第21話『家計簿は嘘をつかない』
その月の家計簿は、めずらしく赤かった。
原因は、はっきりしている。
テオが帰ってきた時のちょっとした歓待。
橋の修復に出した材木代の足し。
子どもたちに振る舞ったお菓子の材料。
ひとつひとつは小さくても、積もれば、それなりの額になる。
帳簿をにらんで、私はこめかみを押さえた。
屋敷の蓄えはテオが置いていった当面の生活費と、わずかなお給金が頼りだ。湯水のように使えるわけではない。締めるべきときには締めなければ。
「皆さん。今月は倹約します!」
朝食の席で、私は厳かに宣言した。
「けんやく?」リリーが、首をかしげる。
「無駄な出費を抑える、ということです。薪も、食材も、灯りも、できるだけ節約で。いいですね?」
「はーい」「あらあら、わかりましたぁ」「……ねむ」
返事だけは、いい。
……この時点で、いやな予感がするべきだった。
なにしろこの面々、「ふつう」が、まるで通用しない人たちなのだから。
◇
倹約初日。私の計画は、開始一時間で早くも崩れはじめた。
まず、薪である。
火持ちのいいように、薪を節約して使おう——そう決めた矢先、リリーが「乾いてないと燃えにくいっしょ!」と湿った薪にパチッと雷を落とした。一瞬でからからに乾く。確かに火付きは良くなったが。
「リリーさん……それ、薪の節約になっていますか?」
「なってるよ! ほら、すぐ燃える!」
「雷を使った時点で何かを節約した気がまるでしないんですが……」
次に、食材だ。
保存のきく豆を、少しずつ大事に使おうと思っていたのに、台所を覗くとシルヴィアがニコニコとザルいっぱいの野菜を抱えていた。
「あらあら、クロエさん。お庭のお野菜が、また育ちすぎてしまって。今日は、これを使い切らないともったいないですよぉ」
「……庭が勝手に増えるんでしたね」
倹約も何も、食材が勝手に湧いてくる。締めようにも、蛇口のほうが常に全開なのだ。
ならば、せめて灯りを。日が暮れたら早く寝て、蝋燭を節約しよう——と思ったが、これも徒労に終わった。
「……わたし、もともと、日が暮れる前に寝てる」
ネルが、毛布から半目を出して当然のように言った。
その通りである。ネルにとっては、倹約も何も、生活がもとから省エネなのだ。むしろ見習うべきは、こちらだった。
ならば、と私はせめて自分の担当だけでも、と意気込んだ。繕いものの糸を節約し、洗濯の手間を減らし、無駄なく屋敷を回す。それくらいなら誰にも邪魔されまい。
——が、これも妙なことになった。
破れた前掛けを繕おうと糸を最小限だけ通したつもりが、縫い終えてみると布が縫い目も見えないほどピタリと閉じている。糸をほとんど使っていないのに。
「……今日も、いい布だこと」
うん、と私は納得した。良い道具は糸の節約にもなる。当然のことだ。
洗濯も、井戸の甘い水のおかげか、ひとこすりで汚れが落ちる。石鹸がちっとも減らない。
「井戸の水は本当に倹約家ですね」
感心しながら、私は自分の手のひらを、ちらりとも疑わなかった。私にできるのは、こうして地道に手を動かす家事の工夫くらい。それだけのことだ。
倹約しようとする私だけがあくせくと走り回り、三人はそれぞれの規格外で、私の計画を軽々と無意味にしていく。
……家計簿は、嘘をつかない。
けれど、この面々の前では私の計算もことごとく嘘になるらしい。
◇
それでも、買い出しだけは行かねばならなかった。
塩や油など屋敷では作れないものは村で買うしかない。私は財布の紐をきつく結んで、ひとり、村のよろず屋へ向かった。
「必要なものだけ。実用品だけ。余計なものは買わない」
道々、呪文のように自分に言い聞かせる。
よろず屋に着くと、村長のゴルドが相変わらず無愛想に帳面をつけていた。塩、油、針と糸。私は買うべきものをテキパキとカゴに入れていく。完璧な倹約だ。
——その、はずだった。
会計を済ませようとした、棚の隅。ふと、目が留まった。
小さな陶器の置物。眠っている猫の形をしている。まるい背中に、ちんまりした前足。ぴんと立てた尻尾の先まで、なんとも言えず愛らしい。
(……っ!)
