第20話『今日は、動かない日』
その朝は、雲ひとつない、絶好の働き日和だった。
洗濯物はよく乾くだろうし、庭の手入れにも、薪の補充にもうってつけ。
私は、朝食の席でいつものように一日の予定を読み上げようとした。
——その、出鼻をくじいたのがネルだった。
「……今日は、動かない日」
毛布にくるまったまま、ネルが低い声で宣言した。
「はっ?」
「……今日は、一日、なんにもしない。そう決めた」
「決めなくていいです。今日はいい天気なんですから、洗濯も庭仕事も——」
「……いい天気だから、こそ」
ネルが、もぞ、と毛布から半目だけ出した。
「あったかくて、気持ちいい。こういう日は無理にがんばらないで、ぼーっとするのがいちばん正しい。働くのは、雨の日とか寒い日でいい。今日は、休む日」
「理屈がめちゃくちゃです」
「……でも、なんか、納得できるでしょ」
できません、と言いかけて、私は口をつぐんだ。
何故だかできてしまった。少しだけ。それが悔しい。
「だいたい」と、ネルは、毛布の中からぼそぼそ続けた。「みんな、働きすぎ。シルヴィアは庭を育てすぎるし、リリーは薪を割りすぎるし、クロエは全部やりすぎ。……たまに、ぜんぶ止めないと、いつか、ぱきっと折れる」
「人を枯れ枝みたいに言わないでください」
「……枯れる前に休むの。それが、わたしのお仕事」
休むのが仕事、とは。そんな仕事があってたまるか、と思う。
けれど、荒ぶるものを鎮めて休ませるのがこの子の力だと思えば——案外、的を射ているのかもしれなかった。
◇
「動かない日、いいねー!」
まっさきに賛同したのは、もちろんリリーだった。
「あたし、さーんせい! 今日はだらだらしよーぜ!」
「リリーさん、あなたはじっとしていられない人でしょう」
「だからこそ、たまにはダラダラする練習が必要なんだって!」
言うが早いか、リリーは床にごろんと寝転がった。三秒後には「うー、暇!」と転がり回りはじめたが本人はだらけているつもりらしい。
「リリーさん、だらだらするのと転がり回るのは別物ですよ」
「だって、暇なんだもん! ……ネル、どうやったら、そんなにじっとしてられるの?」
「……才能」
「才能なんだ!?」
「……あと、修行。十年くらい」
「十年も修行したくないよ!」
ネルは、もう答えるのも面倒になったのか、「ふわぁ」とあくびをして毛布の奥へ引っ込んでしまった。リリーは、しばらく一人で転がっていたが、やがて疲れたのか大の字になって動かなくなった。図らずもだらける事に成功している。
シルヴィアはというと、「あらあら、それなら、お茶請けだけ用意しておきますねぇ」とのんびり台所へ立ち、お菓子を皿に盛って戻ってきた。あとはもう、何もしない。窓辺の椅子に腰かけて、日向ぼっこをしている猫のような顔でゆったりと目を細めている。
——気づけば、私だけが、ほうきを持って立っていた。
「……みなさん。私は、掃除を」
「……クロエも、おいで」
ネルが、毛布の隙間からぽんぽんと隣の床を叩いた。
「ここ、あったかい」
「私は、やることが」
「……やることは、明日もある。でも、今日のいい天気は、今日しかない」
その一言が、妙に、胸に刺さった。
やることは、明日もある。けれど、今日という日は今日しかない。
……ずるい人だ。脱力しているだけのくせに、ときどき、こういうはっとすることを言う。
私は、しばらくほうきを握ったまま立ち尽くし——やがて、ため息をついて、それを壁に立てかけた。
「……今日だけですからね」
「……うん。今日だけ」
そうして、私もだらける側に回ったのだった。
◇
何もしない午後、というのは、思いのほか長かった。
四人で暖炉の前にめいめい寝転がってぼんやりと過ごす。シルヴィアの焼き菓子をつまみ、ネルの淹れたお茶を飲み、とりとめのない話をしてまた黙る。窓から差し込む日が、ゆっくりと床の上を移っていく。
