第25話『森がざわめいている』
祭りから三日が過ぎた。
あの華やいだ一日が嘘のように、屋敷にはすっかり、いつもの静かな朝が戻っていた。
私はいつも通り、夜明けと共に起き出して家事に取りかかっていた。竈に火を入れ、湯を沸かし、洗濯物を干す。昨日、シルヴィアのエプロンの裾がほつれていたのを繕っておいた。針を通すと、糸はまるで吸いつくようにすうっと布目に収まっていく。
「やっぱり、いい糸だと繕いも楽だ」
私は満足げに、その縫い目を眺めた。村の店で買ったなんということもない木綿糸だ。けれど、近頃、私の繕い物はどうもほつれにくい。きっと布との相性がいいのだろう。
台所に立つと、もうシルヴィアが起きていた。
「あらあら、クロエさん。おはようございます。今朝は、ずいぶんお早いんですねぇ」
「おはようございます、シルヴィアさん。なんだか、目が冴えてしまって」
なぜだろう。昨夜は、いつもより寝つきが悪かった。妙に外の物音が気になって。
お茶を淹れようと窓を開ける。朝の冷たい空気が流れ込んでくる。
——と、私はふと、手を止めた。
静かだ。
いつもなら、この時刻、森のほうから小鳥たちの賑やかなさえずりが聞こえてくる。けれど、今朝は、それがない。森はしんと息を潜めているみたいに静まり返っていた。
「……鳥がいない」
声がしたほうを見ると、いつの間にか、ネルが窓辺に立っていた。寝起きのぼさぼさの髪のまま、半目でじっと森のほうを見ている。
「ネル? めずらしいですね、こんなに早く起きるなんて」
「……なんか、眠れなかった」
ネルは、ふあ、とあくびをして、それきりまた黙って森を見つめた。その横顔がいつもの脱力した様子とはどこか違って見えた。
けれど、私は深くは考えなかった。鳥が鳴かない朝くらいあるだろう。そう思って私は、窓を閉めた。
◇
その日の昼下がり、私はリリーを伴って村へ買い出しに下りた。
「荷物持ちなら、まかせて! あたし、力だけは自信あるからさ!」
リリーが空のカゴを軽々と肩に担いで胸を張る。力だけは、というのは本人にも自覚があるらしい。
坂を下り、村に入ると——なんとなく、いつもと様子が違った。
広場では、男たちが難しい顔で額を寄せ合っている。井戸端の女たちもどこか落ち着かない。子どもたちの姿がいつもより少ない。祭りのにぎわいの名残はもうどこにもなかった。
「なんか、ピリピリしてんね」
リリーが首をかしげる。
顔なじみの店先で、いつもの粉や乾物を買い込みながら、私はそれとなく店の女将に尋ねてみた。
「今日は、村の皆さん、なんだかお忙しそうですね」
「ああ、あんたら、知らないのかい」
女将は声を落とした。
「ここ数日、森がおかしいんだよ。夜になると獣の声がね……それも、一頭や二頭じゃない。ずいぶんと数が多いんだ。山の猟師が言うには、森の奥から何かが降りてきてるんじゃないかって」
森の奥から何かが降りてくる。
その言葉に、私の胸の奥がことり、と小さな音を立てた。
「家畜も落ち着かなくてねえ。鶏は卵を産まないし、牛は夜通し鳴いてる。みんな、気味悪がってるのさ」
ちょうどその時、広場のほうから駆けてくる影があった。
ニコだ。そばかすの顔をめずらしく強ばらせている。
「あっ、クロエ! それと、リリーも!」
「ニコ、どうしたんです? そんなにあわてて」
「べ、別に、あわててなんか……」言いかけて、ニコはぐっと言葉を詰まらせ、それから声をひそめた。「……森に入っちゃダメだって。父ちゃんが言ってた。この前、山羊を探しに行った、あのへん……あそこにでっかい獣が出るって」
山羊を探しに行った、あのへん。
その一言で、私の頭の隅にずっと小さく残っていたものがふいに輪郭を帯びた。
——あの足跡だ。
二つに割れたひづめではなく、太く、鋭い爪をともなった大きな足跡。山羊のものでも、犬のものでも、たぶん熊のものでもない、何か。あれを見たのはもうずいぶん前のことなのに。
「ニコ、教えてくれてありがとうございます」私はできるだけ、穏やかに言った。「お父さんの言うとおり、森には近付かないようにします」
「……うん。クロエたちも気をつけてよ」
強がりのニコが本気で私たちを案じている。それだけで、事の重さがじわりと伝わってきた。
