってくれている。
——ここに、いていいんだ。
あの雨の夜、ようやく受け取れたその言葉を。私はもう一度、胸の中でそっと繰り返した。
「クロエさん? どうか、しましたか?」
「……いえ。なんでもありません」私は微笑んだ。「ただ——ここが、好きだな、と。そう思っていただけです」
「あらあら。ふふ、わたしもですよ」
「あたしも!」
「……わたしも」
四人で顔を見合わせて笑う。
窓辺のカーテンが夕風にふわりと揺れた。
あの優しい気配もきっと同じ気持ちで、私たちを見守ってくれているのだろう。
明日も、きっと、こんな一日が続く。
朝、洗濯物を干して。シルヴィアがお菓子を焼いて。リリーが薪を割って。ネルがお茶を淹れて——そして、お昼寝をして。村へ行けば、ミナたちが駆け寄ってくる。
ただ、それだけのなんでもない日々。
けれど、そのなんでもなさこそが、私たちが長い間、探し求めてきた――たったひとつの宝物だった。
なんでもない、けれど、かけがえのない夕暮れだった。
私たちはずっとここにいる。この温かい場所で。のんびりとメイド生活を続けながら。
◇
辺境を遠く、遠く、離れた、とある街道沿いの宿場。
旅人や行商で賑わう酒場の片隅で。一人の人物が隣の卓の行商の話に何気なく耳を傾けていた。
「——でな、その辺境のメイドってのが、まあ、規格外でよ! 中でも金色の髪の娘がすごいらしい。雷をばちばち落として獣の群れをひとにらみで蹴散らしたとか!」
「ははっ、まさか。雷を操る聖女なんて、もう何年も前に大聖堂を追われたきり——」
行商の何気ない、その一言。
その瞬間。
話を聞いていた人物の酒杯を持つ手がぴたりと止まった。
金色の髪。雷の力。大聖堂を追われた——。
ゆっくりと、その人物は顔を上げた。
「……今、なんと言った?」
「えっ? いや、ただの噂話で……」
「その娘の話をもっと、詳しく聞かせてくれ」
その声には、抑えきれない何かが滲んでいた。
突然の真剣な声色に、行商はすっかり面食らった様子で。それでも、知っていることをぽつぽつと語りはじめた。
辺境のローエンド地方。
森の縁に、ひっそりと建つ古い屋敷。
そこに暮らす、四人の若いメイドたち。
その人物は一言も聞き漏らすまいと、じっと耳を傾けている。
そして、独り言のように呟いた。
「……間違いない。『あの娘』だ」
次の瞬間、その人物は酒杯を卓に置き、誰かに報せるべく足早に席を立った。
雑踏の中へと消えていく、その背中にはもう迷いはなかった。
——噂は風に乗って。
辺境の小さな幸せのことなど、何も知らずに。
それは、思いもよらない、誰かのもとへと届いてしまった。
穏やかな日々のすぐ、すぐそばまで。
新しい風がもう吹きはじめていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『ハズレ聖女四人、辺境の幽霊屋敷でのんびりメイド暮らし』、これにて第一部・完結です。
最終話で吹きはじめた「新しい風」が彼女たちのもとへ何を運ぶのか——物語はまだまだ続きます。
本作は『第1回ブシロードワークス小説大賞』に応募しており、第二部の更新は、その結果が出ましたら始めさせていただく予定です。
それまでどうかのんびりとお待ちください。
★評価やブックマーク、ご感想が続きを書く大きな励みになります。
それでは、また続きでお会いできる日を楽しみに。




