第26話『逃げる村、残る四人』
ゴルドを居間に通した。
いつもならお茶とお菓子で賑わう席が、今夜ばかりはしんと静まり返っている。シルヴィアが温かいお茶を差し出すと、ゴルドはごつごつした手で湯のみを包み、しばらく黙ったままだった。
「……森の獣のことは、もう聞いとるな」
「はい。今日、村で」私はうなずいた。
「あれは、ただの獣じゃねえ」ゴルドの声は低く重かった。「猟師が何匹も見たそうだ。これまで、森のずっと奥にいたものがまとまって降りてきとる。……このままじゃ、じきに村まで降りてくる」
居間の空気が、ずしりと沈んだ。
「村のもんと夜通し相談した」ゴルドは湯のみに目を落としたまま、続けた。「……いったん、村を空ける。北の集落に、しばらく身を寄せることにした」
逃げる、ということだ。村ごと。
半年前なら、それをどこか他人事のように聞いていただろう。けれど、今は違った。井戸を直し、子どもたちの熱を引かせ、橋を架けた、あの村が丸ごと空っぽになる。そう思うと、胸の奥がざわついた。
「それで——」ゴルドは顔を上げた。無骨な目が、私たち四人をまっすぐに見据える。「あんたらにも一緒に逃げてほしい」
私たちは、虚をつかれて言葉を失った。
「この屋敷は村のどこよりも森に近い。いちばん危ねえ。……あんたらは、もう村の一員だ。あんたらの身に何かあっちゃ、おれは寝覚めが悪い」
ぶっきらぼうな言い方のその奥に、確かな気遣いがにじんでいた。
「……すぐには決められません」私は正直に言った。
「ああ。返事は、明日でいい」ゴルドは、ランタンを手に腰を上げた。「だが——ぐずぐずしてる時間はねえぞ」
戸口で一度だけ振り返り、ゴルドは夜の闇へと帰っていった。
残された私たちはしばらく誰も口を開かなかった。
◇
翌朝、村に下りると、そこはすっかり様変わりしていた。
どの家も戸を開け放して荷づくりに追われている。
荷車に家財を積み込む者。家畜を引いて不安げに空を見上げる者。
祭りの時、あれほど華やいでいた広場は、今、慌ただしい人の出入りでざわめいていた。
私たちは手伝いを買って出た。リリーが重い荷を運び、シルヴィアが年寄りに手を貸し、ネルが——珍しくぐずる赤ん坊をあやしていた。
「……だいじょうぶ。こわくないよ」
低いのんびりした声に、火がついたように泣いていた赤ん坊が、不思議と泣きやんでいく。
「あんたら、手伝ってくれて、助かるよ」荷を縛りながら村の男が言った。「だが、あんたらも早く支度しな。森にいちばん近いんだ、ぐずぐずしてられんぞ」
そのとき、私の袖をくいっと引く手があった。
ミナだった。栗色の髪のいちばん小さな女の子。いつもの元気が、今日はどこにもない。
「クロエお姉ちゃん……みんなで、どっか行っちゃうの?」
「ええ。しばらくの間、ね」
「やだ……せっかく、お祭りでいっしょに踊ったのに」ミナはうつむいて、ぽつりと言った。「クロエお姉ちゃんたちもいなくなっちゃうの?」
その問いに、私はすぐには、答えられなかった。
ニコが、そんなミナの手を引いてぶっきらぼうに言う。
「……ほら、ミナ。父ちゃんが呼んでる。行くぞ」
けれど、ニコ自身も去り際にちらりと私たちのほうを振り返った。何か言いたげに、口を開きかけて——結局、何も言わずにミナの手を引いて行ってしまった。
半年。たった半年で、私たちはこの子たちとこんなにも近くなっていた。
◇
屋敷に戻ったのは、日が暮れる少し前だった。
誰も、すぐには口を開かなかった。台所のテーブルに四人で向かい合って、ただ座っている。
逃げるのが当たり前の選択だった。
私たちは戦う者ではない。森の獣がどれほどのものか見当もつかない。
村長の言うとおり、荷をまとめて、村といっしょに北へ向かえばいい。それがいちばん賢い。
