第27話『四人いれば、なんとかなる!』
村が、空っぽになった朝だった。
昨日のうちに、村人たちは家財を積んだ荷車と共に北の集落へと発っていった。広場も、家々もしんと静まり返り、人の気配がすっかり消えている。たった半年で賑わいを取り戻した村が、また、元の寂しさに戻ってしまったようだった。
——それをなんとかするために、私たちは残ったのだ。
そう覚悟を新たにして、屋敷の玄関を振り返った私は思わず言葉を失った。
「クロエさーん、お弁当、詰めましたよぉ」
エプロン姿のシルヴィアが、大きな籐のカゴを抱えてニコニコと出てきた。
「……お弁当、ですか?」
「ええ。だって、お昼までかかるかもしれませんし。小腹がすいては、いくさはできぬ、と申しますでしょう?」
「いくさ」という物騒な言葉と、ふんわりした口調がまるで噛み合っていない。カゴの中には、こんがり焼けたパイやら、串に刺した焼き菓子やらがきっちりと詰め込まれていた。どう見ても、遠足の支度である。
「……これも持ってく」
見ると、ネルが両手であの大薬缶をよいしょと抱えている。屋敷で一番大きい、お茶用の薬缶だ。
「ネル、それ、持っていくんですか」
「……うん。お茶ないと困る」
「獣を鎮めに行くんですよ。ピクニックではありません」
「……鎮めたあと、お茶、のむ」
もう、決定事項らしかった。
「よーし、準備万端! いつでもいけるよ!」
リリーだけは、唯一、それらしく腕まくりをして気合いを入れていた。けれど、その背中には、なぜか、シルヴィアの予備のお弁当が、しっかりとくくりつけられている。
「リリーさん、それ……」
「あっ、これ? シルヴィアが念のためって! あたし、いちばんよく食べるからさ!」
なるほど。
——これから、村を脅かす獣の群れを相手にしようというのに。
お弁当に、大薬缶に、予備のお弁当。どこからどう見ても、ものものしさとは無縁の、いつものお茶会の出張版だった。私はこめかみを押さえた。
「……まあ、いいでしょう。お腹が空いては力も出ませんしね」
こうして、世にものんびりとした出陣となった。
◇
屋敷を出て、森の縁へと向かう。
道すがらもリリーは鼻歌を歌い、ネルは薬缶を抱えてとことこ歩き、シルヴィアは道端の草に目を留めては「あら、これ、お茶に合いそうですねぇ」などと言っている。緊張感は見事に皆無だった。
けれど——森の縁にさしかかったとき。
空気が変わった。
あの静けさだ。鳥の声も、虫の音もしない、息を潜めたような静寂。それが、いっそう濃くなっている。鼻歌をやめたリリーがごくりと喉を鳴らした。
「……来るよ」
ネルが、ぽつりと言った。薬缶をそっと地面に置く。半目の奥が森の奥を見据えている。
次の瞬間。
ばきり、と木々を割る音がした。
森の奥から獣たちが姿を現した。
——多い。
灰色の体毛に、太く、鋭い爪。狼に似て、けれど、ひとまわりもふたまわりも大きい。それが一頭や二頭ではなかった。茂みを掻き分け、低く唸りながら、次々と姿を見せる。その数に、さすがの私も息を呑んだ。
あの足跡の主が、これほどの群れだったとは。
リリーがぐっと身構える。シルヴィアの顔がこわばる。獣たちの目は、ぎらぎらと飢えて、血走っていた。低い唸り声がいくつも重なって、地を這うように響いてくる。
「……まずは、足止めですね」私は努めて冷静に言った。「リリーさん、お願いできますか。ただし——傷つけないように」
「まかせて! ちょっと、脅かすだけだろ?」
リリーがパチンと指を鳴らした。
次の瞬間、群れのすぐ手前の地面に、青白い雷がバリッと走った。土が爆ぜ、火花が散る。獣たちがびくりと足を止めた。
「……これくらいでいい?」
