第29話『みんながいると安心する』
ミナはしばらく、もじもじとスカートの裾をいじっていた。
言いたいことが上手く言葉にならないらしい。私は急かさずに、ただ待った。
やがて、意を決したようにミナは口を開いた。
「……あのね。みんながいると安心するの」
足元を見つめたまま、小さな声でそう言う。
私はその言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「安心、ですか?」
「うん」ミナはこくりと頷いた。「獣が来て、村のみんな、逃げちゃったでしょ。ミナ、すっごくこわかったの。夜、ねむれないくらい」
「……ええ」
「でも、クロエお姉ちゃんたちは逃げなかった。残るって言ってくれたでしょ?」ミナはようやく顔を上げた。「だから、ミナ、安心したの。お姉ちゃんたちがいれば、だいじょうぶって」
そのまっすぐな目を、私は見つめ返すことしかできなかった。
「お姉ちゃんたちがいると村があったかいの。お祭りもすっごく楽しかったし。井戸のお水もおいしくなったし」ミナは指を折りながら、ひとつずつ数えていく。それから、はにかむように笑った。「だから……ずっといてくれたら、いいなって」
——ずっといてくれたら。
その言葉が私の胸の思いがけず深いところにストンと落ちた。
獣を鎮めてすごい、ではなかった。誰かを助けてえらい、でもなかった。ただ——そばにいてほしい。この子は何の飾りもなくそう言ったのだ。
「ミナは……私たちがこわくないんですか?」
思わずそう訊いていた。ずっと、誰かに訊いてみたかったことだったのかもしれない。
「こわい?」ミナはキョトンと首をかしげた。「なんで? クロエお姉ちゃんたち、やさしいよ。お菓子くれるし、いっしょに踊ってくれるし!」
「なんで?」と心の底から不思議そうに訊き返される。
そのまっすぐな問いに、私は言葉を失った。
「……ありがとう、ミナ」
私はできるだけいつもの声で言った。膝を折ってミナと目線を合わせる。
「もう遅いですから、気をつけてお帰りなさい。お家の人が心配しますよ」
「うん! ……あっ、絵、ちゃんと飾ってねー!」
ミナはぱっと笑顔になって、夜道を駆けていった。栗色の髪がぴょこぴょこ揺れる。その後ろ姿が家々の灯りのほうへ消えていくまで私はずっと見送っていた。
◇
戸を閉める。
けれど、私はすぐにはその場を動けなかった。
——みんながいると、安心するの。
ミナのあの飾らない一言が耳の奥で何度も繰り返される。
聖具に何の反応も示さなかった私は。
「才なし」「ハズレ」と告げられて大聖堂を追われた身だ。
行く先々で遠巻きにされ、声をひそめて噂された。
私がいることで誰かが安心する——そんなこと考えたこともなかった。
むしろ、逆だと思っていた。私がいると人は不安になる。気味悪がる。そういうものだと、ずっと思い込んでいた。
なのに。
あの小さな子は何の打算もなく、ただまっすぐに言ったのだ。あなたたちがいると安心する、と。しかも——こわくなんかない、と不思議そうに首をかしげて。
胸の奥がじんと熱くなる。それが何という名前の感情なのか、私にはまだ上手く言葉にできなかった。
窓の外では村の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。あの灯りのどれかの下で、ミナももう眠りにつくのだろう。私たちがいれば、だいじょうぶ。そう安心して。
――守らなければ、と思った。
このささやかな灯りのある暮らしを。そして、それをあたりまえに守れる場所に、私たちはもう立っているのだということを——その夜、私はまだ半分もわかっていなかった。
◇
居間に戻ると三人がいた。
なんとなく空気がおかしかった。
いつもなら、宴のあとはリリーが「あー食った食った!」と大の字になり、シルヴィアが食器を片づけながら鼻歌を歌い、ネルが真っ先に船をこいでいる。けれど、今夜は誰もそうしていなかった。
リリーは窓辺に頬杖をついて、めずらしく静かに夜空を見上げていた。
「リリーさん? どうかしましたか」
「んっ? ……ああ、いや。なんでもない」
らしくなく、歯切れが悪い。たぶん、玄関先のやり取りが聞こえていたのだろう。
シルヴィアはいつものようにニコニコと微笑んでいた。けれど、その手はさっきから同じ皿を何度も拭いている。
「……シルヴィアさん。そのお皿、もう、じゅうぶん乾いていると思いますよ」
「あらあら。……ふふ、ほんとうですね」
ネルはお茶の支度をしながら、いつもよりずっと口数が少なかった。
「……ねむ」の一言も今夜はない。ただ、湯気の立つケトルをじっと見つめている。
誰もミナの一言には触れなかった。
けれど——みんな、確かに聞いていた。そして、たぶん、それぞれの胸の中で私と同じように何かを抱えている。
怖がられてきた者。
迷惑をかけると思い込んできた者。
化け物扱いされてきた者。
居場所をなくしてきた者。
そんな私たちが村の小さな子に「ずっと、いてくれたらいいな」と言われた。
その言葉をどう受け止めればいいのか。みんな、まだわからずにいる。だから、こんなにも静かなのだ。
「……なあ、クロエ」
不意にリリーが窓辺から振り返った。何か言いかけて、けれど、結局、言葉を探しあぐねたように口ごもる。
「あたしたちさ……いや、やっぱいい。なんでもない」
「リリーさん?」
「うーん……」
リリーは頭の後ろで手を組んで、天井を見上げた。
「なんかさ。今日、色々ありすぎて。頭、いっぱいなだけ」
そう言って、へへと、らしくないぎこちない笑みをこぼす。
「……わかる」ぽつり、とネルがうなずいた。「……胸、へん。悪くないけど、へん」
「あらあら。お二人とも、おかしな子ですねぇ」シルヴィアがふふ、と笑う。けれど、その笑い方もどこかやわらかすぎて、いつもとは違っていた。
みんな、同じだった。胸の中に同じ名前のわからない何かを抱えて持て余している。
◇
その夜のお茶の時間はいつもとまるで違った。
お茶とお菓子を囲んで四人でテーブルに着く。けれど、いつものにぎやかな掛け合いはなかった。誰からともなく、ぽつり、ぽつりと、当たり障りのないことを口にしてはまた黙る。
「リリーさん、おかわりは?」
「ん……あー、今夜は、もういいや!」
いつもなら、三つも四つも平らげるリリーがめずらしく、一つで手を止めている。
「あらあら。リリーさんが遠慮するなんて。明日は、雨かもしれませんねぇ」
「もう、シルヴィアまでからかうなよー」
ぷう、とふくれてみせる。けれど、その声にもいつもの勢いはなかった。
なぜだろう。
悪いことがあったわけではない。
むしろ、今日はたくさんの人に「ありがとう」と言ってもらえた、良い一日だったはずだ。
なのに、胸の奥がくすぐったくて、こそばゆくて——上手く言葉が出てこない。
ネルが淹れてくれたお茶だけがいつもどおり、じんわりと温かかった。その温かさに、私たちはそれぞれ、そっと口をつける。
四人とも何かを言いかけては飲み込む。そんな夜だった。
胸の奥に、ぽっと灯った、この小さな温かいもの。
それをどう呼べばいいのか。私たちはまだ知らずにいた。