なのに——どうしてか、私の心はその「賢い選択」にうなずけずにいた。
「……あたしさ」
先に口を開いたのは、リリーだった。両手で頬杖をついて、めずらしく静かな声で。
「あたし、残りたい」
「リリー……」
「だってさ。あたし、ずっと、自分の力がこわかったんだ。鐘楼ぶっ壊して、城壁を炭にして……どこ行っても化け物扱いでさ」リリーはふっと笑った。「でも、この村でなら——橋を架けたとき、みんな、喜んでくれた。あたしの力で誰かが笑ってくれたんだ。そんな場所、はじめてだった」
怖がられない場所。リリーがいつか、ようやく見つけた、たったひとつの場所。
「だからさ。その場所を誰かに荒らされるのは、やだ。逃げて見捨てるのも、やだ」リリーは、まっすぐに私を見た。「あたしは、ここを守りたい」
「……わたしも」
ぽつり、とネルが言った。湯のみを両手で包んだまま。
「逃げるの、めんどくさい。……それに、ここ、居心地いいし。お茶もおいしく淹れられるし」脱力した声で、けれどネルははっきりと言った。「……守れるものなら、守ったほうが楽」
「あらあら」シルヴィアが、ふんわりと微笑んだ。「リリーさんも、ネルさんも、ずるいですねぇ。先に言ってしまうなんて」
シルヴィアは、自分の手のひらをそっと見つめた。
「わたしの力は……いつもやりすぎて、迷惑をかけてばかりでした。王城をひと晩で、森にしてしまうくらいに。でも——この村の薬草園は、わたしがうんと、はりきっても、みんな、喜んでくれました」やわらかな声に静かな決意がにじむ。「だから、わたしもはりきりたいんです。みんなが帰ってこられる村のために」
三人の言葉を聞きながら、私は、自分の胸の内をようやく言葉にできた。
——行き場をなくして、流れ流れて辿り着いた辺境。
誰にも怯えられず、ただ暮らせれば、それでいい。そう思っていたはずだった。
なのに、いつのまにか。
この村は、この屋敷は、子どもたちの笑顔は、ゴルドの「ありがとう」は——置いて、逃げられるものではなくなっていた。
「……決まりですね」
私はすっと、立ち上がった。
「私たちは、残ります。そして——この村を守りましょう」
言葉にしてみると、不思議と迷いはなかった。
初めてだった。誰かに命じられたからでも、追い立てられたからでもなく。自分たちの意志で、前に出ると決めたのは。
◇
その夜、私たちは、ゴルドのもとを訪ねた。
まだ起きていたゴルドは私たちを見て、怪訝そうに眉を寄せた。そばには、マレーナの姿もあった。
「……どうした。逃げる支度なら、明日でも」
「いいえ」私は、四人を代表して、まっすぐに告げた。「私たちは、逃げません」
ゴルドの顔がこわばった。
「私たちがなんとかします。——この村の獣のことは、どうか、私たちにまかせてください」
居間に沈黙が落ちた。
ゴルドは、しばらく言葉を失っていた。無骨な顔に、驚きと、戸惑いと、それから——何か別の色がよぎる。
「……あんたら、正気か。相手は獣の群れだぞ?」
「ええ。でも」私は、後ろに並ぶ三人をちらりと見た。リリーは胸を張り、シルヴィアは微笑み、ネルは半目で、けれど、しっかりと立っている。「私たち、四人いれば——なんとか、なりますから」
その言葉に、マレーナが、ふっとしわがれた声で笑った。
「……聞いたかい、村長。ただのメイドが村を守るとさ」
からかうような口ぶりだったが、その目は笑っていなかった。むしろ、何か深いものを見透かすような色をしていた。
「……勝手にしろ、とは言わん」ゴルドは長いため息をついて、ようやく口を開いた。「だが——無茶だけはするなよ」
それは、止める言葉ではなかった。
託す言葉だった。