けろりと、リリーが振り返る。本人は「ちょっと脅かすだけ」のつもりらしいが、その一撃で地面には、黒く焦げた筋が深々と刻まれていた。橋を架けたときと同じだ。この人の「ちょっと」は、いつも私の物差しを軽々と超えていく。
「十分です。——ネル、お願いします」
「……うん」
ネルが、薬缶を置いたまま、とことこと群れのほうへ歩いていった。足を止めて、たじろぐ獣たちの真ん中へ。まるで近所を散歩するみたいに。
「ネル……っ」
止める間もなかった。けれど、ネルは振り返りもせず、両手をゆっくりと差し出した。
「……どうどう。だいじょうぶ。もう、こわくないよ」
あの山羊の時と同じ。低いのんびりした声。
すると——あれほど唸っていた獣たちが、ふっと力を抜いた。ぎらついていた目が、とろんと和らいでいく。荒かった息がすうっと、おさまっていった。一頭、また一頭と、その場におとなしく座り込んでいく。
「……この子たち、おなか、すいてる」ネルがいちばん近い獣の鼻先を撫でながら言った。「森の奥の実りが細っちゃって。……飢えて、こわくて、降りてきただけ」
飢えと怯え。
怒れる獣の群れの正体は、ただ腹を空かせて、おびえただけの森の住人たちだった。
「まあ……かわいそうに」シルヴィアがカゴを置いて、森のほうへ歩み出た。「それなら、わたしの出番ですねぇ」
しゃがみこんで、地面にそっと手をつく。
すると——細っていた下生えが、みるみる、青々と茂りはじめた。木々の枝につやつやの木の実がたわわに実る。枯れかけていた森の縁がひと息に生命力を取り戻していった。「あらあら、ちょっと、はりきりすぎちゃったかしら」と、シルヴィアは嬉しそうに笑っている。
◇
満たされた獣たちはしばらく、私たちのまわりでのんびりと新しい木の実をついばんでいたが、やがて、一頭ずつ森の奥へと帰っていった。去り際、何頭かがネルのほうを名残惜しそうに振り返る。
「……またね」
ネルが小さく手を振った。
——終わった。
あれほど身構えた村の一大事は、拍子抜けするほど、あっさりと片付いてしまった。雷が一発と、ネルのひと声と、シルヴィアのひと茂み。それだけで。
「……ふう。おわった」
ネルがその場にぺたんと座り込む。
「よっしゃー! あたしたち、やったじゃん!」リリーが両手を突き上げた。
「ええ。……皆さん、お疲れさまでした」
張り詰めていたものがほどけて、私はふっと、息をついた。村は無事だった。村人たちが帰ってくる場所は、ちゃんと守られた。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……ねえ。せっかくだし」ネルが薬缶を引き寄せた。「お茶、のも」
「あらあら、それならお弁当も。ちょうどお昼ですしねぇ」
こうして、私たちは、獣を鎮めたばかりの森の縁で、ちゃっかり、お弁当を広げることになった。青々と茂った木陰で、シルヴィアのパイを頬張り、ネルの淹れたお茶をすする。さっきまでの緊張が嘘のようだった。
お茶をすすりながら、私はふと、さっきの奇妙な感覚を思い出していた。
ネルが獣のまんなかに歩み出た、あの瞬間。背中をふわりと、押されるような温かい風が吹いた気がしたのだ。森からではなく、屋敷のあるほうから。きっと、気のせいだろう。そう思って、私はお茶に口をつけた。
——けれど。
ネルだけは、お茶を飲む手を止めて、丘の上の屋敷のほうをじっと見つめていた。
昼下がりのやわらかな光のなか。屋敷の書斎の窓辺に、ゆらりと優しい気配が佇んでいる。こちらを見守るように。そして、安心したように。
ネルは、誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやいた。
「……ありがとう。見ててくれて」
その気配は、ふっと、ほどけるように消えた。
あとには、青い森と温かいお茶と、いつもの四人ののんびりした昼下がりだけが残っていた。