ネルは、お茶を淹れるときだけ、すっと起き上がる。誰に頼まれたわけでもないのに、湯の頃合いを見て葉を蒸らし、四人ぶんを淹れて、また寝転がる。「動かない日」のはずなのに、お茶のためなら動くのが、この子らしかった。
「ネル、それは動いていますよ」
「……お茶は、別腹」
「前にも、それを聞いた気がします」
たわいないやりとりが、ぽつぽつと続いては途切れる。沈黙すら心地よかった。
不思議と退屈ではなかった。
リリーは、さすがにじっとしていられず、途中で何度か起き上がってはまた寝転がるのを繰り返していた。そんな彼女を、ネルが半目で眺めていた。
そして、ふいに、なんでもないことのように口を開いた。
「……リリー。橋のこと、まだ考えてる?」
リリーの動きが、ぴたりと止まった。
私は、内心ではっとした。昨夜の、あの静けさのことだ。ネルは、ちゃんと見ていたのだ。
「……別に、考えてないよ」
「……うそ」
「うそじゃないって」
「……怖がられないの、うれしかった?」
ネルは、毛布にくるまったまま、ぽつりとそれだけを聞いた。
責めるでも、慰めるでもない。ただ、天気の話でもするみたいな、いつもの気の抜けた調子で。
リリーは、しばらく黙っていた。
それから、ごろんと仰向けになって、天井を見上げたまま小さく言った。
「……うん。うれしかった」
ぽつり、ぽつりと、言葉がこぼれる。
「あたしさ、ずっと怖がられてばっかりだったんだ。雷出すたびに、みんな逃げてさ。危ないから来るなって。……だから、橋架けたときも、『ああ、また逃げられる』って思ったんだよ」
「……でも、逃げなかった」
「うん。みんな、笑ってくれた。ありがとうって言ってくれた。あんなの初めてで……なんか、どうしたらいいか分かんなくなっちゃって」
リリーは、ぐしゃと前髪をかき上げて、照れたように笑った。
「ずっとさ、力なんて無いほうがいいって思ってたんだ。こんな雷、持って生まれなきゃ、誰にも怖がられなかったのにって。……でも、昨日、ちょっとだけ思っちゃった。この力でも良かったのかなって。誰かの役に立てたのかなって……へへ、変だろ。嬉しいのに泣きそうになってさ」
「……変じゃないよ」
ネルは、あくびをひとつして、それから、いつもの調子で言った。
「うれしいときに泣きそうになるのは、ふつう。……ためてた分が出ていくだけ。だから、出しちゃえばいい」
その、なんでもない一言に。
リリーが、ふっと息を吐いた。胸の奥につかえていた何かが、すとんと軽くなったみたいに。
「……そっか。出しちゃえばいいのか」
「……うん。寝て、出すのもあり」
「それはネルだけだって!」
リリーが、けらけらと笑った。
いつもの明るい笑い声だった。昨夜の静かな影は、もう、どこにもなかった。
◇
夕暮れになっても、私たちは、結局、何もしなかった。
洗濯物は溜まったままだし、庭も手つかず。家計簿も今日は一行も書いていない。
なのに——不思議と満ち足りた一日だった。
日が傾いて、窓が茜色に染まる頃、私はだらけきった三人を眺めながら思った。
毎日がこれでは、さすがに屋敷は回らない。
けれど、たまには——本当に、たまにはなら。こういう、何もしない一日も悪くないのかもしれない。
思えば、今日は誰も何もしでかさなかった。庭はジャングルにならず、魚は気絶せず、橋も落ちなかった。ただ、四人でぼんやりと日を浴びていただけ。けれど、その何でもない時間の中でリリーの胸の重しがひとつ軽くなった。
いちばん力の抜けた宣言で、いちばん肩の凝った子の荷物をそっと下ろしてみせる。
この脱力した藤色の髪の子は、ときどき、誰よりも優しいのだ。本人は、ただ眠いだけというような顔をしているけれど。
「……ネル」
「……ん?」
「明日は、ちゃんと働いてくださいね」
「……善処する」
どこかで聞いた、頼りない返事だった。