私は思わず足を止めた。
胸の奥が、きゅうと鳴る。手に取って、しげしげと眺めたい衝動をすんでのところで抑えた。
——だめだ。これは実用品ではない。倹約中である。第一、こんな置物を買って、三人に「可愛いものが好きなんですね」などと知られたら、まとめ役の沽券に関わる。クールで有能な常識人が、猫の置物に目を輝かせるなどあってはならない。
「……いりません。実用品では、ないので」
誰に言うでもなく、きっぱりと言って私は置物に背を向けた。
背を向けたのに、なぜか、後ろ髪を引かれる。もう一度だけ、と振り返ってしまう。眠り猫は、相変わらず愛らしく眠っている。
「……気に入ったのかい、それ」
ふいに、しわがれた声がして、私は飛び上がった。
いつのまにか、隣の宿屋から出てきたマレーナがニヤニヤとこちらを見ていた。
「い、いえ。べつに」
「ふぅん? さっきから、三回は振り返っとったがねえ」
「……数えないでください」
「ははっ。可愛い顔して、可愛いもんが好きなんだね、あんた」
からかうように笑うマレーナに、私は耳が熱くなるのを感じた。クールで通っているつもりが、こうもあっさり見抜かれるとは。
「……ち、違います! それより、お会計を」
「まあまあ、そう照れなさんな」マレーナは、おかしそうに目を細めた。「しっかり者のあんたが、猫の置物ひとつで、そんな顔するとはねえ。なんだか安心したよ」
「安心、ですか」
「あんた、いっつも気を張ってるだろう。三人の世話を焼いて、家計をやりくりして。たまには、好きなもんくらい買ったっていいんだよ」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。
好きなものくらい買ってもいい。
——そんなふうに言われたのは、いつぶりだろう。
私はずっと、自分の「好き」を後回しにして生きてきた。役に立つことだけが、私の価値だと思っていたから。
けれど、すぐに私は首を振った。
「……いえ。倹約中ですので」
「強情だねえ」
マレーナが、やれやれと笑う。私は逃げるように代金を払って、足早に店を出た。眠り猫は買わなかった。買わなかったのに——どうしてか、その姿が、しばらく、まぶたの裏に残っていた。
◇
その夜。
買い出しを終え、夕食の片づけも済ませて、私はひとり家計簿に向かっていた。
今日の支出を几帳面に書き込んでいく。塩、油、針と糸。眠り猫の置物の代金はもちろんない。ちゃんと我慢したのだから。
倹約は、まあ、計画通りとはいかなかったけれど。出費は最小限で抑えた。我ながら上出来だ。
満足して、帳簿を閉じようとして——私は、ふと、手を止めた。
帳簿の隅。数字の並んだ、その余白に。
……何か、描いてある。
ふくふくとした、まるい背中。ちんまりした前足。ぴんと立てた尻尾。
——猫だった。
眠っている猫の絵。鉛筆で丁寧に描き込まれた、それは。
数字を書きながら、無意識に手が動いていたらしい。よろず屋で見た、あの眠り猫を思い出していたのだ。
……またか、と思う。気を抜くと、いつのまにか帳簿の隅で猫が眠っている。
「…………」
私は、しばらく、その落書きを見つめた。
いつもなら慌てて消すところだ。——けれど、今日は、消しゴムに伸ばしかけた手がふと止まった。
(……誰も見ていない)
今、この帳簿を見ているのは私だけだ。猫の絵が一匹いたところで家計簿の帳尻が狂うわけでもない。
私は消しゴムを置いた。そして、なんとなく、その猫の絵の頭を鉛筆の先でそっと撫でた。
……まあ、一匹くらいなら。いいことにしておこう。