◇
買い出しを終えて、私たちは屋敷への坂道を上っていった。
カゴは粉や乾物でずっしりと重い。けれど、足取りが重いのはそれだけのせいではなかった。
「ねえ、クロエ」
「どうしました、リリーさん」
「森の獣って……この前の、あの足跡と関係あると思う?」
リリーも同じことを考えていたらしい。カゴを担いだまま、めずらしく声をひそめている。
「……分かりません。でも」
坂の途中、森の縁にさしかかった時だった。
私は足を止めた。
——静かすぎる。
今朝、屋敷の窓辺で感じた、あの静けさ。それが、ここではもっと濃い。風が梢を揺らす音も、虫の声も何ひとつしない。森全体が息を殺して、何かに怯えているような、そんな静寂だった。
「……っ」
ふと足元に目が留まった。
湿った土の上に、くっきりと——あの足跡があった。
太く、鋭い爪。山羊のひづめとはまるで違う、大きな獣のもの。けれど、いつか森の奥で見た時と違うことがひとつ。
数が増えている。
一頭ではない。いくつもの足跡が、森の奥から、こちらへ——村のほうへと点々と続いていた。
「……臭いが、濃い」
声に振り向くと、ネルが立っていた。
屋敷にいたはずなのに。いつのまに、ついてきたのだろう。
半目の奥がいつになく真剣だった。
「ネル、あなた、いつから――」
「なんか、気になって。胸が、ざわざわするから」ネルは森の奥をじっと見据えた。「……あの時の臭いだ。森の、ずっと奥の。でも、あの時より、ずっと濃い。……それに」
ネルは、こてんと首をかしげた。
「……声が増えてる」
その一言に、ぞくりと背筋が冷えた。
森の、ずっと奥。木々の影が、何かに押されるようにわずかに揺れた気がした。
深追いしてはいけない。直感がそう告げていた。今の私たちには、森の奥に何があるのか、確かめる術もない。それに——日も傾きはじめている。
「……今日は、帰りましょう」
私は努めて、いつもの声で言った。
「カゴも重いですし、晩ごはんの支度もあります。森のことは……また、改めて」
「……うん」
ネルは素直にうなずいた。けれど坂を上りはじめてからも、一度だけ森の奥を振り返った。
あの時と、同じように。
◇
その夜の報告会は、いつもより口数が少なかった。
シルヴィアの焼いた温かい焼き菓子。湯気の立つネルのお茶。いつもと同じお茶とお菓子の時間。
けれど、漂う空気はどこか張りつめていた。
「夜に獣の声……ですか。それもたくさん」
シルヴィアが心配そうに眉を下げる。
「うん。村のみんな、すっごく不安がってた」リリーが焼き菓子をぱくりと頬張る。「家畜も落ち着かないし、子どもは森に近づくなって言われてるし」
「森の奥から、何かが降りてきている……。猟師の方もそう見ているそうです」
私はお茶をすすった。ネルの淹れたお茶は、こんなときでも不思議と心をほどいてくれる。
「……ねえ」ネルがぽつりと口を開いた。湯のみを両手で包んだまま。「……屋敷も、おちつかない」
「屋敷が?」
「うん。……いつもは、もっとあったかい。夜になると、ケトルが、ひとりでに温くなってたりする。……でも、ここ数日、なんか、そわそわしてる」
屋敷の気配。
書斎の肖像画の、あの優しい女の人の気配を、ネルだけはいつも自然に感じ取る。そのネルが言うのだ。屋敷もそわそわしている、と。
私は湯のみをそっと置いた。
——森にはいろんな獣がいますからね。いつだったか、私はなんでもないことのようにそう言って、お茶をすすった。ただの獣だ、きっとそうに決まっている、と。
けれど、今はもう、その言葉で自分をなだめることができなかった。
◇
報告会がお開きになりかけた、そのときだった。
——とん、とん、とん。
玄関の戸を叩く、硬い音が夜の静けさに響いた。
こんな時刻に、こんな辺境の屋敷を訪ねてくる者などめったにいない。私たちは顔を見合わせた。
戸を開けると、そこに立っていたのは村長のゴルドだった。
手にはランタン。その明かりに照らされた無骨な顔は——祭りの日、果実酒の杯を片手に私たちに「ありがとう」と笑ってくれた、あの時とはまるで別人のように硬く強ばっていた。
「夜分にすまん」
低い声がわずかに震えていた。
「……あんたらに、折り入って頼みがある」




